第五十話 父の加護
「コレット、息をして! お願い!!」
視界が砂嵐のように覆われて暗くなっていくなか、私を正気に戻したのはお母様の泣きそうな叫び声だった。
同時に、苦しさとともに激しく咳き込む。体が必死に空気を取り込もうとして、それでも足りないと悲鳴を上げているかのようだった。
涙をにじませながら見上げると、私は殿下に背を支えられていたようだった。私を心配そうに覗く顔は青ざめていて、それは傍らで私の手を握りのぞき込むお母様も同じだった。
しばらくして呼吸が落ち着いたところで、自分の胸元を覗くと、そこには刺さっていたはずの小剣はなくて、無残に穴があいたドレス。そこには血の赤がひとつも見当たらなくて。
「……将軍は?」
さっき見たのが自分の血でないのなら、彼のものだろう。けれども私の問いに、殿下は眉間に皺を寄せる。
「生きている、おまえが心配することではない」
そういう問題じゃないです、そう思いながら横を向くと、そこで兵士たちに押さえつけられて地面に顔を突っ伏し、うめき声を上げるグレゴリオ将軍がいた。彼の手の平には小剣はなく、代わりに殿下の長剣が突き立てられていた。流れ出ている血に、私はさすがに顔を背ける。
早く手当をしなければ手が……剣が持てなくなるのではと心配していると。
「決して拘束を緩めず、手当をしてやれ。これ以上抵抗し、被害が出るようなら昏倒させろ」
殿下が指示を出す。
私もようやく乱れていた息が元に戻り、自力で座り直す。
「無理をしてはダメよ、コレット。もう少し横になっていた方がいいわ」
「いいえ、今はそんなこと言ってられないはず、そうよねレスター?」
こちらに駆け寄ってきたレスターは、誰よりも青ざめて泣きそうで……え、ちょ、既に滝のように涙流してるし。さすがに鼻水は拭きなさいよ、いい歳なんだから。
「姉さん、どうして無茶するんだよ、殿下なんてちょっとぐらい剣が刺さったってかまわないんだから!」
「いや、あんたも反逆罪になるから、その口閉じなさい!」
「ね……姉さん、無事だったんだ、良かったぁ」
抱きついて泣き崩れるレスター。いやいや、お小言で無事を確認するのはどうかと思うよ、お馬鹿弟よ。
いやそんなことより。
「ちょっと離してレスター、大事なものを殿下に渡さないといけないから」
押しのけても離れようとしないレスターを、殿下が引っ剥がしてくれた。
私はズキズキと痛む胸をまさぐり、打撲で済んだことを確認してから、背中のリボンを引いて緩める。
すると慌てたのは周囲の方で。
唖然とするお母様と、口を開けたままのレスター、それから横で拘束のために将軍の背中に乗っている兵士までもが、ぎょっとした顔でこちらを見て固まっていた。
そのなかで最初に動いたのは殿下だった。
「なにをする気だ、コレット。頭でも打ったのか?!」
そう言いながら、自分の上着を脱いで私にかける。
「打ってなんかいません。ちょっと待っててくださいね」
緩くなった胸元に自分の手を突っ込む。
しかしドレスは緩めても、その下のコルセットはそのままなので、なかなか引っ張り出せない。
「んん、きつく締めすぎたみたい。出す時のことなんて考えてなかったのが敗因かしら……ちょっと殿下、ここ持って引っ張ってもらえます?」
「は?」
殿下が私の胸元からはみ出しているものを見て、赤くなりながら素っ頓狂な声を出した。
さっき受けた衝撃の影響か、指に力が足りなくて、コルセットの下から帳簿が引っ張り出せない。
「これ、お父様が十年前に隠し持っていた、ブライス伯爵とブラッド=マーティン商会との裏取り引きの証拠です。これと領の記録とを照らし合わせたら、武器の製造工場の場所とか分かるはずです。ちょうどいいことに、バギンズ子爵がいるなら今すぐ見るべきです、そうですよね?」
馬から下りて駆け寄ってきたバギンズ子爵にそう問うと、彼は大汗かいた頭をハンカチで拭きながら、頷く。
「コレット、それは確かに、裏帳簿で間違いないですかな?」
「はい、天候不順だった年にも穀物の余剰収穫分として、大量輸送した記録がありました」
「なるほど、それは確認のしがいがある。殿下、大収穫ですぞ」
「だから出すのをちょっと手伝ってくださいってば、殿下。コルセットの下にあって、引っ張らないと取れそうにないんです」
そう願うと、殿下は一層眉を寄せてから、周囲に目配せをする。
するとこちらをうかがっていた兵士たちが、一斉に反対方向を向く。それを確認してから私にかけた上着を寄せ、胸元にある帳簿の端に手を伸ばした。
