第五十二話 選択の理由
あの騒動があったはずのブライス伯爵家は、一夜明けた今、酷く静かだった。
まだ朝とはいえ、あれほど屋敷にいたはずの使用人たちが一人も歩いていない廊下を、私は走る。
圧倒的人数で制圧しようと迫った騎馬、統率されていたとはいえ武装した大柄な兵士たち、それらが一切いない広い屋敷は、まるで時が止まったかのようで、廃墟のようにも感じられた。
けれども本邸の方に入ると、ちらほらと兵士たちが行き交っている。
走り抜ける私を見てぎょっとしているけれど、止めることまではされなかった。昨夜の殿下と並んでいたのを見られているので、どう対処したらいいのか判断がつかないのだろう。
そんな兵たちの困惑をいいことに、私はかつて忍び込んだ領主の執務室の方へ向かった。
殿下がいるなら、そこに違いない。
例えいなくとも、ヴィンセント様か少なくともバギンズ子爵の誰かは捕まるだろう。
そうしてたどり着いた執務室前にはさすがに兵士が立っていて、走り込んでくる私を見て止めようとしたのだけれど、それをすり抜けて飛び込んだ。
するとそこに居たのは、殿下とその向かいに座るお母様とレスター、それから殿下の横にはヴィンセント様と、なんとベルゼ王まで。まさに勢揃いといった顔ぶれだった。
私が飛び込んで来たせいか、みな一斉にこちらを見て驚いていた。
乱れた息を整えていると、お母様が席を立って私に近づくと、自分が使っていた肩掛けのガウンを私に被せた。
「……コレット、ここまで寝間着で来たのですか?」
そう問われて、ハッとする。
頭から被れるようなふわりとしたワンピース姿から、何も履いていない素足が見えている。 一斉に顔を背ける男性陣を前に、少々赤くなりながらお母様の貸してくれたガウンの合わせを掴む。
「いつまでも子供のようにしていては、なりませんよ?」
「はい、お母様」
私の手を優しく取って、お母様は自分が座っていた横に私を導く。
そこに座ると、正面の伯爵のものだったろう執務机に収まる殿下は、まるで罪人を裁く裁判官のように威圧的に見えた。
「殿下、お母様を罪に問わないでください。お母様は、誤解されやすいだけで、優しい人なんです。私のことを実の娘として育ててくれたのは、他の誰でもなくお母様で……」
「コレット」
殿下が私の言葉を遮る。
けれども私にだって引けないものはある。
「私を死んだことにしたのだって、ブライス伯爵から護るためで……」
「コレット、分かってる」
「そうです、分かってるなら……え?」
殿下が呆れたような顔をして、私を見ていた。
「今、我々が話し合いをしていたのは、リンジー=ブライスの罪を問うためではない。コレット、おまえの処遇についてだ」
「……私、ですか?」
きょとんとして周囲を見ると、殿下以外の誰もが、小さく笑っている。
「じゃあ、お母様が罪を告白しに殿下の元へ行ったってのは?」
「本人からの戒告を受けたのは事実だが、コレットの死亡届を受理したことについては、こちらの確認不足もある。それを受理してしまった以上、ノーランド家の取り潰しは制度上の問題であって、策略とは取られない」
「……そう、なんだ」
ほっとしていると、お母様が微笑みながら私の頭を撫でる。その隣はレスターもいて、私は彼の手を握り、そしてもう一方の手をお母様の背に回す。
良かった。ようやく、私の手に大事な家族が戻ってきた。
もう絶対に離さない、失わない。
「だが処遇については、いささか問題がある」
殿下の言葉には、晴れやかな達成感に水を差された気分だった。
「処遇、ですか?」
「ああ、リンジー=ブライスが父親の悪事への加担はないとしても、これまで積み重なった悪評が、事実さえも歪めることになるかもしれない」
「わたくしは、悪者として生涯日陰にいるのはかまわないのですが、それでは今後のブライス領の民と、レスターが困るのです」
お母様が殿下の言葉を受けて言った。
「レスターが?」
「ブライス伯爵と後継者と目されていた長男は、伯爵とともに裁判にかけられ、少なくとも爵位と貴族籍を外されることになるだろう。ブライス領はティセリウス領よりはるかに広い。そこまで陛下直轄地にするわけにはいかず、代理を立ててブライス家関係者が治めることになる。この場合、レスターが適任だろう。だがそこに母とは言え悪評高いリンジーが側にいては、他の貴族だけでなく領民とて納得しないだろう」
「……そんな、じゃあお母様はどうすれば」
そこで口を挟んだのが、ベルゼ国王だった。
「彼女は私が預かろう。シャロンの頼みもあるし、我が娘たちの指南役が欲しいと思っていたところだ」
「……お母様が、ベルゼへ?」
そんな、ようやく取り戻せたと思ったのに?
