第四十九話 再会と火の手
宴席の用意された広間を出て、ブライス伯爵家の館を目指している殿下を出迎えるため、デルサルト卿は長い廊下を歩いた。
先導するのはグレゴリオ将軍。デルサルト卿が片手で私の腕を持ち、その後ろをお母様が渋い表情をしたまま続き、周囲を兵士が囲んでいる。
しかしデルサルト卿に従って移動しているのは、彼らだけだ。ブライス伯爵家にはあの嫌味な執事をはじめとして大勢の使用人、それから雇い入れた私兵もいたはずだけれどいやに静かな気がする。
私は意を決して、デルサルト卿へ話しかける。
「ねえ、逃げも隠れもしないわ、自分で歩きますので手を離してください。あなたの言う通り、私はお淑やかな令嬢ではありませんので、いざとなったらあなたを盾にしますよ?」
私の腕を掴んだまま歩くデルサルト卿にそう告げると、彼は舌打ちして私を離すと、側に付き添っていた兵士へ託した。
「どさくさに紛れて逃げられぬよう、見張っていろ」
代わりに兵士の大きな手に掴まれて廊下を歩くことになったが、先ほどよりはいくぶんマシになった。やっぱり、デルサルト卿は違うのだと確信する。今、私を掴みつつも支えながら歩く兵士や、片手で腕をつるし上げれるほどの怪力のグレゴリオ将軍、私を抱え上げたまま狭く欠けた階段を駆け上がったレスター、そして同じように私を抱えたまま息も切らさず移動していた殿下とは違う。
デルサルト卿が、その先を行くグレゴリオ将軍へ、殿下を迎えるために正門前広場へ兵を集めるように伝えている姿があった。それを見ながら、デルサルト卿の言葉を思い出す。
『有能な部下を立て、仕事を与え、忠誠を誓わせる存在であることが王の勤め』
彼、デルサルト卿がどうしてあのような粗野で考えが足りない男を、側に置いているのかその理由を悟った。彼は、自ら動く人間ではないのだろう。
軍事に長けた貴族を派閥に持とうとも、役職に就こうとも、彼は貴族令息。殿下のように泥と汗にまみれながら、その身を鍛えて研ぎ澄ますことはなかったのだ。
どこまでいっても、正反対な二人。
どちらが正しいのかは私には分からない。もしかしたら、王様の姿としてはデルサルト卿のように、部下にそれぞれの役目を与えることが正しいのかもしれない。殿下のように、何もかも自分で確かめて、自分で行動して、全てを決めてしまうのは王様が間違った時に、どうやって道を正していけばいいのか分からないもの。
でも……
思い出すのは、十年も前に負った傷跡を撫でる殿下で。普段は尊大でしかめ面ばかりで笑いもしないくせに、自らの鍛錬を隠す理由を口にした時に見せた自嘲は、驚くほど優しく見えた。
殿下は、デルサルト卿を排除する気なんてなかった。
だから噂を憎らしく思いつつも、彼らの領域には手をつけなかった。ただ、残念に思っていただけなのに。
私は屋敷の正面玄関を開けさせる、デルサルト卿の背中を見守る。
松明を掲げた兵士たちが、正門前広場を取り囲み、デルサルト卿を待ち構えていた。その誰もが武装を整え、顔を引き締めて卿の周囲を固めた。
「正門を開けさせろ」
大きな扉がゆっくりと開かれると、その先にはずらりと立ち並ぶ騎馬の集団。
戦でも始まるのではないかという緊張感のなか、騎馬の中央から二頭が先んじて出る。赤い鎧を纏った騎士が、松明を掲げて先導するその後ろに、炎のような髪の殿下がいた。
殿下が先導した騎士を下がらせ、一騎で門をくぐると、殿下がそのよく通る声を上げた。
「私はラディス=ロイド=クラウザー。ブライス伯爵を反逆罪の嫌疑で拘束するために、陛下の命を受けている。ブライス領はこれより陛下直轄地として、捜査に入る。よって今現在、伯爵家に残る者は関係者として一人残らず聴取する。一切の例外は許さない、速やかに指示に従って投降せよ」
淡々と告げる言葉に、デルサルト卿を囲む兵たちに動揺が走った。
視線を泳がせながら「どういうことだ?」と呟き、上官でもあるはずのデルサルト卿とグレゴリオ将軍を伺っている。
だがグレゴリオ将軍は怯む様子もなく、周囲に動くなと命令する。
「王子殿下、いったいどのような権限で、軍と近衛を動かしておいでかご説明いただけまするか」
慇懃丁寧でありながら侮蔑を含むグレゴリオ将軍の声は、分かりやすい挑発だろうか。
苛つく私とは裏腹に、殿下は表情を崩すことなく淡々と後ろに控えていた近衛に指示を出す。すると近衛兵が殿下の横で、国王陛下の御璽が入った書を広げて見せた。
