第三十九話 姉弟の分かれ道
レスターのいつもとは違う反応に困惑していると、会場が急に騒がしくなったことで彼の声が掻き消される。庭に出ていた人々が、一斉に広間の方に集まっていくのが分かる。
おそらく、最後の主賓が会場入りしたことで、主催者の挨拶が始まったのだろう。
そちらの方も気になるが、今はレスターの落ち込んだ様子の方が優先だ。
すぐに静寂に取り残された庭園の片隅で、私は背を伸ばしてレスターの頬に手を添えた。
「レスター、何があったの?」
するとレスターが私の手に自らのものを添えて、頬を寄せる。
「姉さんを、ずっと助けていきたかった。でも、いまだ僕には力がなくて……」
「レスター?」
添えていた指が、温かいもので濡れる。
驚いて見上げた私の視線から逃れるように、レスターが私の手を離して抱きしめた。
背の高いレスターが、すがるように私の肩に顔を埋めると、彼が震えているのが分かり、いてもたってもいられなくなって、両手を上げて背を抱き返す。
「今回の功績が認められて、僕は伯爵家に戻されることになったんだ……」
その言葉に、私は息を呑むしかなかった。
それは私をぎゅっと抱きしめるレスターには、全て伝わっていて。
「僕も姉さんと同じように、死んだことになっていればよかった。あの家から存在を消してもらって……そうしたらいつだって姉さんの側で、姉さんだけを守っていけたのに」
「レスター、それはダメだよ、あなたは才能があるんだから。どんなに努力したって、騎士の称号を得られない人だっているわ、そうでしょう? レスターが私にとって、どれほど誇らしくて、嬉しくて、居てくれるだけでどんなに幸せだったか知らないなんて言わせない」
「でもっ、このままじゃ僕は、姉さんを苦しめるブライス伯爵の手足に組み込まれてしまう。
そんなの、耐えられない。いっそ、僕の手であの人を……」
「レスター、そんなこと私は望んでないよ」
レスターは、リンジー=ブライスが最初の結婚で授かった子供ではあるけれども、その父親は酷い人間だったそうだ。リンジーが社交界の華と謳われていたからこそ欲したはずなのに、レスターが自分の容姿を受け継がなかったというだけで不貞を疑い、レスターの存在を認めず、離縁を言い渡した。そんなレスターを、ブライス伯爵もまた顧みることはなく、母とともに二度ブライス家へ戻ることを良しとせず、配下の男爵家へあっさりと養子に出したのだ。それを功績を得たからと、今更……
私はレスターの心中を察すると、なんと声をかけたらいいのか分からない。だが本人はもっと混乱して、怒りと悲しみと、ない交ぜになっているに違いないと思うと、いたたまれなかった。
思い詰めるレスターの、艶やかなハニーブロンドの頭を、大丈夫だからという思いを込めて撫でる。
「あの人は、今日この場でそれを発表するつもりなんだ。僕をブライス家の一員に戻すことを……どうやっても回避する時間がない」
「回避する必要はないよ」
私の言葉に、レスターが驚いて抱きしめていた腕を緩め、私をのぞき込む。
その涙に濡れている顔が、幼い頃から変わらなくて、私はクスリと笑いながらハンカチで拭いてあげる。
「どんな立場になっても、まったく違う道をいこうとも、私たちは家族よ。それは十年前から……ううん、あなたと初めて会ったあの日から、少しも変わらないわ。大丈夫、レスターなら大丈夫。何があっても私はレスターの味方だから」
「でも、殿下の元にいる姉さんに、あの人は危害を加えるかもしれない。そうなった時に、僕はあっち側で歯噛みするしかないなんて、そんなの耐えられない」
「うん、私もレスターを苦しめたくないよ。だから一生懸命考える、どうしたら私たちが一緒に幸せになれるかを」
再び涙をあふれさせるレスターに笑いながら、ハンカチを当てる。
「でもこうなって、ひとつだけ安心してることがあるんだ」
レスターが涙を収めて、私に真剣な顔で向き合った。
「姉さんが、殿下の元に居てくれて……それだけは安心してる」
「……レスター」
「姉さんが名前を偽っていたのを知っても、側から離さないでいてくれた。僕を産んだ母が、祖父が誰なのか知っていたのにも拘わらず、抱き込もうとしたのは、姉さんを信じているからだ。殿下は、姉さんだけは、きっと守ってくれる」
レスターが殿下のことをそんな風に思っていたなんて知らず、どう返していいのか困惑していると。
「だから姉さんは、こっちに来たらダメだ。いいね?」
強い瞳でそう言われると、私は頷くしかなくて。
レスターは柔らかく微笑みながら身を屈め、私の頬にそっと触れるだけのキスをした。
「こんな夜会に忍び込むなんて聞いて、最初は姉さんを叱るつもりだったけど、こうして伝えられて良かった」
驚いて目を白黒させている私に、レスターは極上の笑顔を見せた。
「僕は絶対に、姉さんの元に戻るから。だからそれまで、姉さんも変わらないままでいて欲しい……じゃあ、行ってきます」
レスターは見たこともないくらい顔を引き締めると、私に背を向けた。そして人々が集まる広間の方へ歩いて行ったのだった。
誰も居なくなった庭園から、広間に集う人だかり。レスターが行く先を、その人だかりが道を譲っていく。恐らく、勲章を得た者への賛辞が述べられているのだろう。歓声が上がった。
