第十六話 傷
本日の私の業務は、日々の疲れを癒やしてくれる最高の勤務地となった。
一人で行くと言ったものの、しっかりと護衛つきになってしまったが、室内に入ってしまえばそれも気にならない。
「ふふふふふ……」
ここは殿下の私財金庫棟。大量出金のために現金を持ち出すために数えるのと、現金だけでは足りないために金の延べ棒を換金するために、確認にやって来ている。
前金として渡す分は、今ここに保管されているお金で足りそう。金貨を慎重に数えて麻袋に詰めていく。残りの支払い分は、蓄財として金の延べ棒になったものを換金して作る。そのためには事前に金の相場を財務会計局本院で確認してもらっているので、今日はまだ持ち出すことはない。
大金を一般の換金所で交換すると、市場経済に影響を与えるので、事前に申請して財務会計局本院で換金させてもらうことになるという。そういう事情もあるので、ついに殿下の私室に籠っての業務ばかりとはいかなくなりそう。
一通り金貨を数え終え、ずっしりと重くなった麻袋を抱えて、その重さと硬さと金属のこすれる音に、思わず笑みがこぼれる。
そして残りの金貨を数え、間違いがないかを再度確認する。銅貨一枚でさえも、間違いは許せない性分だ。
「ああ、今日も楽しい仕事だった……」
満足しながら金庫から出ると、扉の外では護衛だけではなくいつの間にかヴィンセント様が待っていた。
「今日の仕事はまだこれからでしょう、本当にあなたはお金勘定が好きですね」
「ヴィンセント様、どうしてここに?」
「殿下から、最初はコレットに付き添ってあげるよう言われたんですよ。これから、会計局本院へ行くのでしょう?」
「あ、はい……でもこれを持って戻らないといけないのですが」
私が抱えていた麻袋を見て、ヴィンセント様はそれを受け取り護衛に預ける。必ず殿下の元に届けて、私室内の金庫に入れておくよう指示する。
そうして私はヴィンセント様とともに、手続きのための書類を持って王城内にある財務会計局本院へ向かった。会計局は政策を行う全ての院に関わるため、官僚たちが集まる行政局の中枢にある。以前訪れたリーナ様のお父様、トレーゼ侯爵の執務室からも近いところだ。
そこは特に人の出入りが激しいらしく、正直なところ行きたくない。けれども、お金の管理は会計係としての私の仕事そのもので、これを放棄することは私の矜持に反するのだ。
まあ、そもそも城内で働く上で最も会いたくなかったのが殿下なのだから、今となっては目立ちさえしなけりゃ五十歩百歩。会計士という記号以外のなにものでもないのだから、気にしたって仕方が無い。堂々としていようと思う。
腹をくくってヴィンセント様に続き扉をくぐると、そこは街の役所など比べものにならないほどの机が並ぶ部屋で、大勢の人間が働いていた。
圧倒される私をよそに、ヴィンセント様はいつのまにか受付で要件を言い、案内されるがままに奥の部屋に通される。その私たちの様子を、机に向かいつつも多くの人たちが注視しているような視線を感じた。
「その方が、殿下の私財会計士を引き継いだ方ですか、ずいぶん若い女性で驚きました」
受付から私たちの相手を引き継いだのは、私とそう年の変わらない若い男性職員だった。珍しい黒髪をした、背も高くない青年。痩せていて色白、いかにも文官といった風だ。本院会計士である証の、腰下まで伸びる長い会計士襟が眩しい。二股の裾には、殿下の担当だと分かる紅玉に金の房。愛想のないその男性は、じっと私を観察しているかのようだった。
「彼女はコレット=レイビィ。これから殿下の用向きで訪れることがあるだろう、面倒を見てやってくれ。コレット、彼は主に殿下の公費担当の会計士の一人だ」
「コレット=レイビィです、よろしくお願いいたします」
挨拶すると、彼は小さく頷く。
「私はイオニアスです、ところで本日のご用件は」
「あ、多めの出金があるので、換金を依頼したいのですが、現在の相場を教えてください。あと書類の作成も初めてなので、一応不備がないか確認をお願いします」
「……見せてください」
口頭で教わった通りに作成した書類を手渡す、そこには、今回ダディスに支払う金額は記入してある。その多額の出金にきっと驚くだろうと思ったが、彼は眉ひとつ動かさずに書類に目を通し、返してきた。
「書類に不備はありません。今月の換金額は十万枚までですので、今月中でしたらそれで。月をまたぐようでしたら、改めて作成していただくことになります。それから、殿下のサインは必ず忘れぬように」
「はい、分かりました」
簡潔に指示をもらえた。さすが本院で働けるほど優秀なのだと、かつての上司を思い浮かべてほっとする。彼は一事が万事、指示とは違う小言をはさみ、本題を後回しにするから面倒くさかった。
要件はそれだけなので、次回には金の延べ棒を持参することになるからよろしくと言うと。
「ただし、あらかじめ金貨を取り置きしておかないと本院でもすぐに出せる額ではありません。用意したとしても、数日しか保管できかねますが」
それに返答したのは、ヴィンセント様だった。
「大丈夫だ、近日中に正式な換金依頼になると思う」
「そうですか、でしたらすぐにご用意しておきます」
「ああ、頼む」
これで本院での用事は終わりだ。次からは私だけの訪問もありえるので、しっかりと彼の顔と名前、それとここまでの道のりを覚えておくことにした。
