第三話 無いよりマシな保険
翌朝、久しぶりに遅い朝を迎えた私は、大きなあくびを噛み殺しながら、自宅の階段を降りた。
「おはよう、コレット。久しぶりのお休みでしょう、もう少しゆっくり寝ていてもよかったのに」
「おはよう、母さん……あれ父さんも居るの? 昨日も帰宅が遅かったみたいだけど、もしかして今日はお休み?」
いつもより遅い時間なのに、まだ食卓の席に着いている父さんの姿があった。
「おはよう、コレット。とりあえず席に着きなさい」
「はーい、わあ、美味しそう!」
「卵が安く手に入ったのよ。先日、新しい街道が開通したでしょう、そのおかげらしいわ。この冬は物不足に悩まされることなく終わったし、便利になって助かるわね」
「そうね、ここ数年、特に豊かになったわ」
朝食は私の好きな卵焼きのバケットサンド。大きな一口を頬張ったところで、父さんが言った。
「その街道も、王子殿下が政に参加なされて、最初に計画なさった事業だな」
ゲホッ……
危うく喉に詰まりかけて、母さんが淹れてくれていたハーブティーで流し込む。
「父さん……もしかして、母さんから聞いたのね」
「ああ昨夜、帰宅後に」
父さんもお茶に口をつけながら、そう答えた。近頃、父さんの帰宅が遅い日が多いのは、新しい品目の貿易が許可されたことにより、新規事業の立ち上げがそこかしこで興っているから。そのために人の雇用が活発になるのはいい事なのだけれど、同時に怪しい人物も流れ込んできていて、その身辺調査待ちをしているせいで、仕事が滞っているらしい。
「私だって行ってみて驚いたのよ。でも、私の立場では断れるものじゃないわ」
「それはそうだけど、王宮勤めだなんて大丈夫なの?」
母さんも心配そうな顔で、側に座る。そんな二人に、私は明るく笑ってみせる。
「心配しないで母さん。私がするのはあくまでもお妃様が決まるまでの短い間、殿下の私財会計管理をするだけよ。それに、人と会わないような場所を用意してくれるって約束を取り付けたし……五年、いいえ、三年も我慢したら、かなりのお金が得られるし、そう悪い話ではないと思うわ」
「コレット、お金のことはお前が心配するようなことはないんだぞ?」
父さんの言葉に同意するように、母さんも頷いている。
「それに父さんが心配しているのは、そんなことじゃないんだ。王子殿下は、確かに優秀なお方だろう。だが御年二十を越えているにもかかわらず、婚約者候補すら名前が挙がらないのは、人に言えない理由でもあるのではとな……実際に殿下の側は限られた人物しか置かれていないというし、人嫌いでかなり偏屈な人物なのではないかと噂だ」
「そうね、私もそう聞いたことがあるわ。でも……」
昨日会った殿下は、少なくともはハインド卿と気軽なやり取りをしていたし、私の失礼な物言いにも、何も言わなかった。偏屈かどうかはまだ分からないけれど、本当に人嫌いというのはちょっと違うような……
「少し、噂とは違う印象、だったかな」
あの少しの時間ですべてが分かるわけではないが、これでも仕事柄、人を見る目があると自負している。
「コレットがそう言うのなら、反対はしないがしかし……よりにもよって王子殿下とは」
「そうよね、どうしてこう間が悪いというか……」
父さんの懸念に、母さんもため息交じりで同意する。そうなるだろうと分かっていたから、私も昨日、同じ思いで回避を試みたのだけれど。
私は朝食のパンの最後の一口を頬張り、飲み下した。
「二人とも心配性ね。殿下もそうそう昔のことなんて覚えてないわよ、それに私も昔とは違うわ、見て」
立ち上がって、くるりと回転してみせると、膝下丈のスカートがふわりと膨らみ、そして長く伸ばした金髪がゆれて背中に落ちる。
「自分で言うのもなんだけど、どこからどう見ても、年頃の女性でしょう? 男の子みたいだったあの頃の私とは違うわ」
「そうね……そうよコレット。あなたは私たちの大事な娘よ」
母さんがそう言いながら、私の手を取ってどこか切なそうに笑った。
「さて、私もそろそろ出かける時間だ」
父さんが立ち上がり、新しい上着に袖を通す。すると母さんがその父さんの上着の胸元に、虹色の石がついたピンバッチをつけてあげている。
虹色の石は、通称「約束の石」と呼ばれる、民間会計士などがよく利用するアイテム。
父さんは役所の会計士を辞めてから、貴族家や商家の会計士を仕事にしている。それぞれの家で得た財政事情を漏らさないことを、契約者同士がこの「約束の石」に誓約する。もちろん会計士だけが使う訳でもなく、その他の目的にも使われていて、金額が多い事業契約などにも用いられる。
ただしとても高価で貴重な石だから、誰でも気軽に手に入るわけじゃない。
