第三十六話 あの日の願い
和やかだった会食の席が、一瞬にして緊張感に包まれていた。
殿下はリンジー=ブライスの名を聞いた後、しばし考え込んでいる様子だ。そしてダディス当主、ラッセルさんが後ろに控えていた部下に、何やら確認している。
どうして、リンジー=ブライスの動向を私が知っているのか、殿下ならばここで聞かないでいてくれるだろう。
でもラッセルさんは疑問に思うに違いない。殿下は彼に、私が依頼していた探し人、その当人だと知らせてはいないだろう。やっぱり、彼女の名を口にしたのは軽率だったのではと、焦りが生まれていた。
「殿下、私どもからひとつ、情報をお売りいたしたいのですが」
ラッセルさんが部下と確認した後に、殿下にそう切り出した。それを受けて、殿下は頷いてヴィンセント様に新たな契約書を用意させる。
がしかし、それをラッセルさんは手で制して言った。
「コレットさんからの情報の対価として、同じく口頭だけでお伝えします」
すると殿下が私の方を見るので、了承のつもりで頷くと、ラッセルさんはすぐに話をはじめた。
「ブラッド=マーティン商会の、若頭取の動きに注意してください。ブライス伯爵と商談を始めているという情報があります。加えて彼は、つい二ヶ月前まで、ベルゼ王国に長らく滞在していた人物です」
「……若頭取って、セシウス=ブラッドですか?」
驚いて確認すると、ラッセルさんが頷く。そんな、レリアナの婚約者が要注意人物とは……
「コレットさんは、セシウス氏のことをご存知だったのですか?」
「ちょっと、知り合い経由で……」
「彼は長らく不在だったので、名前を知る者も多くありません。驚きました、さすがレイビィ氏のお嬢さんといったところでしょうか」
ラッセルさんにレリアナのことまで喋ると、それはそれで怖い気がして苦笑いで返すしかなかった。
そんな私とは裏腹に、殿下はいつも通り冷静に分析を始めていたようだった。
「精霊石の採掘と、硝石。ベルゼ王国と、ブライス伯爵家とブラッド=マーティン商会か。まだどう絡むのか分からない要素も残っているが、繋がってきたな」
「殿下、硝石の交易をベルゼが正式に持ちかけてくるのならば、まだ分かります。それを一部の貴族家が占有するには、物が物だけに危険です。これは放置することはできません、すぐにご対応を」
ヴィンセント様の言うことはもっともだ。難しい政治のことは分からないけれど、これが普通の穀物などの交易だとしたら、まあ不正の温床だろうなと思う。つまり……
「私も同意見です。秘密で交易を始めたら、出た利益を少なめに申告し放題になるのはよくあることです。商品の数を誤魔化して横流し、もしくは備蓄して高く売るとか、まあ質の悪い商売人のよくやる手ですよね。穀物ならまだしも、それが火薬で、売り先が外国だとしたら……問題は、そんな馬鹿な真似を、ブラッド=マーティン商会ほどの大店が、やるかってところなんですが」
「コレットさんの言うとおりです、さすが納税課で鍛えられただけはありますね」
さらっと言われたけれども、はじめましてな私の経歴を知っているって、やっぱりダディスは怖いっ。
「ダディスの持っている印象としては、ブラッド家はどの代も権力欲というか、特権主義的な人間が多いのですよ。少々歪んだ劣等感が邪魔をして、強引な商売に走りやすい。それが今、商業組合の方でのもめ事の一端ですしね」
「もめ事、とは?」
「殿下、それ今日、父さんからも聞きました。城下の市場から大きな商会まで、商業組合が長らく一つにまとめてきてたんですが、ついに二つに分裂されようかという危機みたいです。その分裂を煽っている方がブラッド=マーティン商会、残るはゼノス商会をはじめとする現在の役職を引き受けている側、といった対立になってるようです」
「あからさまな、対立構造ですね……」
ヴィンセント様が、頭が痛いといった風にため息をついている。
けれどもそんな憂慮など吹き飛ばすかのように、ラッセルさんはあっけらかん笑った。
「商人も馬鹿ではありません。そのような目に見える形での対立は、いうなればあがきに近いと見ている者も多いのが現実です。殿下、我々はティセリウス伯爵への処分内容次第では、勢力図ががらりと変わるのではと見ております」
「……そのつもりで動いている。おまえたちもそれを期待して、あの闇医者を売ったのだろう」
「いえいえ、私どもは単なる情報屋ですので、活かすも殺すも買ったお人次第」
やだなあ……殿下とラッセルさんの容姿だと、表と裏の権力者が悪巧みしてる図にしか見えない。これがあの妖精王のごとき華やかなジョエル=デルサルト卿なら、そうは見えないんだろうに。
そんな風に思って見ていたら、殿下はもうこれからのことを組み立てたようだった。
「早急に硝石の流通に制限をかけさせる。幸いなことに、採掘地は南部の乾燥地がほとんどだ。そちらは私が押さえることができるだろう」
「はい、ですが問題は塩硝は自然採掘が不可能な地から、硝石を取り出すためのもので、乾燥地が少ないベルゼで真っ先に発達した技術です。元から北部はベルゼとの交易がありますので、既に手を広げている可能性も」
「分かっている。同時にブラッド=マーティン商会への警戒を強める」
「……それがよろしいかと」
そうして殿下とダディスとの会食は終える。
席を立つ殿下に、ダディスの三人は見送りをしようとするが、殿下がそれを「目立ちたくない」として断った。ラッセルさんはその代わりとばかりに、私が食べられなかった食事を、持ち帰るよう手配してくれている。
給仕を呼んで支度をさせている間に、殿下とラッセルさんがヒソヒソと話を続けていたようで、ふと気になる言葉が耳に声が入った。
「それではあの者は、お嬢さん方の行方を吐きましたか」
お嬢さん方って……まさか攫われて行方不明の人たちのこと?
