第四十六話 交渉の条件
シャロン母様が陛下とともに宝冠の徴を顕したのにもかかわらず、現在の王妃様と結婚された。でも陛下は王妃様と二人で徴が顕在したとなっている。
ということは、宝冠の徴は一度だけではないということで、殿下も私に縛られる必要がない?
それは殿下にとっても私にとっても願ってもないことで……でもなんだろう。スッキリとしないのは。
「コレット、誤解しないで欲しいのだけれど、陛下は……」
お母様が言いかけたところで、侍女がバタバタと駆け寄ってくる。
「旦那様がこちらにおいでになられるようです」
それを聞くと周囲に緊張が走る。お母様は私にフードを被せてから、出迎えのために立ち上がる。
「コレット……いいえ、クラリスと呼びます。あなたは黙って控えていているように」
お母様の声音が、表情が、夜会の華リンジー=ブライスへと変わる。それと同時に、勢いよく扉が開いた。
「リンジー、ラディス=ロイド王子が動いた。早急にベルゼ王へ身代わりを送らねばならない、それなのに女の一人を逃がしていたとはどういうことだ!」
ブライス伯爵は鬼のような形相で娘であるお母様に詰め寄る。だがお母様は顎を上げて父親を見据えたまま、動じずにいる。
「娘は連れ戻しましたわ、ご心配なさらず。残りの娘たちも、失敗すれば命がないことを、充分理解させましてよ。上手く身代わりを務めるでしょう」
「信用してもいいのだろうな? 失敗すれば、おまえも死罪となるのだぞ」
「わたくしは、そのような死を賜るつもりはございませんことよ、お父様。それより、せっかく交渉権を得たのですから、王都を離れてしまっては元も子もありませんわよ。すぐにお戻りになった方がよろしいのでは」
「分かっている! だがトレーズ侯爵の……法務院の動きがおかしいのだ。ティセリウスの奴があのような失態をしたせいで……」
夜会で見た悠然としたブライス伯爵の姿は微塵も感じられないほどの、狼狽ぶりだった。
「それでも、既に外に流した硝石の証拠は、王都にないはずでしょう。むしろここより安全なはず。それに女たちは家を出た理由は事故でも、ここに滞在するのは行儀見習い。いくらでも取り繕えるはずですわ、そのように取り乱されるなんてお父様らしくない」
「分かっている!」
苛立ち、お母様に怒鳴りながらも、不安からか目の前を行ったり来たりと落ち着かない様子だった。
「とにかく、早急に娘を確認したいとベルゼ国王から手紙が来ている。その対応のために、ジョエル様がこちらに向かっていて、明日には到着される。それと入れ替わりに私が交渉へ戻ることになった。いいかリンジー、そもそもおまえがノーランドの娘を死なせたからこんなことになっているのだ。今度こそ私の役に立たねば、レスター共々、二度と日の光が届かぬ地下牢から出られぬと思え!」
動揺すら見せない娘に、まるで捨て台詞のような言葉を投げつけ、来たとき同様に乱暴に部屋を出て行くブライス伯爵。さすが親子、お母様とはまた違う意味で、外面と本性に違いがあるようだ。
しかし……
レスターを手元に戻したのは、レスターを認めたからじゃなかったのだ。お母様に、言うことを聞かせる足枷にするため……
あれが悪魔のような人間なのは分かっていた。やっぱりと思う反面、それでも傷つくであろうレスターを思うと、言いようのない怒りがこみ上げる。
「早々に立ち去ってもらえて、助かりましたね」
ホッとした様子で戻ってきたお母様が、関節が白くなるまで握りしめた私の拳をそっと撫でてくれた。
悔しいのは私だけじゃない、そう思えるだけで力が湧く。それに俯いているだけなら、危険を承知でここに来た意味がない。
「お母様、ブライス伯爵が出立したら、なるべく多くの証拠を集めておきたいです。殿下は必ずブライス伯爵領へ捜査に入るはずですから」
それが明日なのか、一週間後なのかは分からない。
もしかしたら間に合わないかもしれないけれど、そうなっても殿下は放置せずにブライス伯爵を追求してくれるだろう。
そんな私の言葉に、お母様は侍女に声をかけて何かを持って来させる。
それは四隅が焦げた、煤だらけの古い帳簿だった。
「お母様、これは?」
「あなたのお父様が命がけで残してくださった物です。かつてブライス家がブラッド=マーティン商会に領地の穀物を買い取らせたと偽って、大量の武器を隣国へ輸送した証拠だと思い、ずっと隠し持っていました」
帳簿を開くと、確かに穀物の売買に関する物に見える。帳簿にある刻印も、ノーランド伯爵家のものではなく、ブラッド=マーティン商会とある。
「武器を……十年前に? でもどうやってお父様がこんな物を……」
「どうやってそのような物を手に入れたのかは、分かりません。ですがわたくしの父に、ブライス伯爵から片棒を担ぐよう誘われて断った、そう告げられたすぐ後に事故にあいました。わたくしは帳簿を見ても、これがどれほど大事なものか分からなかった。でもあの人が、服の下に忍ばせてまで隠していたものに、何もないわけがない。これ一つで罪を問えなくとも、これがあれば他の帳簿の不正が暴けるかもしれない、今もブライス家は、お父様は同じことをしているはずだから」
私は父の遺した帳簿を胸に抱く。
「今も、伯爵が武器を他国に流しているのは間違いないんですか?」