「せーので引っ張ってください、できるかぎり隙間が空くように息を吐きますので」
そう言うと、殿下は呆れたような顔を見せて言った。
「おまえには言いたいことがたくさんありすぎだ。後で覚えておけ」
「はいはい、じゃあいきますよ、せーの!」
息を吐いて胸を押し下げると、殿下が帳簿を引き抜いてくれた。さすがに打撲を負った胸が少し痛んだが、それは仕方がない。
けれどもそんな微かな反応さえも、殿下にはバレていたようで。
「大丈夫か?」
「はい、平気ですよ。亡くなった父が、護ってくれたようなものですから」
殿下の手にあった帳簿には、鋭い剣先を受けた跡がある。殿下に早く渡すため、それから奪われないためにと隠し持っていたのだけれど、まさかこんな風に役立つとは思わなかった。
「おまえのような娘を持ったら、死んでも死にきれんな。同情する」
失礼な、その私を嫁にすると言ってた人はどこのどなたでしたっけ。
殿下は、バギンズ子爵へその帳簿を渡す。私の方は、すぐにお母様が被せた上着の下からドレスの紐を引き、落ちないように再び結んでくれた。
心配のあまり顔が怖いままで固まっているお母様に「心配かけてごめんなさい」と言うと、眉を下げて私の頭を何度も撫でてくれた。
「バギンズ、その帳簿は使えそうか?」
「ええ……ええ、割り出せそうです。一時間ほど時間をもらえますか?」
「半分で何とかしてくれ、その間に追跡隊を編成する」
その言葉にバギンズ子爵が、嫌そうな顔をする。けれども、今も上がり続けている煙を見て、子爵はため息とともに頷いた。
「なんとか、してみましょう。ただし地理に詳しい者に、協力してもらいます……レスター=バウアー……今はブライス卿でしたな、貴殿がいいでしょう」
「僕、ですか? しかし、僕はブライス家の」
「姉上を裏切るつもりですかな?」
「い、いいえ! それはありえません」
「なら、こちらへ」
そうしてレスターは、バギンズ子爵の帳簿の読み解きを手伝うことになった。その間に、兵士たちがブライス伯爵を追うために、準備を始めた。
そんなやり取りを眺めていたら、いつの間にか殿下は、兵に囲われて足止めされていたジョエル=デルサルト卿の前にいた。
「ジョエル、部下のしでかしたことの責任を取ってもらう。この状況でグレゴリオは、元帥代理の私に剣を突き立てたのだ、軍規上最悪の行動だ」
「私が指示をしたのではない、その者の勝手な行動をどうして私が責任を取らねばならないのだ。いま元帥がお前ならば、お前の責任だろう」
デルサルト卿のその一言に、その場が凍り付いた。
なにを言っているのだろう、あの人は。それは私だけではなく、ここに居合わせた者みなの感想ではないだろうか。
「今、なんと言った?」
殿下が低い声で問うとともに、デルサルト卿の胸ぐらを掴んだ。
「離せ、些細なことでいちいち激高するな。そのように情けないから、いまだお前に王位継承権が与えられなかったのだ」
「些細なことだと? 己を慕う部下の責任すら取らないその姿が、本当に王に相応しいものだと思っているのか?」
「血統、それに裏付けされる容姿、大事なものはそれだけだ。それらに比べたら、他は些細なものだ。だから宝冠の存在が、王国の中心に据えられている」
たしかに、先祖帰りと比喩されるほど、デルサルト卿は元来の王族の容姿をそなえている。 けれども私たち平民には、そんなことは実際にはどうだっていい。日々の生活が向上したり、将来に再び戦がおこる不安なく暮らせて、子供たちにも幸せな日常を受け継がせてあげられたら、王様の容姿なんてどうだっていい。王様の容姿をあれこれ楽しむのも庶民の楽しみだけどね、それは平和で余裕があるからこそで。
「いっそ、哀れだなジョエル」
殿下の落胆は、私が思うよりもはるかに大きいだろう。
数の少なくなった王族で、もっとも頼りになるはずだった同世代のデルサルト卿が、同じ方向を見ていなかったのだから。
「私は、国と民のために相応しい者が王になるべきだと、陛下の判断に委ねるつもりだった」
「なにを殊勝なふりをする? そもそも宝冠に正しい徴を顕せなかった者が、相応しい相応しくもない。素直に退いておればよかったのだ、それを……」
「本当に、退いてもいいとさえ思っていた。だが代わりになるのがジョエル、おまえしかいないなら話は別だ」