そう思ったら、急に視界が歪む。どうも最近は、涙腺が壊れたみたい。お母様がからむとこんな風になってばかり。
こぼれるほどではないけれど、潤む目に気づいたお母様が、ハンカチを出して拭いてくれる。まるで子供に戻ったみたいで恥ずかしい反面、強い思いがこみ上げる。
「お母様がベルゼに行くなら、私もついて行く」
その言葉を聞いて、真っ先にため息をもらしたのは殿下だった。
「予想通りというか、コレットらしいというか。今まさに、殿下はそのことについて話し合っていたところだったんですよ」
ヴィンセント様が説明してくれた。
「コレットが選べる方法は二つです。半年……いえ、もう五ヵ月後ですか。ベルゼ王国との和平記念式典までの間を、コレットはリンジー様とともにベルゼで過ごし、ベルゼ国王の親族として身分を手に入れて来訪する。もう一つは、五ヵ月後の式典まではコレット=レイビィとしてここで過ごし、式典後にベルゼに赴きしばらく過ごしてベルゼ国王の親族としての地位を得てから、こちらに戻る」
ヴィンセント様の言葉を、頭の中で整理する。
整理するのだけれども、整理しきれないことがあるんですけど。
「あの、つまりどちらにしても私は、コレット=レイビィではなくなる?」
あ、ヴィンセント様がちょっと困った時に出す笑みが浮かんだ。
「殿下は立太子されます、その殿下が望む相手が、平民のままでは騒乱の元です。今回のことで、貴族たちの勢力図も大きく変動するでしょう。少しでも騒乱の元となることは避けるのは得策。しかもあなたは、その出自を偽るのではなく、回復させるだけでいいのですから」
ヴィンセント様の言いたいことくらい、私だってよく分かる。でも釈然としないのは、そんなことじゃなくて。
すると黙り込んだ私に、レスターが提案してくる。
「なんなら、姉さんもブライス家に養子に入ったらいいんだよ。そうしたら身分もしっかりするよ。なにも隣国へしばらく行く必要ないじゃないか」
どこか勝ち誇ったように言うレスターが、相変わらず可愛くて笑う。
「そうね、レスターとはまた正式に姉弟になるのも悪くないわ。でもそんな戸籍上のことがなくても、姉さんはずっとレスターを愛してるわ。それに、お母様とは離ればなれは嫌よ」
そう言うと、なぜかレスターが悲しそうな顔をする。だがそんなレスターに、殿下が。
「我が国の貴族の婚姻は、当主の了承が必須だったな、いい度胸だレスター? 腐ってもブライス伯爵の孫ということか」
そう言いながら殿下がレスターを睨み、レスターもなぜかそれを受けて視線を返している。いやいや、なんでそこで喧嘩みたいになるのよ。
「とにかく、私が式典までベルゼ王国に行くか、式典以降にするか、どっちがいいかって話なんですね?」
まとまらない話をまとめると、そういう事だろう。
するとヴィンセント様が安堵したような顔だ。
「殿下の希望としては、前者だそうですよ」
「でもそんな急に……陛下にはご迷惑じゃないんですか?」
ベルゼ国王にそう問うと、微笑みながら首を横に振った。
「元より、其方を探させたのは私だ。コレットも、リンジーもいつでも私の庇護下に迎える準備はできている。だから其方の好きに選びなさい」
優しくそう言ってくれた。
私は、どうしたらいいのだろう。
考え込む私の手を、寄り添うお母様がそっと握ってくれる。
お母様とはもう、一刻だって離れたくない。でも殿下は……
じっと私を見つめながら、決断を待ってくれている殿下を見る。