そうして殿下の私室に戻り、護衛に運んでもらっておいた金貨が届いているかを確認して、出金手続きのための準備を進めた。それと同時に、殿下の視察が近いので、そちらの準備もある。どうやら視察に出た先で、私的な用事があるらしく、そちらの同行者のためのお金の用意だ。
仕事をしない上司につくと忙しかったが、仕事を怠らない上司の元も結局は同じなのだと、つくづく身を持って知った。
午後の休憩時間を迎えて、私は気分転換に庭に出る。
「ん、んん~、疲れたぁ」
大きく伸びをして、肩を回す。
殿下は仕事については指示が細かいが、それ以外はあまり執着しないというか、大らかだ。こうして勝手に殿下の庭で休憩を取っても何も言わない。お茶が欲しい時には、アデルさんたち侍女が使う控え室に行くことも多いが、こうして外の空気が吸えるのはいい発散になる。
ただ、今は庭師が出入りしている。
「お疲れかい、お嬢さん?」
植え替えのスコップを持って通るマリオさんに、大きなあくびを見られたりする。
「書き物が多いと、首と肩が張るんですよね。今日は天気がよくて風が気持ちいいから、いっそ外で仕事ができたらいいのに」
「……そうかい、じゃあひとつ手伝うかい?」
マリオさんが笑って小さめなスコップを手渡してくれた。私はそれを受け取って、彼の示す場所に穴を掘り、苗をひとつそこに置く。小さな苗に土を被せようとすると、咲き始めている花にかかってしまうので、私はスコップを放り出して手で土を寄せる。
そんな私を見て、マリオさんが笑う。
「手が汚れるのを厭わないんだね。先日も、儂のために手すりを飛び越えてくれるし、お嬢さんは不思議な人だ」
「そう? 平民の娘なんてこんなものよ、マリオさんは王宮が長いからそう思うだけよ」
ついでにもう一つ、そう思って土を掘っていると、突風が吹く。
髪が風に揺れ、髪に結んであったリボンが解けて、風に飛ばされてしまった。
「あ、あんな所に」
絹の軽いリボンだったせいか、植木の高い枝まで飛んでいってしまった。手を伸ばして取ろうとすると、マリオさんに止められる。
「まて危ない、今梯子を用意して取ってあげるから」
けれども、幹に少し足をかければ届きそう。だから彼が止めるのを無視して、枝を掴み樹によじ登る。
これでも、運動神経はいい方なのだ。子供の頃はレスターよりも高く早く登れたし、今だって小柄で細いからなんてことない。
あと少しで手が届くし、楽勝。そう思った時だった。
「なにをしている、危ないだろうコレット!」
後ろから急に怒鳴られて、ビクッとしてしまった。その拍子に、幹のくぼみに掛けていた足が滑る。
「わっ!」
ずるりと滑ったのと同時に、掴んでいた手も外れてしまう。せっかく登ったのにと、風に揺れるリボンをせめてもと手を伸ばして掴んだ。ほっとするのと同時に、上手く着地するために受け身を取るはずだったのだが。
地面につく前に、誰かに受け止められていた。
いや、誰かだなんて分かっていたけれども……
「怪我をしたいのか、この馬鹿!」
頭の上から怒声が降ってくるのと、ゆっくりと着地するのは同時だった。
思いのほか、殿下がしっかり受け止めてくれていた。お腹に回された腕は、レスターのそれと同じようにがっしりとしていて、今日出会った会計士の彼とは全然違うんだなと思った。
「聞いているのか、コレット?」
「はい、殿下」
「怪我は? どうしてマリオに頼まずに、おまえが樹に登るんだ、本当に信じられないやつだな」
「大丈夫ですよ、木登りは得意なので。それに、リボンがないと殿下に叱られるじゃないですか」
振り返りながらそう言うと、殿下がムッとしたような顔をするので、当てつけのように手にしたリボンを髪に結びながら言う。
「平民は女だってこんなものですよ、殿下は木登りなんてしたことないかもしれませんが」
「木登りくらい、私もできる」
なぜそこで張り合うのか。くすくす笑うと、殿下は何がおかしいとさらに拗ねる。
「とにかく、ここでは木登り禁止にする。怪我などされたら、迷惑だ」
「だから怪我なんてしませんって、本当に用心深いんですね」
「実際、怪我をした者がいるから言っているんだ」
「殿下が?」
「私ではないが昔、怪我をさせた。今のおまえと同じように、登った私が落ちて巻き込んだ」
「へえ、誰かが怪我をしたんですか……」
それは、悪いことをしたな、とそう思った。誰かを怪我させてしまったという経験は、自分がしたそれよりも、ある意味大きな傷を負うものだ。幼い頃なら、なおさら。
「そのときは気づかなかったのだが、あの者が逃げたあと、私の服に血が染みついていた」
「……あの者って、それ」
「ああ、例の宝冠の徴の者だ。かなりの血が、出ていたようだった。その血を見て、子供だった私は生きた心地がしなかった。どういう経緯があろうとも、傷つけるつもりではなかった。逃げる途中で死んでいたらと……どれほど不安になったか」
頭の、傷。
ズキンと、側頭に鈍い痛みが走る。あの日、激しい頭痛と、その後の昏睡。私が覚えていないことは、思っているよりもたくさんあるのかも……
「その後に父から、生きていなかったら徴は失われると聞いてどれほど安堵したか……コレット、どうした、顔色が悪いな」
「え、大丈夫で……」
私の言葉が聞こえているのか、いないのか。殿下は私の手首を掴んで、部屋へ引っ張っていく。
少し休めと言いながら、強引に掴み引っ張る手はかつて幼い頃にした仕草と同じで。
でも、その大きさも、硬さも、レスターと同じようで。
あれから、ずいぶん時が経ってしまったのだと、どこか他人事のように感じていた。