私はしばらく、それを遠くから眺めていた。
歓声と拍手が鳴り止むと、人の集まりが再びばらけて、音楽の演奏が始まるようだった。
私は再びお酒の入ったグラスを運ぶ仕事に戻る。レスターのことはショックだったけれども、だからといって今日の目的を忘れるわけにはいかない。
グラスを運びながら、広間に戻ると、人々の中心には殿下とカタリーナ様が見えた。
二人に話しかける人々の中に、ひときわ目立つ黒髪の女性がいる。
この国でも珍しい、艶やかな漆黒の髪、黒い瞳。対照的な白い肌に、赤い唇。豊かな胸の膨らみを深紅のドレスで隠しても隠しきれず、タイトなラインで描く細い腰もとても四十になろうかという様相ではなく、周囲の騎士たちの視線を釘付けにしていた。
まさに妖艶な美女。
それが十年ぶりにこの目で見る、リンジー=ブライス。継母の姿だった。
彼女の横には、白髪のがっしりとした体型の老人、ブライス伯爵であろう人物、そしてレスターの姿が。
ブライス伯爵がレスターを手招きし、殿下の前に招く。
私の位置からは声が聞こえないが、周囲のどよめきから、レスターがブライス姓に戻ることが伝えられたのだろう。殿下の表情が、心なしか固くなったようにも見える。
そうこうしている内に、用意が調った楽団から、静かな調べが流れてくる。それを合図に、そこかしこで夫婦が手を取り合い、騎士が若い女性に手を差し伸べる。当然ながら、殿下も立場上、率先してリーナ様の手を取って、広間の中央に出る。
それに合わせるようにして、ワルツが始まった。
私は他の給仕と一緒に、邪魔にならないよう広間の隅に移動しながら、会場を眺める。
近衛は、平民もいるにはいるが、貴族出身も多い。近衛のための夜会とはいえ、貴族のそれと変わりないようだ。レスターも、騎士になった時に、ダンスの練習をしたと言っていたし、そういうものなのだろう。
「見ろ、今日は踊られるようだぞ」
そのざわめきに誘われて再び広間中央を見ると、二曲目のタイミングで、レスターが母親であるリンジーの手を取っていた。
レスターの表情は硬いものの、リンジーは妖艶に微笑んでいる。レスターは色こそ違うが、その美しい顔立ちはやはり母親譲り。二人揃うと、注目度は段違いだ。その証拠に周囲は足を止めている者までいる。
「素敵、今夜のレスター様の目元は、どこか愁いのような色気を感じるのは気の所為かしら」
「普段の氷の貴公子と呼ばれるほどの冷静なお顔も素敵だけど……」
令嬢のみならず、御婦人たちからもため息交じりの声が聞こえる。
二曲目と殿下に華を譲ったとはいえ、その威力に殿下も苦笑いを浮かべていた。
氷の貴公子とはなんですか。目元がアレなのは泣いたせいだろうけども……そんな疑問符だらけで二人をぼうっと眺めていると。
「……コレット? もしかしてコレットじゃない?」
不意に名を呼ばれて、振り返ってしまった。
まずいと思ったのだけれども、その人物を見ると驚きの方が勝ってしまい、つい口に出してしまった。
「レリアナ?」
どうしてここに……
目の前に居るのは、確かに庶民納税課受付嬢をしていた、レリアナ=プラントだった。けれどもその姿は、美しく豪華なドレスに、花飾りで髪を結い上げた貴族令嬢そのものだった。私が驚いていると、レリアナは持っていた扇子で口元を隠しながら言った。
「化粧室に案内していただけるかしら?」
私はハッとして、彼女を案内する素振りで、広間を出たのだった。
そこから休憩室と聞かされていた一室に二人で入り、ほっと息をつく。
「で、あなた何をしてるのよ、コレット。確か、王城で会計士をやってるって言ってたよね?」
もちろん、レリアナに問い詰められる。
「そうなんだけどね、今日はちょっと人手不足だって聞いたから、お手伝い?」
「……男装して?」
「いや、まあ、ええと……?」
答えに窮していると、レリアナは小さくため息をついて、椅子に座った。
「なにか事情があるのね、いいわ聞かない。コレットって、基本的に秘密主義だものね」
「え、そうだっけ?」
ドキリとしながら聞き返すと、レリアナは「今更なに言ってるのよ」と肩をすくめる。
「そういうレリアナは、どうしてお城の夜会に? もしかして、婚約者と?」
「そうよ、セシウスが招待されたの。彼、今は公爵令息のジョエル=デルサルト様と懇意にしてるのよ、凄いでしょう? この夜会にも、招待してくださったのがジョエル様なのよ」
「へえ……レリアナってば、すっかり違う世界に行ってしまったのね」
するとレリアナは私の手を取る。
「コレット、私は今でもあなただけが友達よ。だから何か困ったことがあったら、いつでも私を頼ってね。あなたを無碍に扱うあの課長みたいなのに、いつまでも黙っていることないんだからね」
「レリアナ……」
あの頃を思い出して憤慨するレリアナに、私は「ありがとう」と返す。
遠くまで来てしまったのは、レリアナだけじゃなかった。あの日々は、不満も多かったけれど、それなりに平和だった。友達は少なくても、レリアナがいて、両親がいて、レスターがいて……
「私が黙ってやられるばかりだったことある?」
「そういや、ないわね」
私たちは、声を上げて笑い合う。
そして、彼女と連絡を取るための手段を教わり、何食わぬ顔で広間に戻るのだった。
 