もう彼から逃げないと誓ったあの約束。逃げないでくれと、請われたからだけど、でもそれって……
「殿下と、ちゃんと話をしてからじゃないと、決められないです」
そう言うと、待ち構えていたかのように、すっと立ち上がるお母様。
「そうね、少し急なお話しですもの。ちょうどいいですわ、ランバート様にはわたくしの庭園をご案内いたします。殺伐とした景色ばかりお見せして心苦しい思いをいたしておりましたの」
「ああ、私もバギンズ子爵を見舞いに行かねば。殿下の強行軍に同行したせいで、持病のぎっくり腰を再発させていたんでした。ほら、レスター卿も一緒に」
「え、僕は……」
「いいから、きみも部屋を出る!」
にこやかに案内されるベルゼ国王とは違い、引っ張られて渋々退室していくレスター。
そんな賑やかなやり取りの後、部屋に残された私たちは、しばらく黙ったまま。
話をしたいと言ったのは私で、私から何かを言うべきなのは分かるけど、でも何を言いたかったのかもよく分からなくなって……
悶々としていた私の元に、殿下がやってきた。
お母様とレスターが座っていた長椅子の隣に、足を組んで座った。こうして落ち着いて側にいるのは、なんだか久しぶりかもしれない。そんな風に考えていると、彼の目元のくまに気づく。
「殿下、少しはお休みになったんですか?」
「……今、ようやく一段落したところだ」
「まさか、寝てないんですか? いつから?」
「おまえが出て行った晩から」
ええええ、ちょ、ちょっと待って、それって三晩?
あわあわと慌てていると、殿下が「仮眠は取っている」と笑った。
「笑い事じゃないです、私が言うことじゃないかもですけど……」
「少しでも目を離せば、また秘密を作って消える気がしたからな」
「え……」
殿下が疲れたように背もたれに身を委ね、少しだけ天井を眺めながら息を吐くように呟く。それは、これまでも仕事部屋となった殿下の私室で何度も見た、疲れた姿。
でも、彼の元を去ってから、再会してもこうして二人きりになるまで見せることはなかった姿で。
殿下がこうして気を抜く瞬間を、これまでもたかが私財会計士だった私が、いったい何度見てきたことだろう。
「殿下にとって、私って、何なんでしょう?」
殿下は驚いたように、私に琥珀色の目を向ける。
やっぱり、ちゃんと聞きたい。そう願うことは贅沢だろうか。
「宝冠が反応したから、義務ですか。それとも十年間費やした時間への対価ですか?」
「コレット、違う」
「殿下の継承権を脅かした責任を取らせたいんですよね」
「違う、そうじゃない」
殿下が慌てて姿勢を正し、私の方に向き直った。
そしてすごく真剣な顔と、迷ったような顔、それから何か言いたげで、でも口を引き結ぶ。
「ここで百面相するだけなら、お話しはまた今度ということで……」
「いや、待て、ちょっと待ってくれ」
席を立とうとすると、殿下は慌てて私の肩を押さえて座らせる。
そして殿下は一つ咳払いをすると、目線を泳がせながら呟く。
「宝冠などもうどうでもいい。コレット、おまえと共に生きたい。好きだ、他の誰にも渡したくない。俺の妃になれ」
まさか、そこまで直接言ってもらえるとは思わず、もう答えが出てるはずなのに、喉から言葉が出ない。
「殿下……わ、わたし」
「名を、応えてくれるならば、名を呼んで欲しい」
さっきまでとは違い、真っ直ぐに琥珀色の瞳に見つめられた。
自分でも信じられないくらい、強い感情が胸のなかで暴れだす。照れくさいとか、驚きとか、聞き間違いじゃないかとか、そんな色々な気持ちを押しのけるようにして、嬉しいという感情だけが残っていて。