約束の石は、かつて地上を支配していた精霊王の血からできていると伝えられていて、この世界唯一で、最後の魔法とされている。約束の石にこめた誓約は、必ず守られる。例えば、契約を交わした家の帳簿を漏らさないと誓えば、決して言えなくなる。まるで魔法にかかったように、本当に言えなくなるのだそう。
石の誓約は絶対で、解除できるのは最初に定めた目的が達成された時か、契約者の死のみ。だから父さんのように複数の相手と契約を交わす者はそう多くない。
「それじゃ、行ってくるよ。今日も遅くなる、二人とも休んでいてくれ」
「いってらっしゃい、父さん」
母さんと二人で見送った後、私もまた街へ出る。
昨日渡されたお金を持って、必要な物を買い揃えるつもりだ。いくら人と会わないようにしてもらうとはいえ、出勤には城門をくぐらねばならない。それなりに身支度が必要だ。
派手ではないけれど、仕立ての良いワンピースを何着か選んで買った。それから雑貨店に向かおうとしたところで、呼び止められた。
「あら、そこにいるのは、コレットじゃない?」
駆け寄ってきたのは、庶民納税課の受付嬢レリアナ・プラントだった。
「今日は休みだったの、レリアナ?」
「もう、コレットってば急に異動だって聞いて驚いたのよ! いったいどこに転属になったの? まさか辞めさせられてないでしょうね?」
凄い勢いで聞いてくる。彼女は同僚でもあり、数少ない私の友人だ。
とはいえ、どこまで殿下のことを彼女に話してもいいのか分からず、言葉を濁すことに。
「うん、どうやら出向だったみたい。会計のお仕事には変わりないから、大丈夫よ」
「出向……? あのハゲ……違った、課長が自分の権限であなたを左遷させたんだって、それはもう得意げに言い回っていたわよ?」
「あぁー……」
どうやら、自分に逆らうと私のようになると課の者を脅し、好き勝手に拍車をかけるつもりらしい。本当に、彼はどうかしている。そんな課長に付き合わされるレリアナと残った同僚たちに、心底同情する。
「正しくは、左遷ではないみたいよ。人手を募っていた仕事があって、上の方からたまたま、私が選ばれただけみたい。お給料も良くなるみたいだし、悪い待遇じゃないから安心して」
「本当に?」
「本当、本当。もっとも真実が知られたら、恥をかくことになるのは課長の方ね。巻き込まれたら面倒だし、レリアナも知らんぷりしておきなよ」
そう部分的にかいつまんで言うと、レリアナはようやく安心したようだった。
「なあんだ、やっぱりあの人の嘘だったのね。良かったわ」
「レリアナもさ、今後のことは考えた方がいいと思うよ。課長、たぶんまずい立場だろうから」
「まずいって、どういうこと?」
「うん、私の異動の内容までは課長にわざと伝えられてなかったみたい。彼は本当に、私を左遷できたと思ってたってことよ」
「……知らされてなかったって、どうして?」
「信用されてないってこと。たぶん、そろそろ上にバレてるんじゃないかな、色々と」
「ああ、なるほど」
近いうちに、役職交替が起きるだろう。それをレリアナも悟ったようだ。恐らく課長と近い存在、これまで彼に色々と手を貸している者は、共に責任を負わされるのではないだろうか。レリアナも巻き込まれないよう、注意しておいた方がいい。
「分かったわ、気をつけておく。けど、私もそう長くないから」
にやりと笑うレリアナ。その彼女が弧を描く口元に当てた手に、キラリと光る指輪が見えた。
「その指輪……もしかして」
「ふふふ、私もついに玉の輿よ」
「今度はどこのお坊ちゃんを誘惑したの?」
「失礼ね。向こうから猛アピールしてきたの。ブラッド・マーティン商会の若頭取よ、昨年まで隣国ベルゼ王国へ修行に行っていたけど帰国したばかり。それで挨拶回りしている彼に偶然会って」
「へえ、恋多きレリアナもついに、腰を据えるのね」
「なんとでも言いなさいよ。彼はとっても大人なの、それに独占欲も強くて。まだ正式な婚約をしたわけじゃないけど、私に悪い虫がつかないようにってこれを」
レリアナの指にある指輪には、このフェアリス王国では珍しい青い石がついている。
既婚者や婚約者がいる者には、指輪を贈る習慣がある。それを薬指に着けていると、お相手がいますよというサインにもなる。絶対に着けなくてはならないわけではないが、ある程度の牽制になる。
「……そうか、そういう手もあるよね」
「なに、突然納得してるのよ」
「うん、ちょっと私も着けておこうかなと」
「はあ?」
「レリアナ、せっかくだから付き合ってよ」
私に特定の男性が居ないことは誰よりも知っているレリアナが、怪訝な顔をしている。
そんな彼女を引っ張って、私は入ったこともない宝飾店に向かう。そして一番シンプルでそこそこ安い金細工の指輪をひとつ買い求めた。
無いよりマシでも、保険は多い方が良い。
そうして買い出しを終え、私は翌日の初出勤に備えたのだった。