第四十一話 二人だけのダンス
私室まで戻って来て、部屋に入ろうとしたところでジェストさんに呼び止められた。
「待ってください、コレットさん。そのままでは……今、アデルさんを呼んで来ますので」
「……そうだった、これじゃ汚してしまいますね」
言われてようやく、自分がワインの染みた服をそのまま着ていることに気づいた。
洗濯で、綺麗に落ちるかしら。落ちなかったら弁償なのかな、困ったな。そんなことを考えていると、ジェストさんに呼ばれて殿下の部屋の方からアデルさんがやってくる。そして私の姿を見て、驚いている。
「ワインを? それは大変、早く洗い流さないと……ちょうどいいので、こちらにいらしてください」
「え、そっちは不味いです、まだ汚れが……」
「だからこちらに!」
アデルさんが私を殿下の部屋の方へ促すので、まさかワインで汚れたまま入ったらまた床を汚してしまうからと躊躇していたのに、側にいたジェストさんにまで背中を押される形で、入ったのは初めて入る場所だった。
そこは浴室などがある部屋で、恐らく夜会から戻る殿下のために用意されていたのだろう。室内が温められていて、他の侍女がお湯の用意をしているところだった。
「先に、コレットさんに使ってもらいますから、あなたは着替えを用意してちょうだい、それからジェスト殿は外へ」
てきぱきとアデルさんが指示を出すと、誰も反対せずに動き出す。いやいや、殿下の浴室まで私が使ったらダメでしょう。
「アデルさん待って、私なら使用人用の浴場へ行きますから」
「この時間はもう閉まってますよ」
「なら、水で充分です! 自分で洗って拭きますから」
「コレットさん、私は怒っているのです。そちらに座っていただけますか」
母よりも年上のアデルさんが、真っ直ぐ背を伸ばし、揺るぎない様子でそう言われると、なんというか逆らい難い。
用意されてあった椅子に座りながら「すみません」と謝ると。
「怒っているのはコレットさんにではありません、不甲斐ない殿下と護衛の者たちにです」
アデルさんの目が据わっている。そのまま私の前に鏡を置き、私の後ろに回って帽子を取り、ワインでべとつく髪から留めてあったピンを抜いていく。
「ジャケットも脱いでください、まとめて洗いに出しますので」
私は素直に聞き入れ、釦を外していく。それを見て、ようやくアデルさんが表情を和らげてくれた。
「殿下はあのようなご気性なので誤解されることが多いのですが、一度懐に入れた者を大切になさいます。ですから、この浴室を使わせていただいたことがある者もおりますので、ご遠慮はいりません。むしろコレットさんを放置したら、私が叱られます」
「……でもせっかく殿下のために準備してたんですよね? 夜会ももうすぐ終わるでしょうし、次を準備するのは」
「待たせればよいのです、このような仕打ちを防げなかったのですから」
再び怒りを再燃させてしまった。その矛先が部屋主に行くとそれもまた目覚めが悪い。殿下はアデルさんには、弱いところがあるから。
「分かりました、有り難く使わせてもらいます」
そう返事をすると、いつも通りのアデルさんが微笑んでくれた。殿下の広い浴室の綺麗な浴槽に石けんを泡立ててくれて、そこに身を浸して汚れを取った。
思っていたよりも体が冷えていたようで、温かさで緊張がほぐれるようだった。しばらく身を沈め、私は今日のことを振り返る。
レスターのこと、レリアナの幸せ、十年ぶりに再会した継母と、何を考えているのか分からないブライス伯爵と、彼女の囁き……
──カナリアを二羽。
助けないと。でもどうやって?
考えないと。
サイラスの言葉が、頭に繰り返し響く。
──おまえのせいだ! おまえの身代わりとして……おまえが生きているから女たちの運命が狂ったんだ!
