第三十五話 会食
本日二話目の投稿です
「もう、殿下、待ってくださいってば」
殿下を追いかけて廊下を歩いた先で、私たちを待つ人がいた。
その人物を前に、殿下が私たちを待つ。そして今度こそ出された手に身を任せ、私と殿下、そしてヴィンセント様の三人揃って、最奥の扉の前に立つ。
「既にお客様がお揃いになって控えております」
案内役が頭を垂れ、殿下のために扉を開けた。
その先には思っていた以上の広い部屋が広がっていた。落ち着いた色合いの家具に、王宮と遜色ない絨毯の敷かれた床、それから広いテーブルが置かれていた。
そのテーブルの脇に以前、見かけた黒髪の男性が立ち、殿下を上座に迎え入れて頭を下げたのだった。
殿下は中央上座の席へ。ヴィンセント様はその左脇、私は少し離れて反対側へ。
「待たせたな、ダディスの。楽にしてくれ」
そう言って殿下が座ると、ダディスの当主である彼とそれに付き従う二人も席に座る。それを見て、私たちもほぼ同時に席に着いた。
続いて見計らったように、給仕によって食前酒が用意されていく。なんて手際がいいというか、慣れた様子だ。殿下の合図で、簡単に挨拶を交わす両者。
まずダディス当主の方は、殿下からの依頼の中断をするという知らせを受けたため、形式上では依頼を達成することができなかったことを詫びる言葉を述べた。
「ただ、いくつかの情報はこの状況に大きく寄与できたと、自負しております。どうか今後も殿下には、お役に立てる機会を与えていただけると光栄に存じます」
殿下は頷き、ダディス当主と乾杯を交わす。それを合図に、私も淡いピンク色をした、泡立つワインを口にした。甘くて美味しいので、つい飲み干してしまう。
それをダディスの当主に見られていたのに気づき、誤魔化すようにグラスを置くが、すぐに給仕に足されてつい手が伸びそうになる。
「ずいぶんと、可愛らしいお方をお連れですね、殿下。よろしければご紹介いただけますか」
ダディス当主に目をつけられたらしい。まあ、元々女性っ気のない殿下が、こうして私を連れていればそうなるだろう。
自分で自己紹介をしようかと思ったが、殿下からいいというまで喋るなと言いたげに睨まれたので、空気を読んですましてお酒に口をつける。
「これは私財会計士の、コレット=レイビィだ」
「レイビィ……もしかして、マーティ=レイビィ氏のお嬢さんですか?」
まさか父さんの名前まで知っているとは思わなかった。ダディスとは仕事で付き合いがあるとは聞いていたけれど、ダディス当主は最近までベルゼ王国にいたはず。それだけでなく、支所も多いという噂なのに。
「父を、ご存知なのですね」
「もちろんです、彼のような実直な会計士は、そうそう居るものではありません。部下からも評判は聞いていますし、先日も直接お会いしたところです」
「……そうだったんですか」
「ああ、失礼しました。私は情報を扱う商会、ダディスの当主をしております、ミルトン=ラッセルと申します。はじめまして……では、ありませんでしたね」
私のような小娘にも、丁寧に挨拶をするダディス当主。それが殿下の威光のおかげなのか、それともあらゆる情報をお金に変えるダディスだからこそなのか。
くせ毛の長い黒髪と黒い瞳が、どこかミステリアスに感じさせる人だ。彫りの深い男性らしい顔立ちなのに、微笑むと優しく印象を変える人だ。年は思っていたより若く、三十代半ばくらいだろうか。
「よく覚えてらっしゃるんですね」
「人の顔と特徴、日時、何でも覚えておくのが得意なので、この商売を始めましたから」
ダディスという組織がいつからあるのかは知らないが、まさか目の前の人物が立ち上げたものだと思わず、驚いていると。
「コレット、酔っ払う前に仕事を済ませろ」
三杯目のワインに口をつけていたのを、しっかり殿下に見られていたらしい。
コルセットのせいでご飯は諦める代わりに、お酒で元を取ろうとしたのに。でもまあ、仕事は仕事、きっちりとこなさせていただきます。
ということで持ってきていた書類を出した。
「今回の契約途中解除につきまして、違約金と報酬、それから経費の日割り計算との比較から、浮いた分の差し引き分を計算させていただきたく、詳しい資料を作ってまいりました。今回の契約金の規模は、どれほどのものだったのかご当主ならば充分、ご理解いただけていると信じております。これをそのまま、いくら殿下の都合とはいえ仕事が終わらなかったのに、すべてダディスの利益になさるはずは、ないですよね?」