ハッとして殿下の方を見るけれど、こちらに背を向けているせいか、声が聞こえない。代わりにラッセルさんと目が合い、話が中断されてしまった様子。
そのまま準備が整ったと給仕に告げられ、ラッセルさんたちとはそこで別れてしまった。
それからは慌ただしく馬車に乗せられ、王城へと帰り着いた。
日はもう暮れているというのに、殿下とヴィンセント様はそのまま中央棟へと向かい、関係各所の責任者を呼び出して緊急会議をするという……
私はそんなお偉いさんたちに同情しつつ、持たせてもらった食事を部屋でいただく。たくさんあるし、気をきかせてデザートのパイをたくさん詰めてくれたので、残っていたアデルさんや侍女さんたちと分けて食べたのだった。
ふと目が覚めたのは、日も昇らない早朝だった。久しぶりにたくさんお酒を飲んだせいか、喉が渇いて部屋を出る。すると暗い廊下の先から、明かりが漏れている。
そこは殿下の部屋。
ゆらゆらと揺れる灯りに誘われて近づくと、扉が少しだけ開いていた。そこから冷たい風が、顔に吹き付けた。
きっと、窓が開いているのだろう。そっと扉の隙間をすり抜けるように入ると、明かりは私の仕事机の方に一つ。その先にあるカーテンが揺れていた。
私は羽織ってきた上着の前を寄せ、扉に向かう。裸足で来てしまったから、大理石を歩くと大層冷たい。
早朝のこの時間は、もうずいぶんと冷え込む季節になった。扉を閉めようと手を伸ばすと、庭の向こうから物音がする。驚いて寝台の方を向くと、ちょうど衝立が開いていて、そこがもぬけの殻なのが見て取れた。
「……じゃあ、あの音は殿下?」
こんな夜明け前に、何の音だろうと気になって庭に出た。日はまだ登っていないが、空は白みはじめている。
庭の奥からは、鈍い何かがぶつかるような、それでいてたまに金属音と、荒い息づかい。垣根の向こうに、誰かがいる。茂みを手で寄せて視界を広げると、その先にいたのは殿下だった。
殿下だけじゃない、ジェストさんもだ。
茂みの向こう側は広けた芝生で、そこで二人が剣を持って組み合っている。
ずっと前だけど、訓練生だった頃のレスターの鍛錬を見たことがある。剣を持ち、仲間と並んで型を繰り返すものだった。でも目の前で行われているのは、以前見たそれとはずいぶん様相が違った。
剣を合わせたかと思えば、ジェストさんが殿下に足をかけて倒そうとして、それを防ぎながら殿下が空いた方の拳で、逆にジェストさんに殴りかかっていく。
なんというか、泥臭く、それでいて二人とも見たこともないくらいに真剣で、汗に濡れて息を切らしていた。
呆然と茂みの間から眺めていると、殿下と目が合った気がした。
でも次の瞬間に、殿下が振り払った剣が、ジェストさんの剣を弾いた。そしてそのままジェストさんの手から放れて飛んだ。
「あ」と思った時には、その剣が私に向かっていて。
思わず目をぎゅっと閉じることしか出来なくて。
「……大丈夫か、コレット?」
剣は飛んでくることなく、代わりに殿下のため息とともに出た言葉に目を開くと、そこに落ちた二本の剣と、殿下の心配そうな顔。
あまりの出来事にへなへなと座り込みそうになると、殿下が足と腕で枝が折れそうなくらい茂みを押しのけ、私を引っ張り出してしまったのだった。
「わざとだろう、ジェスト? コレットに何かあったらどうする」
殿下は私を芝生に座らせながら、ジェストさんに文句を言う。でもジェストさんは肩をすくめて、笑うのだ。
いやいや、笑うところじゃないですよ。
「二人分、強くなりたいからつきあえと言ったのは殿下ですよ」
「それはそうだが……」
「そろそろ私は上がらせてもらいます、殿下」
そう言うと、ジェストさんは落ちていた剣の一本を拾い鞘に収めて、さっさと茂みを回って出て行ってしまった。
それを見送ってから、殿下が剣を置いて私の前にあぐらをかいて座った。まだ肩で息をしている。それでも、私を気遣うように様子をうかがっているのが分かった。
「こんな早くに、どうした?」
え、そこから?
