第五十一話 愛の囁き
ブライス伯爵家の領主館の正門から立派な馬車を乗り付け、悠然と降り立った男性は、とても背が高く美麗な人だった。
私とよく似た色の長い金髪をゆるくまとめ、ベルゼ王国独特の裾の長いゆったりとした白い服を着ていた。まるで伝説の森の精霊王が現れたかのようで、彼がベルゼ国王と知らされていない屈強な兵士たちでさえも、そんな姿をただ者ではないと察して固唾を呑んで見守っていた。
そんなベルゼ王は、我先に出迎えたジョエル=デルサルト卿に声をかけられている。
だがベルゼ王がそんなデルサルト卿を無視すると、馬車を護っていたベルゼ国の兵士や側近らしき者が、間に入って距離をとる。
「さすがに馬鹿ではないようだな」
殿下がそう呟くと、私を促して歩き始める。
それと同時に、ベルゼ国王もまた、まっすぐ私たちの方を目指して歩いてきた。
挨拶が交わせるまでの距離まで来て互いに足を止めた。
ベルゼ国王は、女性と見紛うばかりの美しい顔立ちだったけれども、その眼は強く自信に満ちていて、なんとなく殿下と通じるものが感じられる。
「突然の訪問を許していただきたい、私は森の国を統べる者とだけ申し上げる、ラディス=ロイド殿下」
「はじめてお目にかかる。私はフェアリス国王子、ラディス=ロイド=クラウザー。貴殿の来訪を心から歓迎する」
さすがに一国の王が許可を得ずに兵を伴って入国したことは、問題なのだろう。名を名乗らぬまま先に頭を下げることで、敵意がないことを示したのだろう。
けれどもこの国での騒乱の芽はしっかりと把握していたようで……
「少しばかりの誤解が生じていたようで、お節介ながら直接こうして足を向けた次第だが、どうやら判断を誤っていなかったとお見受けする」
にっこりと笑むベルゼ王に、殿下は表情を変えはしないものの、複雑そうだ。
「ランバート殿、この者が貴殿が捜索を依頼していたノーランド伯爵家の令嬢、シャロン王女の娘であるコレットだ」
二人のやり取りを傍観者のようにぼけっと見ていたところを、いきなり紹介されて慌てて膝を折って挨拶をする。
「コレット=レイビィと申します、はじめまして」
するとベルゼ王は、私を見て目を細めた。
「レイビィ?」
「ノーランド伯爵家はもうありません、私は平民であるレイビィの両親に育てられました」
とっさに正直にそう答えたのだけれど、大丈夫だったろうか。そう思って殿下を仰ぎ見ると、困ったそぶりもなく頷いてくれたので、ほっとする。
「お待ちください、ランバート陛下、その者をここに連れて来たのはラディスではなく私の手の者で……」
「ヴィンセント、ジョエルを向こうへ連れて行け」
横やりを入れてきたデルサルト卿を、殿下はようやく命じて取り押さえさせる。
王族を拘束するには、それなりの立場の者でないとできない。将軍なら可能だけど、唯一のグレゴリオが捕えられているので、あとは殿下が自らせねばならなくなる。しかしヴィンセント様ならば、彼の持つ爵位と王子の側近として与えられている特権で、それが可能なのだ。それまでデルサルト卿を取り囲んでいた兵士たちが、ヴィンセント様が卿を拘束するのを、安堵の表情を浮かべながら補佐しているのは、気のせいではないだろう。
「ランバート殿、コレットが十年もの間、平民として過ごすことになったのは貴族を統括する王族の不徳でもある」
「違います、殿下が謝ることじゃないです」
私は殿下の言葉を遮って、ベルゼ王の前に身を乗り出した。
「私は、平民として育ったことを後悔してません。レイビィの両親は私を娘として大切にしてくれましたし、平民じゃなかったら学べないたくさんのことを知りました。なにより、私を育ててくれたお母様が、私を護るためにしてくれたことだから!」
遠くで私たちを見守るお母様を、振り返る。
「彼女が、リンジー=ブライスか」
ベルゼ王がその名を知っているとは思わず、驚いて振り向くと、彼はとても優しく笑っていた。
「私は、はじめましてではないぞ、コレット。まあ、おまえがまだ物心がつくかどうかの頃だったから、仕方がないことだが……シャロンがまだ生きていた頃に、私はノーランド家を訪れたことがあった」
「王様が?」
「ああ、まだ私も十五で成人前、王太子でもなかった。そこでシャロンから、誰よりも大切な親友がいると聞かされた。何を聞いていても、シャロンの口から出るのはリンジーという女性のことばかり。自分が亡くなった後は、娘のコレットだけでなく彼女を頼むと、そればかりを繰り返された」
私の視界がふいに、あふれそうな涙で歪む。
こぼしてはなるまいと、殿下の上着の袖で拭いてから、しまったと思うけど後のまつりで。
「それが理由で、ティセリウス伯とブライス伯と常に繋がりを持っておられたのか?」
殿下の問いに、王様が頷く。
「だが、わが父王の方針でフェアリスとの国交は進まず、知れることは僅かなことだった。コレットの消息が掴めず、こちらの代替わりを機にゆさぶりをかけさせてもらった」