さあ、交渉のお時間です。
少しでも無駄なお金は節約しないと。にっこり微笑む私に、ダディス当主ラッセルさんも、それはそれは愉しそうに微笑み返していた。
「ご内助には、これ以上のお嬢さんはないでしょう。コレットさん、殿下からのお仕事がなくなった暁には、ぜひ私の元においでください。あなたならいつでも歓迎します」
交渉がまとまった後、ラッセルさんが最初に言ったのはそんなことだった。
商人としてのバランス感覚も、とても優れている人なのだろう。引くところは引き、譲れないところは別の材料を提供することで、しっかりと利益を守ってくるあたり、とても頭の良い人物なのだろう。きっと彼のもとで会計士をするのは、面白いだろうな。
けれども殿下はそういうお世辞すら、堅物な反応を示す人で。
「これは当分、私の元にいる予定だ。他をあたるといい」
「それは残念です、しかし十年でも二十年でも。その赤い薔薇の紋章を外す折には、お待ちしておりますよ」
もちろん、ラッセルさんはそんな殿下の反応くらいは読めているのだろう。冗談で返すくらいの余裕があり、さすが年の功といった風だ。
しかし薔薇の紋章と言われ、ようやくこの髪飾りとネックレスの形に思い当たって、殿下を睨む。殿下の紋章の一部じゃないですか、どういうことですか。
しかし殿下はしれっと無視して、食事に手を伸ばしている。
「そんなことより、ラッセルさんはベルゼにいたんですよね。良かったら、あちらのお話をしてください」
「コレットさんはベルゼにご興味がおありですか?」
「そりゃあ、隣国ですし。あちらのお酒は強くて美味しいです!」
そう話しているうちに、殿下の左手が伸びてきて、私のグラスを奪った。
「おまえ、五杯目だろう。酒はそのくらいにして飯を食え」
「無理ですよ、誰かさんのおかげでお腹に入りません」
「コレットさんはお酒がお強いのですね。おっしゃる通り、ベルゼの酒は強いものが多いですね。あちらは森と山と自然が豊かな国柄ですから、酒だけでなく発酵食品が多く、食べ物が美味しいです。その代わり、フェアリスの得意な穀物は少なく、苦労しているようですが」
「へえ……フェアリスは南部は乾燥地帯ですものね。隣なのにずいぶん違うんだ」
「どちらが優れているとは言えませんが、不足となると欲しくなるものです。そういえば、ベルゼでは最近、新たな鉱脈が発見されたという話を耳にしました。殿下はご存知ですか?」
「ああ、聞いている。約束の石の一種……新しい精霊石の鉱脈らしいな。どこまで信憑性があるか、探りを入れているところだ」
殿下は当然のように、その話を知っているという。
私は初めて耳にするその事実に、状況の整理が追いつかない。なにか、困ったことがあるのだろうか。
「この国の商人は、安く手に入るのなら欲しがるでしょうね。約束の石といえば、この国では宝に値するものです。今は数が少なく、よほどのことでは平民には手に入りません。だからこそ、価値があるわけですが」
「……物の価値とは、相対的な評価で決まる。他にはない特別な何かがあることが、重要なのだ」
殿下がそう言いながら、私を見る。
約束の石は、契約の石。その契約に、十年も縛られている私たち。縛るのは、国の宝と称される宝冠の形をした約束の石。
「破壊せずとも、いずれそこに価値は無くなる。数が増えるならな」
「それでも、しばらくはまだ尊いものとして、取り合いになるでしょう。なにしろ、採掘はそう簡単にはいきませんからね」
含みをもたせた言い方を、もちろん殿下は見逃さない。
「ベルゼが必要としているものがあるのか? 交易で増えているものはあったか、ヴィンセント?」
「いえ、これといって変化は見られません。ただ……国境近くの領地との接触は増えているので、なにか欲しているものがあるのは確かかと」
「鉱夫か? それとも鉄などの道具か……」
「殿下、鉄の生産地の多くは、こちらで押さえております。優先的に売買する権利を与えてはどうでしょうか」
ヴィンセント様の提案に、殿下はあまり良い反応を示さない。
「ベルゼも鉄の産出はそれなりにあったはずだ、交渉材料としてはいささか弱いだろう。それに、鉄を優遇するとそれ以外の国が警戒するだろう。我が国とベルゼが結託して軍備を拡張していると取られるのは避けたい」
だがそこで、ラッセルさんが口を挟んだ。
