閑話 睡眠不足
※36話のすぐ後のお話です
朝日を振り返り、その眩しさに目を細めながら、殿下が私に言った。
「三時間後にはヘイオンを有するタラス男爵が登城する予定だ。一時間後に起こしてくれ」
「ちょっと待ってください、殿下。もしかして、徹夜したんですか? 信じられない!」
それだけ言って部屋の方に戻る殿下を、慌てて追いかける。
「緊急会議があったんだ、どうやって寝ろと?」
「それでも、ちゃんと時間を作って寝てくださいよ! 鍛錬してる場合じゃないです。睡眠不足は凡ミスを誘発させる、最大の原因なんですからね。それでよく、人に寝たかなんて聞けましたよねぇ」
「だから、今から寝ると言っている」
「人は! 夜に! 寝る生き物です!! それにですね、寝不足は万病の元ですから、長年続けるとハゲますよ」
「バギンズはいつもうたた寝をしてるが、効果はないようだな」
バギンズ子爵の輝かしい頭頂部を思い出し、それは説得力がなかったかと後悔しながら、前をすたすた歩く殿下を裸足で追っていると。
部屋に入ったところで殿下が急に立ち止まり、その背にぶつかる。
「ちょ、急に止まらないでくださいよ。殿下はその長い足で数歩でも、私はほとんど走ってるんですから……って、ちょ、なにするんですか!」
文句を言い募る間に、また抱え上げられてしまった。
小動物じゃないんですから、いちいち抱え上げないでくださいってば。
じたばたしてもあっという間に室内の長椅子に運ばれて、そこに下ろされていた。
「なぜ裸足で外に出ようと思ったのか」
どうやら汚いと思われたらしい。そりゃあ、綺麗に磨かれている床を汚したら、明日の侍女さんたちの仕事を増やしてしまうけど。
「わざわざ運んでくださらなくとも、後でちゃんと床を拭いておきますよ」
「拭くのは床ではなく、まずは足だろう」
「好きに使え。私はあちらを使うから気にするな」
そう言うと、殿下のために用意してあったであろう陶器の水桶を、私の前に運んでくる。そして私の足元に置いたのだ。
いやいやいや、この美しい陶器の中に足を突っ込むなんて、庶民の私にはハードル高いってば。
固まる私を放っておいて、殿下は水差しの水を別の器に注いでそれで顔を洗った。汗を拭ってスッキリしたような顔をしながら、私の方に戻ってきて膝をついた。
「なんだ、洗ってほしいのか?」
「そ、そんなわけないでしょう!」
すると殿下は笑って立ち上がった。どうやらからかわれたようだ。
「子供の頃、母が同じようにしてくれた事があった。ジェストに剣を習い始めたばかりで、泥だらけになり、擦り傷が多くなった頃だったか……子供は世話が焼けるくらいが、安心なのだと言われた覚えがある」
殿下の幸せな記憶のひとつなのだろう。私にもそういう記憶は、たくさんあった。それらを思い出しながら、足を水につけて土を流した。
「私の母は幼い頃に亡くなってしまいましたが、使用人たちがその代わりとばかりに世話を焼いてくれて。木に登ったり、庭師とともに果物を収穫したり、虫取りをしたり、興味のあることをなんでもやらせてもらっていました」
「例えそのまま成長したとしても、おまえは今のおまえのままだったのだろうな」
呆れたような言い方だったけれども、殿下からは労りのような優しさを感じる。
けれども現実はそうならなかったわけで。父は事故であっけなく死に、優しかった使用人たちはあっという間に入れ替わってしまった。
それでも今の私でいられるのは、レスターやレイビィの養父母がいてくれたおかげ。
「きっと、我が儘三昧の、いけ好かない令嬢になっていたと思いますよ」
濡れた足を拭き、汚れた水の入った器を抱えて立ち上がる。
「二時間後でいいですか?」
「一時間後には起きる」
「ハゲますよ」
「……一時間半で妥協する」
「あら、殿下も交渉術を使えるようになったんですか」
すると憎らしげにこちらを見た殿下が、何を思ったのかシャツの釦を外しはじめる。
「ぎゃ、殿下の馬鹿! すけべ!」
「さっさと寝ろと言ったのはおまえだろう」
「だからって、人の前でいきなり脱がないでくださいよね!」
文句を言いながら殿下から背を向けて、慌ててその場を離れる。
胸がドキドキするのは、驚いて走ったから。
部屋を出る前に振り返ると、背を向けている殿下の肩が揺れていたので、からかわれたのだ。
「一時間半だからな、頼んだぞコレット」
殿下の背中には目がついてるに違いない。愉しげな声に、私はなんだか悔しくなって、その広い背中に「イーッ」と舌を出して見せてから、今度こそ部屋を逃げ出したのだった。
 