「本日をもって、フェアリス王国軍は元帥デルサルト公爵の全権を私、ラディス=ロイド=クラウザーへ委譲。加えて近衛王室警護隊は、新たにジェスト=エルダンを隊長として私の支配下に置かれたことを、陛下の御名において宣言する。これよりロザン=グレゴリオ将軍以下、全ての兵は私の指揮下に置かれた」
「はっ、信じられませぬな、そのような戯れ言は」
グレゴリオ将軍の言葉に、正気を疑う。けれども、自信満々の態度には理由があったようだ。
「殿下はご存知ないかもしれませんが、いくら陛下のご命令であっても、元帥の交替は将軍職につく五人の承認が必要となっております。他の者は金や口車で脅したのかは知りませんが、私が承認せねばその御璽があろうと、権限の委譲など無効」
グレゴリオ将軍は、殿下の後ろに控える兵たちを睨みつける。頭が悪そうな人だなと、少し馬鹿にしていたけれども、さすが将軍職につくだけはある迫力だった。それだけで周囲の空気がぴりぴりとした緊張感に包まれている。
「いいだろう。あまり良い方法だとは到底思わないが、四人も五人も同じく、叩き伏せるまで」
そう言うと殿下は馬を下りてこちらへ歩み寄った。
それを受けて、グレゴリオ将軍もまた腰に帯びている長剣を抜きながら、足早に殿下へと向かうではないか。
ちょ、何する気なの?
驚き前のめりになる体を引かれて振り向くと、お母様が私を抱き留めるようにしていた。
「あなたは行ってはなりません、コレット」
「でも、殿下が……」
金属のぶつかり合う音が広場に響いた。
どうしていきなり、なんで殿下が将軍と剣を交えなければならないのだ。
相手は、体格が殿下より一回りも大きい、国軍の現役頂点のうち一人。そんな相手に、いくらかつての騎士だったジェストさんが教え込んだとはいえ、相手になるのはさすがに無謀ではないのだろうか。
耳に痛いほどの金属音が鳴り響くたびに、私の心臓が絞られるかのように痛い。
平民として、しかも治安のいい城下で育った私が、初めて目にする真剣での勝負。どちらが優位かなんてさっぱり分からない。少しでもあの大剣が殿下の体をかすめたら、ただでは済まないだろうと思うと、目を覆いたくなるほどの恐怖が襲う。
恐ろしくて、息が、できない。
そんな永遠に感じられるような時間は、しばらくの打ち合いの果てに終わりを告げた。
殿下の振り下ろした剣をいなしきれないまま、グレゴリオ将軍が後方に崩れ落ちたのだ。それを殿下は畳みかけるように踏み込み、将軍の喉元へ剣を当て、動きを封じた。
勝負が、ついたのだろうか。静寂が不安をかきたてる。
けれども、すぐに周囲の反応から、殿下が将軍を圧倒したことを知る。私を掴んでいた兵士の腕が外れ、デルサルト卿を護って立つ者たちも再び動揺してか、挙動不審となっている。
「ば、ばかな、この私がラディス王子に、負けるなど……」
当人は、この勝敗に納得がいかないようだ。
剣先を喉に突きつけられたままで、負け惜しみを口にしている。けれども殿下はグレゴリオ将軍をそのままに、こちらを……デルサルト卿を見据える。
「これ以上、戯れ言を聞くつもりはない。ジョエル、コレットを解放し兵を投降させろ!」
私のすぐ前に立つデルサルト卿の背中が、強く握りしめたままの拳が、微かに震えている。 彼にとって、殿下の行動、将軍との剣での勝敗、すべてが想定外のことだったに違いない。私からは見えないが、言葉を発しない彼がどんな表情でいるのかは、想像に難くない。
「ジョエル」
静かに促す殿下の言葉を受けても、動く気配がないデルサルト卿。そんな様子に、殿下は落胆したのか、小さく頭を振る。
そして左手を上げた。
すると正門の辺りで控えていた騎馬が一斉に動く。
領主館の敷地になだれ込み、一部の兵は馬を降りて館へ入っていく。残りはデルサルト卿を護る兵を取り囲んで動きを制する。
「やめろ、閣下に手を出すな!」
グレゴリオ将軍も三人がかりで拘束されて、必死に抵抗を試みている。
これで、一安心。そう思ったけれど、すぐに館へ入っていった兵が戻ってきて殿下に報告をする。
「館はもぬけの殻です、殿下。私兵がおりません」
するとそれを受けて、声を上げたのは殿下ではなく、それまで黙り込んでいたデルサルト卿だった。
「あてが外れたか、ラディス。やはりおまえは無能だな。ブライスはどこにいる? あいつは王都へ戻ると言ってここを出たはずだが、街道で会えなかったのか?」
王族でもあるデルサルト卿は拘束されてはいないが、兵によって取り囲まれて既に自由を制限されたも同然。そんな状況下なのに、どこか他人事のようだった。