「なるほど……その件については、おそらく我が父にも原因はあろうな」
殿下の憂いを含んだ言い方に、もしかしたら先代ベルゼ王と、フェアリス国王陛下との間に、なにか特別な確執があったのではとの疑念がもたげる。まさかシャロン母様が原因、ではないと思いたいけど。
「私としては、シャロンの血を引くコレットが無事であれば、それでよい。今後は私が彼女の後見として……」
「殿下、場所の特定が終わりましたぞ!」
意気揚々とバギンズ子爵が割って入ってきた。
ベルゼ王が気になることを言いかけた気がするけど、そうだった。今はブライス伯爵を追わなければならなかった。大事なことを忘れてはいけない。
「こちらも少々込み入っている、ランバート殿には申し訳ないが少々猶予をいただきたい」
殿下がそう言うと、ベルゼ王は「承知の上」と告げて身を引いた。
「バギンズ、説明してくれ」
「はい……帳簿の流れを見ていくと、やはり理由のつかない物資輸送の痕跡がありました。それを武器製造所と見ると、場所は三カ所です。一カ所は既に燃えているところですので、この予測は間違いないかと。それで問題なのは、あと二つの場所で……」
レスターが地面に、領主館を起点とした簡単な地図を描いて見せた。それを棒で指し示しながら、バギンズ子爵が説明を続ける。
「一つは川の側にある山間部のここと、街道に近いこの小さな村しかない森です。距離は山間部の方は馬で三時間ほどの距離で少々遠く、森の方は一時間半くらいと近く規模はこちらが大きいでしょう、近くに町もあります。ですがこちらの川が気になりますね。運搬に船が常備されているでしょうが、そう大きな船では下れない川です。少数で逃げるつもりでしたらこちらが有利かと……」
「レスター、どう見る?」
バギンズ子爵の説明を聞いて、殿下はレスターに意見を求める。
「祖父は、人を信用するような人間ではありません、確実に自分が逃れられる方を選ぶでしょう。そして囮も用意するはずです」
殿下は頷くと、周囲に指示を出した。
「山間部の方を中心的に人員を配置する。闇夜に紛れてしまうと小舟は見逃しやすい。下流と逃走口になりやすい川岸へも配置。残りの武器庫も放火の可能性がある、まずは町の住人を避難させて、火の対策を施してから捜索に入れ」
すぐに兵士たちが動き出した。レスターとともに、殿下も山間部の武器製造所へ向かうという。馬の用意をさせている間、殿下はお母様を呼び寄せる。
「リンジー=ブライス、私が帰還するまでコレットを預ける」
その言葉に、驚いた様子のお母様。
「殿下、父が逃走した今、わたくしがブライス家の名代でございます」
「だが、コレットは其方を母と呼ぶ。私にはそれで充分だ」
ヴィンセント様が曳いてきた馬に、殿下は飛び乗った。そして困惑するお母様に重ねて言う。
「二度も堂々と逃げられた私よりも、其方の言うことなら聞くだろう。ただし、胸の方を手当させてくれ、刺さってはいないが打撲を負っている」
「承知いたしました」
本人はすっかり忘れていたのに。
「コレット」
「え、はい」
「逃げるなよ」
私は何度目か分からないその言葉を受けて、ふいに顔が赤くなる。
その言葉の意味は、額面通りなら色気もなにもあったものじゃない言葉なのに、どうしてか告白のように聞こえてしまう。
そこには、私たちだけで交わした約束があって、私たちだけにしか分からない意味が含まれているからか。
あの短い言葉が、まるで愛の囁きのように聞こえる私は、いよいよどうかしてる。
照れながらそっぽを向き、小さな声で言った「分かってます」が、殿下へ届いたかどうかは分からない。
そうして殿下は、大勢の騎馬兵を引き連れて出発した。
これでもう、私の役目は終わったも同然だ。
ブライス伯爵は殿下に捕らえられ、悪事は白日の下にさらされることになるだろう。かかわった多くの人間が調べられ、かつてノーランド伯爵の死の真相も明らかになればいい。それが無理だとしても、少なくともお母様がもう二度とブライス家に縛られることなく、私たちが本当の家族として、誰の目を気にすることなく過ごせる日がくる。きっと。
そう思ったら、どっと力が抜けてしまった。
その後お母様に抱きついたまま、私は深い眠りに落ちてしまった。
目が覚めたのは、夜が明けてすっかり明るくなってからのことだった。
眩しさの中で私を心配そうにのぞき込んでいたのは、身代わりで連れて来られていた金髪の女性たちだった。彼女たちが怪我の手当をして、眠る私の側に付き添ってくれていたらしい。
そんな彼女たちから、現状を知らされる。
ブライス伯爵が川を下って逃げようとしたところを捕らえられ、持ち出した大金とともに、早朝には屋敷まで連れ戻されたようだ。そしてなんと、お母様までもが自ら罪を告白して、聴取を受けていることも。
私は引き留める手を振り払い、寝かされていた離れの寝室を飛び出していた。
 