「……本性を現したな、ラディス。そうだ、おまえはいつだってそうだった、私の方があらゆる面で優れていたはずだ。なのに大人しくしていたと思えば行政院で平民のようにあちこちにかけずり回り、貴族を取り込み派閥をつくり、果ては軍部まで……おまえが王位を諦めようとしただと? 白々しい、誰よりも貪欲に権力を手に入れようと画策したのではないのか!」
同じ人を見て、その目が違うだけでこんなにも人物像が変わってしまうのか。驚きよりも、悲しさの方が募る。
「陛下と我が父までを味方につけたとしても、宝冠がおまえを王とは認めないだろう、なにしろお前が徴を顕した相手が、男だったというではないか、笑いぐさではないかラディス?」
ああ、そういえばまだそういう事になってたんだっけ。
今更それを持ち出されるとは。まさかその男の子は私です、なんて手を上げるわけにもいかず。バツの悪さから視線を背けていると……
ん? なにやら再び正門あたりが騒がしい。
避難してきた市民と兵士たちの人垣が、波が引くかのように二手に分かれていく。そしてその間を、大きな馬車が入ってきたのだ。
その馬車を先導していた馬に乗っていたのは、なんとヴィンセント様ではないか。そういえば彼の姿が見えなかったことに、今まで気づかなかった。
「殿下、国境近くで偶然にもこちらに向かっていた、ベルゼ王国使節団と合流することができました」
「親書は?」
「お渡しいたしました」
「……そうか、ご苦労だった」
殿下は掴んでいたデルサルト卿を離し、馬車が停車するのを待つ。
大きな馬車には、ベルゼ王国の紋章が描かれており、正式な王国の使者が乗っていることを顕している。
いまだ拘束はされていないデルサルト卿が、周囲を押しのけて殿下よりも前へ出ようとする。
「私が使者を送り、来訪を請うたのだ。ラディスは引っ込んでいろ」
だがなぜか殿下はデルサルト卿を止めようとはせず、私の元に来る。そして手を差し出して、立たせてくれた。スカートについた土埃を手で払い、乱れた髪を手ぐしで撫でてくれた。その仕草は酷く優しく、なんだか場違いなようで私の方が戸惑ってしまう。
「歩けるか?」
「はい、大丈夫ですけど……いったい何が起こってるんですか?」
「あの馬車には、ベルゼ王国国王、ランバート=シュトレェム=ベルゼが乗っている。コレットの従兄だ」
「……ええ?」
まさか、正式な祝賀よりも先に、国王がフェアリスを訪れるなんてありえないと思っていた。
「噂に聞くような人物ならば、親書を送れば直接来るかもしれないとは思ったが、まさか先に行動に出たということは、こちらの状況も見透かされていたのだろう」
「親書?」
「ああ、婚姻の許可を請う親書を、ヴィンセントに持たせて早馬を走らせた。まさか国境を超える前に届くとは思わなかったが」
「こ、婚姻の、許可? 誰と誰の?」
一応、聞くでしょ普通。なのに殿下がすごーく、呆れたような目で私を睨む。
「コレット=ノーランドは届けにより正式には死亡したままだが、私の妃とするなら一度はベルゼに籍を戻した方が早い、レイビィ家に業績を詰ませて爵位を与えるよりよほどな」
そう言いながら、私の手を取って自分の腕に添えさせる。
「……いやでも、私の存在はベルゼ王国に余計な不和の種になるから、首を撥ねるために探してるってデルサルト卿が」
デルサルト卿の方をうかがうと、周囲の兵から囲まれているにもかかわらず、気にした風もなく馬車から降りる人を出迎えている。
その馬車から降りて来た人は、噂通りの美丈夫な男性だった。
「ベルゼ国王がそのような男なら、おまえの母親は自分の出自を娘に伝えることはなかったろう。それに殺すためにわざわざ従妹を探す必要はない、ましてやそれを交渉の材料にするなど、な」
「……どうやって知ったんですか、それ」
「セシウス=ブラッドがこちらに寝返ったからだ。まったく、おまえの置き土産の多さに、こっちは寝る暇もなかった」
「よかった、レリアナは婚約者の説得に成功したんだ……」
私は自分にかけられていた殿下の上着を彼に戻そうとする。さすがに隣の国の国王陛下の前に、そのままで行かせるわけにはいかない。
けれども殿下はそれを拒否して、胸に穴が空いたドレスが見えないよう、さらに釦を留めて隠してしまう。
「正式な入国を許可したわけではない他国の王族だ、あちらも承知の上だろう。行くぞ、いつまでもジョエルに勝手を許していたら、それこそ再び戦争になる」
殿下はそう言って小さく笑い、私の手を握った。