「ええと……お酒のせいで喉が渇いて。廊下に出たら、殿下の部屋の明かりが見えて」
「おまえなあ、仕事中ではない夜に……」
「だって、明かりが揺れてて、窓が開いてるのが分かったから、殿下が風邪引くと思って」
殿下は少しだけ私から視線を外し、小さく何かを呟いてから再び私を見下ろす。
「コレット……昨夜はしっかり食べて、よく眠れたか?」
「小さな子供じゃありません、お母さんみたいなこと聞かないでください」
「お前こそだろう」
殿下が、困ったような、でも悪戯が成功した子供のような、変な顔をしている。
私は、座ったまま自分の胸を手で押さえる。まだ、ドキドキしている。さすがに、自分に向かって剣が飛んでくるのは怖かった。
「怖い思いをさせて悪かった」
珍しく、殿下が殊勝だ。
「こっそり覗いた私も悪かったです。でもいつも、あんな鍛錬をしてるんですか?」
「……護衛の数を減らしているからな、彼らの負担を軽くするためだ」
「もしかして、前にこっちから戻ったあの時も、ヴィンセント様と鍛錬だったんですか?」
「ああ、あれは……」
殿下が遠い目をする。
「ヴィンセントは戦闘に向かない。だがそのままではいざという時に対応できない、それでは困るだろう。だから定期的にしごいているんだ」
「戦闘に向かないって、じゃあいつも携えてるあの長剣は飾りですか?」
「あれは……私の剣だ。言っただろう、ヴィンセントは鞘として、側に置いていると」
「殿下の? ならなんでわざわざ……」
「武はデルサルトの領域だ。分を弁えてくれさえすれば、その領域は侵すつもりはなかった」
そう言いながらも、殿下は自嘲しながら「思うようにはいかなかったが」と付け加えた。
なんだか、落ち着いてきたと思っていた胸が、今度はざわざわと波立つ。
殿下は、自分が鍛えていることは、表沙汰にするつもりがないのだろう。なんだか、殿下のことを知る度に、不思議な人だと思う。
すごくわかりにくい、不器用な優しさを持つ人だ。
「殿下は、努力の人ですね。あの時は、木も登れなかったのに」
「情けない姿を思い出させるな、十年も前のことだろう」
不服そうな殿下に、私は笑いがこみ上げてしまう。
「おまえが言ったのだろう、コレット。出来ないなら、これから鍛えればいいと。だからそうした」
「私が……?」
そういえば、そんなような事を言ったかもしれない。だけど、それを馬鹿正直に実行するなんて思わないですよ。だって私は……
「殿下は、私を恨んでたんじゃなかったんですか」
「恨む? どうしてコレットを恨まねばならない」
「だって、王宮に変装して忍びこんで、殿下を騙して逃げて、意図してなかったとしても十年、殿下の継承権を脅かして……」
殿下が手を伸ばして、私の髪を一筋すくった。
「恨んだり怒ったりしたのは、おまえにではない。あらぬ噂を流した馬鹿者と、友人として仲良くなろうとした少年を怪我させてしまった己にだ」
殿下が近づき、掬われた髪に唇を寄せられる。髪に感覚なんてないのに、全身にくすぐったさが駆け巡る。
その感覚に困惑して固まっていると。
「あの日、王城に危険を冒してまでやってきた理由を、聞かせてくれ」
真摯な瞳に見上げられ、私は素直に言うことを躊躇われてしまう。
この人が動き出したら、確実にすべてが置き換わっていきそうで。そのきっかけを託されている気がして、畏れから逃げ出したくなる。
「たいした理由じゃないです」
「コレット」
名前を呼ぶだけで、人を思うとおりにさせるなんて、ずるい人だ。
「助けて、欲しかったんです。お城の偉い人なら、私の家に蔓延る悪いものを、追い出してくれると……そう信じてたんです。あの頃はまだ、世間知らずの子供だったから」
「そうか。遅くなったが、聞けてよかった」
それだけ言うと、殿下は私の髪を離し、立ち上がった。
昇ってきた朝日が、枝葉の向こうから庭園を照らし始める。その光を背に受けながら、殿下が手を引いて私を立たせると。
「十年待たせたが、必ず叶えよう」
殿下がそう言ったその日の夜、ティセリウス伯爵への処分が国王陛下から言い渡された。
ティセリウス領における領兵、つまり国境を護る警護兵の解体と、国王陛下直下としての再編。爵位降格こそ免れたものの、独自に他国との交易権も一定期間はく奪となり、領主としてはほぼお飾りの状態になった。防衛を任され兵力で地位を固めてきたティセリウス家は、事実上両腕をもがれたと言っていい。
これは、王子殿下と次期公爵の継承権争い、ひいては両者を推す貴族界の、勢力図を塗り替える最初の一手となった。