「殿下は、ベルゼ王国には何をお望みでしょうか。よりフェアリスが優位になるような一方的な交易相手でしょうか、対等な協定関係……それとも」
ベルゼ王国とは平和協定を結んだ間柄だが、かつて領土争いがあっただけに、そう気安い関係とは言い難い。このままのつかず離れずの関係が続くのか、それとも先年交易品が増えたこともあり、より関係が密になっていくのかは、商人たちと付き合いが深かった元役人の私としても、気になるところだ。
「より安定的な平和の維持。ベルゼとはいずれ、腹の探り合い抜きの、真の同盟を結びたい」
それを聞いて、ダディス当主は目を細めると、それまで最初の乾杯以来、口をつけていなかった酒を飲んだ。
「殿下のそういうところが、どこにも与しないことを信条とするダディスが、あえて殿下のご依頼を受ける理由です」
「文官贔屓の理想家と、笑う者も多いが」
殿下の言葉に、ラッセルさんは「いいえ」と首を横に振る。
「我々はしょせん情報屋です。適度に平和で、儲かった商人たちから少しの上前を跳ねるのが、楽して稼ぐ方法なのです。情報を使えば、戦争を起こすことも可能かもしれませんが、情報はあくまでも飯の種。それに命をかける価値があるとは、思えません」
殿下もまた、ラッセルさんの言葉を受けるようなタイミングで、酒を口にする。
なんだか、地位と立場を越えたところで分かり合っているかのような、殿下とラッセルさん。二人と、一生懸命まとめたつもりの値切り資料とを、見比べてしまう。
「どうしたコレット、まだ値切り足りないのか?」
めざとい殿下にからかわれるも、反論する気力がない。だって。
「余計なことをしたかなって、思ったんです……信頼は、お金では買えませんから」
私の言葉に、殿下とヴィンセント様が顔を見合わす。そしてあろうことか、「熱でも出したか?」と返されてしまう。
けれどもラッセルさんは笑うことはなかった。
「愉しかったですよ、コレットさんとの値段交渉は。資料もしっかりと作られていて、的確な数字の比較は、さすがマーティ氏の娘さんです。また、次のご依頼の時も、ぜひご同席ください。いつもは用が済んだら席を立ってしまう殿下ですので、こうして雑談をするのも、コレットさんがいらっしゃるからこそです」
「……ありがとうございます、私も知らないことを聞けるのは愉しいです」
「何でも聞いてください、あちこち飛び回っているので、役に立つかどうか分からないような雑多な知識だけはありますので」
謙遜だろうけれども、こうして会話を膨らませてくれるのは、殿下にはない魅力だ。
そうした魅力が、つい心を許して情報を漏らしてしまうのかもしれない。そんなことを思いつつも、あのことを彼に聞いてみるのもいいかもしれない、そんな考えが浮かんだ。
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
「はい、私に分かることなら」
私は修道院で書いたメモを思い起こす。
「塩硝って、主に何に効果があるものですか?」
最近、新たな肥料が作られることもあるし、そういった類いのものだとばかり思っていた。土地とともに購入した事業なら、なおさら。
なのに、部屋の空気が一変した。
ラッセルさんは困ったように口を閉じ、殿下を見る。そして殿下もまた、顔を強ばらせて、ヴィンセント様とともに渋い表情だ。
なに、なんなの?
「コレットさん、その名称をどこで知りましたか?」
「……ある事業を買い取った人がいて、それがヘイオンでの塩硝製造を」
「ヘイオン、南部のですか?」
私が頷くと、ラッセルさんは小さくため息をついた。
「コレットさん、塩硝とは、硝石を作るためのものです。そして硝石は、主に火薬の材料になります」
「か、火薬?!」
なんでそんな物騒な事業を買ってるのよ、あの人は! しかも修道院まで巻き込んで!
「コレット、誰だその事業を買った者というのは?」
そう聞いてきたのは、もちろん殿下だ。
言って、いいのだろうか。いや、言わずに逃げられる状況じゃなくなってる。知らなかったとはいえ、うかつに口にするんじゃなかった。
でももう遅い。私は覚悟を決めて、その名を口にする。
「リンジー=ブライス、です」
場の空気が凍った瞬間だった。
それはそうだろう。ブライス伯爵家の人間が、火薬の元となるものを秘密裏に製造していたら、それこそ戦争準備ととられかねない。
この継承権争いの最中ならなおさら。