助けないと、私が。
とはいっても考えがまとまらず、のぼせそうになって浴室を出ると、アデルさんが着替えを用意してくれてあった。もう遅いから頭から被るようなシャツで充分なのに、袖がふくらんでいるハイウェストの可愛いらしいワンピースだった。それを着ると私の濡れた髪に大きなタオルを被せてくれた。
「しっかり拭いて乾かしてくださいね、風邪をひきますから。それから飲み物をコレットさんの机に用意しました」
「何から何まで、ありがとうございます」
新しいお湯を用意しはじめる忙しそうなアデルさんにお礼を言って、私は自分の仕事机に向かう。最初は使い古した机が一つだったのに、書類を入れる棚を追加してもらい、気づいたら机の周囲に物が増え、殿下の私室を浸食しはじめている。そんな自分色に染まりつつある一角でなら、居づらくないだろうというアデルさんの気遣いに感謝しながら、椅子に座ってお茶を飲むと落ち着いた。
そこでようやく、側に誰か居るのに気づく。
「……殿下、戻られてたんですね。あ、浴室を借りてしまいました、今アデルさんが新しいお湯を用意してて」
「そんなことはいい。大丈夫だったか? 怪我は?」
すぐに私の様子を聞いてくる。もしかして、既にアデルさんに叱られたのだろうかと、なんだか申し訳なくなってくる。
「美味しい匂いが染みついただけで、なんともないですよ」
「そうじゃない、腕を見せろ」
忘れていたけれど、そういえばグレゴリオ将軍に掴み上げられたんだった。
思い出すのが一歩遅れただけで、既に殿下が私の右腕の袖を上げていた。長い袖だけれどもゆったりとしたものだったせいで、すぐに赤く指の跡がついた肌を、殿下に見られてしまっていた。
「だ、大丈夫ですよ、これくらいなら明日には消えます……殿下っ」
手を取られ、気づくと甲に唇を寄せられていた。
驚いて声も出せずにいると。
「すまなかった、コレット」
「なんで殿下が謝るんですか。私が調子に乗ってあちこち歩き回りすぎたんですよ。もう少し離れていれば、良かったんです。私こそ、邪魔をしてしまったんじゃないですか?」
私は目的を達したけれども、殿下はようやくダンスの相手をして機会を得たばかりのタイミングだった。
けれども、殿下はあの短い時間でも、しっかり会話を交わしていたという。
「何を、話したか聞いてもいいですか?」
「こちらが問いかける前に、彼女からは訳の分からないことを、いきなり言われた。カナリアを殺せば、家も国もすべてが滅ぶと」
「カナリア……」
「だから問いかけで返した。新しい事業は、カナリアを売るのかと」
「そしたら、何と?」
「……カナリアは愛でるものだと、笑ったのだ。そのすぐ後だ、コレットがグレゴリオに詰め寄られているのを見て、彼女がダンスを止めた」
私は、彼女の真意が分かってしまった。
殿下とデルサルト卿の継承権争いの裏で何が起きていて、誰がどう画策して、どんな思惑があるのかを。
この予測が正しければ、私は……
「カナリアとは、黄色い羽の小鳥のことだろう? 例えば、コレット。おまえのような鮮やかな金髪の比喩にも使う」
殿下は、私が被っていたタオルを取る。
「……濡れたままにしておくな」
殿下はムッとしたような顔で再び私にタオルを被せて、ごしごしと拭いてくる。
乱暴なようでも、力は弱く優しい。だからくすぐったくて殿下の手から逃げて、自分で拭き、窓からの風を受けながら手ぐしで整える。
すると窓の外から、まだ音楽が聞こえてくる。
「夜会はまだ続いてるんですか?」
「ああ、騎士どもは体力が有り余ってるからか、いつも長いらしい。最後までつきあってられるか」
「それはまた、給仕も大変ですねえ。あんなにお酒が次から次へと出るとは思いませんでしたもの。みんな飲み過ぎですよ」
風向きが変わったのか、さっきよりも音楽が大きくなる。
最初に聞いたワルツだろう、軽快なリズムで、明るめの曲だった。殿下の部屋は静かすぎるくらいなので、たまには良い物だなと聞いていると、殿下が私の方へ手を差し出した。
「せっかくだから、踊るか?」
「ええっ、踊ったことないですから、いいですよ」
殿下とカタリーナ様が踊るのを、ずっと見てたのに気づかれたのかな。でもだからといって……と手を取らずにいると。
「教えてやる。初めてだ、五回までなら足を踏んでも許す」
「ぷ、許すって……」
笑いながら、殿下の手を取ると、引き寄せられる。大きな手を腰に回されて、右手を握られた。私も夜会で見たものを思い出しながら、空いた左手を殿下の腕に添えると、音楽に合わせて殿下が動き出す。
最初は抱えられるようにして、ふわりと半歩遅れて移動するぐらい。でも殿下がつける角度の通りに動こうとすると、自然と足が出て、ついていくことが出来るようになるから不思議。短いステップを繰り返しているだけだから、すぐに覚えた。運動神経なら、自信がある。
「もう覚えましたよ、案外簡単でしたね。踏むのは三回で充分かも」
最初に立て続けに三回ほど踏んでしまったが、それきりだ。けれども私がそう言うと、殿下がニヤリと悪い笑顔を浮かべた次の瞬間に、くるりと回転させられていて、見事に殿下の足を踏んでいた。
「ちょっと、卑怯ですよ殿下、急に回らないでください」
「余裕なんじゃなかったのか?」
「うう……紳士的じゃないですね、殿下。リーナ様には、優しくしてたくせに」
すると殿下が驚いたように私を見下ろす。そして急に握られていた右手に力が入る。
踊りはそのまま続けているけれども、急に黙った殿下に、なんだか居心地が悪くなってくる。被ったワインが口に入ってたのかな……今更酔ったみたいに頬が熱い。
「俺を選べ、コレット」
ワルツの調べに乗せて、今度は丁寧にくるくると回りながら、殿下がそう言った。短いその言葉に、いろんな気持ちが込められているのが分かるほどに、もうずいぶんと傍に居てしまった。
陽気な宴の音楽が、かえってもの悲しく感じるのはどうしてだろう。
「……無理です」
五度目に足を踏んだのは、止んだ音楽とともに殿下がステップを止めたせい。
物憂げな殿下に、私はそれ以外なにも返すことができなかった。
 