殿下は厳しい顔を浮かべたまま、デルサルト卿へと近づく。
「ジョエル、ブライス伯爵の居場所を知っているのか?」
「なぜ私に問う? ブライスの最も近い人間がそこに居るだろう、彼女を拷問にでもかけた方が早いぞ」
デルサルト卿が振り返る。
視線は私を支えるように寄り添う、お母様に向けられていた。
周囲の、殿下の視線もお母様へと集中する。
私は慌ててお母様の前に立ち、首を大きく横に振って懇願する。
「違うの殿下、この人とブライス伯爵は、関係ないんです!」
殿下は、まっすぐ私の元に歩み寄ると、抜き身の剣を持ち上げた。
「殿下、ダメ……」
はらりと、手首を拘束していた縄がほどけた。
驚いて見上げると、殿下はどこかほっとしたような、それでいて何か言いたげな顔で。
「わっ……」
放れた腕を引き寄せられ、すっぽりと殿下の胸に抱き込まれていた。
殿下の右手には、いまだ剣が握られたまま。左腕一本で囲われたこの狭い世界が、どこよりも安心できる気がして、それが不思議だった。
けれども、そうしたまま、殿下が剣を再び持ち上げた。それもお母様に対して。
「やめて、殿下、違うの、話を聞いて」
「なにが違う。コレットの友人と名乗る者が、攫われた女を保護したとトレーズに渡りをつけてきた。その被害者から、残りの二人もリンジー=ブライスに囚われていると証言している」
ああ、そうだった。クラリスはお母様が匿っていたことを理解できず、最後までこの館で保護するよりも、無理をして返す方がいいと判断されたんだ。
「だから、彼女たちを攫わせたのはブライス伯爵で、お母様は匿ってくれてたんです」
「……どういうことだ、コレット? おまえの望みは、彼女を排除することではないのか?」
あえて誤解を解くことをしなかったのは、お母様を護るためだった。それが、こんな面倒なことになるとは。
どう説明すべきか迷っていた時だった。一頭の馬が駆けて来たのだ。
「殿下、大変でございます!」
なんと馬を走らせて急を告げたのは、バギンズ子爵だった。
どうして文官である会計院顧問の、しかも老体である彼が騎馬隊のなかに混ざって、ここまで来ているのか。そんな疑問がもたげたが、それすら問う暇もなかった。
「あれをご覧ください、下町の外れで大きな火災が発生しており、民が混乱しております」
そう言われて初めて、領主館の高い塀の向こう、真っ暗なはずの空に赤い光が広がり、白い煙がのぼっているのが見えた。
唖然と見上げる間に、もう一騎が走り込んできた。その馬上にいたのは、ブライス伯爵とともに居ると聞いていた弟、レスターだった。
かなり急いで馬を走らせてきたようで、肩で息をしている。
「殿下、ブライス伯爵が武器庫と製造工場に火をつけて逃げました! まだ他にも武器庫があるはずですが、場所が分かりません」
それを受けて、殿下が声を張り上げる。
「ジェスト、近衛隊を消火活動と民の避難に向かわせろ! 残りはブライス伯爵を追え」
けれどもブライス伯爵が向かった先が分からない。
バギンズ子爵が、殿下に向かって言う。
「殿下、武器庫を調べて向かわせるべきです。恐らく、武器だけでなく逃走資金や準備を整えているはずです、逃してはなりませんぞ」
「分かっている、だが場所どころか、いくつあるのかも……」
私はハッとする。今こそ、十年前のブラッド=マーティン商会の帳簿が役立つかもしれない。
「殿下、武器製造をしていた場所が、分かるかもしれません!」
「……コレット?」
「私が帳簿を持ってます、今出しますから……」
ごそごそとドレスの胸元に手を入れようとしたところで、殿下の肩越しに恐ろしい形相のグレゴリオ将軍と目が合った。
まるでコマ送りのように、彼が拘束していた兵たちを振り払うのが見えた。そして胸元に隠し持っていた小さな剣を取り出した。
私と目が合ったのは、ほんの一瞬。
将軍の視線が、殿下の背中に定まった。
気がついたら、私は思い切り殿下を突き飛ばしていて、殿下と殿下に向いた刃の前に立ち塞がっていた。
「コレット!!」
胸を、衝撃が襲った。
グレゴリオ将軍が突き上げた小剣が、私の胸に刺さっている。
その衝撃に私の息は止まり、そのまま私は殿下の腕の中に投げ出された。
空気がすべて吐き出されてしまい、声も出せずに倒れ込む私の目の前で、殿下の右手に握られた剣が振り下ろされる。
野太い悲鳴とともに、鮮血が飛んだのが見えた。