「ラディス、様」
小さく小さく呟いた名を、当たり前のように拾われ、私は熱くなる頬を手で隠す。けれどもその手を掴まれ、露わになったそこに、そっとキスが降る。
その優しい仕草が、殿下らしくて、あの日の飴のように甘かった。
十年前のあの頃に、お母様とレスター以外で、痩せ細った私を心配してくれたのは、殿下だけだった。本当に甘くて、体にも、心にも、生きる力を与えてくれたあの飴のように。
「私も、大好きです」
ぎゅっと、抱きしめられて腕の中に囚われる。
離れたくない、そう言われているみたいで、私も殿下の背中に手を回す。
殿下が待っていてくれた十年は、私がお母様を求めつづけた十年で。その長さと寂しさを知っているだけに、離れるための決断はそう容易いものではない。
「なぜ殿下は、今すぐ私がベルゼに向かう方を、望むんですか?」
そう問うと、殿下は抱きしめていた腕を緩め、私を見下ろす。
「その方が早く、正式な婚約が結べるからに決まっているだろう」
「でもしばらく、会えませんよ?」
「仕方がない、式典後に行かせた場合、おまえのことだからベルゼに順応して、いつ帰ってくるか分からん」
「それってつまり、信用してないんですね、私のこと」
「どの口が言う?」
前科持ちとしてそう見られているのは仕方がないけど、さすがにここに来て逃げませんってば。
私が不満で頬を膨らませていると、殿下に両手で挟まれてしまった。そしてあろうことか、押し潰されてブサイクになったところで、口づけをされる。
「そもそもベルゼで身分を手に入れなければ、おまえは私財会計士のままだ、こういう事すらできない」
酷い、はじめてのキスが変顔の時だなんて。真っ赤になる私に、殿下は笑った。
だがふと、私はあることに気づく。
「あああーーーっ、忘れてた!!」
そうだ、大事なことを!
「なんだ、急に?」
「殿下、何より大事なことを忘れてました!」
「だからなんだ、いったい」
「私、式典まではフェアリスに居ます!」
「は? 何故!?」
ああ、殿下も忘れていたんですね、思い出して良かったあぁ!
「何故も何も、五ヵ月後は納税申告期限じゃないですか! 会計士が一年で最も忙しい時期ですよ、ベルゼに行ってる場合じゃありません!」
鼻息荒くそう言い切る私に、殿下はその大きな手で顔を覆いながら、天を見上げてため息をつく。
「そうですよ、忘れていたら殿下は脱税犯です。この私が殿下の私財会計士を請け負った以上、これを成し遂げなければ私の存在意義は皆無です!」
あああ、こうしてはいられない。今回の出兵に私財はどう絡むのだろうか、早く、早く戻って帳簿をつけなければ……
そんなことをぶつぶつと呟いていると、なぜか殿下は頭を横に振ってから長椅子に寝転がる。そして頭を私の膝に乗せて、こう言った。
「二時間後に、起こしてくれ。続きはその後だ」
「え、ちょっ、大事な話をしてたのに!」
「……気が抜けた、そういうことだから頼んだぞコレット」
「あ……もう」
私が驚く暇もないほど、あっという間に寝息をたてる殿下。
そんな横顔を見ていると、なんだか私も気が抜けてしまう。
小さく名前を呼んでももう応えないことを確認してから、彼の燃えるような赤い髪に、私はそっと指をからめる。
私を見つけてくれてありがとう。
私の願いを叶えてくれて、ありがとう。
そんな言葉が、二人きりの静かな部屋で、差し込む朝日とともに溶けて消えた。
 