「ええ、一時は途絶えていたようですが、ノーランド家の事業を維持できず、財政が悪くなって再開させているようです。でも武器は足がつきやすいから、ベルゼからの依頼をいいことに、武器を止めて硝石を売ることにしたようです」
「武器では、隠しにくいから……?」
「ええ。しかしそのためには、王家ではなくデルサルト公爵家が交易権を得る必要がありました。ですがデルサルト卿がベルゼに使者を送ったところ、新たに即位された国王から条件が提示されたのです」
全てがそこに帰結する。私はその答えに、既にたどり着いていた。
「シャロン……ベルゼ先王の庶子、シャロン王女と王女が産んだはずの娘の消息。それが交渉に立つための条件でした」
その条件を知った時のブライス伯爵の狼狽は、想像に難くない。ノーランド伯爵家から財産を奪うために嫁がせた娘が、王女の忘れ形見を苛め倒して幼いまま死なせていたのだから。まあ実際にはその噂は偽りであり、噂が噂であることをお母様が放置して伯爵を欺いたわけだから、知る由もない。
いや、知る機会はいくらでもあった。娘を道具として扱わず、ほんの少しでも情を傾けさえすれば、ノーランド家がどのように過ごしていたかなんて簡単に知れた立場なのだから。
「ブライス伯爵は私が本当に死んだとしか知らず、それで体裁が悪いから生きていたことにするために身代わりを立てて、やり過ごそうとしたのね」
「ええ、既にデルサルト卿の方でも交易権獲得を利用して王位継承を奪うつもりで動きはじめていたため、もう後に引けなくなったのです」
「じゃあ、デルサルト卿は、人攫いにかかわってはいない?」
「あの方は……頭の良い人だから」
お母様の含み方に、デルサルト卿への印象があまり良くないことが分かる。どういう人なのか私もよく知らないのだけれど、明日にはブライス伯爵家にやってくるのである、警戒する必要はあるだろう。
だがその時には既に夜だったため、旅の疲れもあるからしっかり休まねばと、お母様に話を切り上げられてしまった。
私に与えられたのはクラリスが過ごしていた部屋だった。そこには二人の女性が過ごしていて、彼女たちが無事であったことに私は心底安堵した。残っていた二人は、クラリスをとても心配していた。クラリスは貧しい家の育ちだから、いくらお母様が匿っていると説明してもどうしてもここでの暮らしに馴染めず、苦慮の末に逃亡させてもらったのだという。
だから今頃は保護されていると告げると、二人は肩を抱き合って喜んでいた。
翌日、日が昇りきらないうちに起き出して、お父様の遺した帳簿を眺めた。
取り引きされたのは、穀物。帳簿の記述では、ブライス領での余剰生産できた穀物とある。穀物の取り引き物量と価格が細かく書かれてある。二年間ほどの短い間の記録ではあるけれど、国に保管されているブライス領の生産記録と照らし合わせてみれば、それが適正なものなのか、実際に穀物が余剰としてあったのか確認できるだろう。だがそれは王都に戻らなければ、正式な記録は見られない……でも、この領主館にあるものでも、照らし合わせはできるはずだ。なにも秘密の帳簿を探す必要はない、公的なものと違っていることが分かれば良いのだ。
私は離れを出て、本館へ忍び込むことを決意した。
デルサルト卿が到着して、伯爵が王都へ出発するその短い間なら、可能かもしれない。でもそれを実行するには、私だけでは無理だ。屋敷の間取りどころか、帳簿の場所も分からないのだから。
「そのようなことをさせるわけがありません、ダメですよコレット」
お母様には取り付く島もなく、反対されてしまった。
でもそこで退くわけにはいかない。
「ではこのまま何もせずに、ベルゼ国王に引き渡されるのを待てというのですか? 証拠があれば、交渉ができるんです」
「あなたが誰と交渉するというのですか」
「デルサルト卿です、交渉は責任者とするものですよお母様。ブライス伯爵が罪を犯してまでデルサルト卿を推していたら、その責任を問われるのはデルサルト卿です。それって弱みになるじゃないですか」
「コレット……」
悩ましげに眉間に指を添える姿も、お母様は色っぽい。
「よく考えてもみてください、私のことをベルゼ国王はどう見ていると思います?」
お母様の顔が厳しいものに変わる。私のことを大切に思っているお母様なら、そこに考えが至らないわけがない。
「下手な争いが起きる種を、消そうと考えていたら私は殺されるでしょうね」
「そんなことは、わたくしが絶対にさせません。この命に代えてでも……」
お母様はハッとして口元を扇で隠す。
だから、私にあらゆる形でサインを送り、危機を知らせようとしたのだ。
でも、私にそれが通用しないどころか、かえって近くに来ると思わなかったのは、十年の月日があまりにも長かったせいだろう。
「うん、私も。でもね、こうして側に来てしまったら、もう絶対にお母様から離れないって思えるの。だから絶対に無理はしないと約束します。それに殿下が、必ずブライス伯爵を罪に問うてくれます、せっかくここに居るのだから、手伝いをしないと」
「コレットは、殿下が必ず来ると信じているのですね」
私はそう言われて、陛下が、そして殿下自身もが自分のことを「執念深い」と言った時のことを思い出して笑った。
「殿下ですから、当然です」
そんな私を見てお母様はため息交じりに「仕方ないですね」と、諦めたように従者の彼を呼んだのだった。
 




