第十五話 巻き込まないでください
慌ててハンカチを差し出してくれたアデルさんからそれを受け取り、水なのか涎なのか涙なのか分からないものを拭き取る。相当に見苦しかったに違いない、殿下とヴィンセント様から、哀れなモノを見るような目を向けられる。
「何を誤解されたか分かりませんが、求婚なんて受けてません、告白ですらされていませんし!」
「だがその指輪と同じものを、あの男がしていただろう。おまえが受け入れた証拠ではないのか」
「ち、違います、私のこれは元々ダミーなんです!」
「……ダミー?」
「そうです、殿下のお側に居ると余計な詮索やお声がかかるかと思って、トラブル避けです。ヴィンセント様のそれだって、同じなのではないのですか?」
殿下の側に立つヴィンセント様にそう言うと、彼は薬指にした指輪を見る。
彼が青い石の入った指輪をしているのを見た時は、婚約者がいるのだろうと思っていた。貴族で、殿下の側近、居ないわけがない。けれども、ヴィンセント様がリーナ様と想い合っているのならば、それは他の女性から声をかけられないためのダミー。私と同じなのではないかと思った。
ヴィンセント様はその指輪を外し、私のそばにやってくる。
「これは、ダミーではありませんよ、コレット」
「え……そうなんですか?」
驚く私の前で、テラスから差し込む光の中に、ヴィンセント様は指輪を差し入れた。するとどうだろう、青い石が、太陽の光を受けてきらきらと緑の光を反射させる。その反射が、足元の大理石に落ちてゆらゆらと揺れる様は、まるでリーナ様の新緑の瞳のよう。
反射的にヴィンセント様を見上げると、その光を優しい笑顔で見ている。
「約束はできないので、勝手に私が持っているだけです。でもそうですね、そういう意味ではダミーかもしれませんが」
私は慌てて首を横に振る。
ダミーと軽々しく言うには、この新緑色の光に込められた想いも、その色を見つめる彼の優しい表情も、美しすぎる。私は自分の浅はかな保険と同列に扱ってしまったことを、恥じる。
「すみません、勝手な思い込みでした」
頭を下げると、ヴィンセント様は手を振りながら「謝るほどのことじゃないよ」と言ってくれる。本当に優しい人だ。
だがその上司は、容赦が無い。
「ならば改めて聞くが、コレット。レスター=バウアーを恋人、もしくは結婚相手として考えてはいないのだな?」
「はい、ありえません」
「絶対に? 人の気持ちというのは、分からないものだろう」
「いいえ、絶対にです。誓ってもいいです!」
「……分かった」
ここまで言ってようやく分かってもらったようだ。ほっとしたのも束の間。
殿下が黒い微笑みを見せたのだ。
え、ちょ、何か選択を間違えた? 目が笑ってないよ?
なんとなく不安が拭えないものの、レスターはそういう存在ではないのは確かだし、そもそも私との関わりを作らない方が彼のためだ。
下手に嘘をつくよりはいい、はず。
「でも殿下、どうしてそんなことを気にするんですか?」
「退職させるには惜しいと思ったからだ」
「へえ、退職…………退職?!」
「言っておいたはずだ。ジョエルとは継承問題で、互いの後ろがいがみ合っている状況だ。もしあいつの息がかかった相手と結婚するというなら、側に置いてはおけない。悪いが退職を勧告することになっただろう」
「は、はぁ……」
私はその予想外の言葉に叫びだしそうなのを必死で堪え、息をつく。
それじゃあ、もし私とレスターが特別な間柄で、結婚を考えていると嘘をついていたら、円満退職できたってことじゃない。
ああもうっ、それを先に言ってくださいよ殿下!
「おまえは少々性格に難はあるが、会計士としての実力は認めている。また新たに人を探すくらいなら、このまま雇いたいのが本音だ。カタリーナの件もあるしな。そうかそうか、安心した。その気がないのなら、あの男には悪いがおまえは変わらず働いてもらう。私の部下として」
や……やってしまった。
またしても、選択を誤った。どうしてこう、殿下が絡むと思うとおりにいかないのだろう。
悶々と苦悩している私の頭に、殿下がバサリと書類を乗せた。
「なんですか、これ?」
「契約書だ、私財から支払う、手続きをして出金するように」
受け取ってその額を見て、私は思わず目が飛び出るかと思った。
「こ、これ……、いったい何に、誰への支払い……ダディス?」
契約相手の名に、昨日の黒髪の後ろ姿を思い出す。
久しぶりに王都に戻ってきたダディスは、会いたいと希望する商会主が後を絶たないという。そんなダディスと、会った殿下。
「今回の報告で、これまでにない有益とみられる新たな情報を得られた。その情報を足がかりに、早急に目的を達するための資金だ」
「有益な、新たな情報……」
ははは、乾いた笑いしか出ない。
新たな情報って、なんだろう。ちらりと殿下を見るが、教えてくれるわけがない。
「どうした、扱ったことがない金額で尻込みしているのか?」
「い、いいえ……でも殿下、いいんですか、こんなに」
殿下の私財は、小さな領地とそこで得られる農作物、それらの作物をやり取りするための商会、そこの利益を投資につかって得ている利益。年に得られるお金のほぼ半分を費やしてしまう形になる。つまり、会計上は赤字覚悟ということだ。
それほどまでに、殿下にとって例の人捜しが、重要ということなのだ。
「気にする必要はない、いずれ王位を継げばそれらの領地と事業は国に戻される。万が一継承権を剥奪されるようになれば、それらは返還して、臣下としての新たな爵位領地を拝領することになるだろう。結局のところ、私のものであって、私のものではないようなものだ」
剥奪。その言葉が、ずしんと胃に響いた。
「そんな、可能性があるんですか?」
手元の契約書に視線を落としながら、私が問うても仕方のないことを口にする。
「そうはならないよう、努力しているつもりだが、そうは見えないか?」
「いいえ……」
殿下は、いつだって忙しい。各院の重要な会合には必ず顔を出し、視察も頻繁に入れて動いている。だからといって専権を欲しいままにすることなく、貴族だけでなく市井の発展にも理解を示している。それらは側にいればいるほど、よく分かる。私財管理だって、わざわざ私を雇ってまで完璧に公務と分離させていて、その徹底ぶりは執念を感じるほどだ。
それほどまで頑張るのに、一方では簡単にその地位を明け渡す可能性を口にする。
「デルサルト殿下ご自身は、王位を望んでいるのでしょうか」
公務に向かうために、アデルさんからジャケットを受け取り羽織る殿下が、少しだけ考えるような仕草で手を止める。
「さあな。だが誰が王位についても、国が衰えず平和が保たれればそれでいい。だが今はまだ、その担保がない。ならば私は私で出来ることをするべきだと考えている」
それは、ジョエル=デルサルト卿では、不安があると殿下は考えている?
そして殿下は、継承権を争うには、劣勢でもある?
いつも通りの厳しい表情は、私に何も読ませてはくれない。
「軍部と近衛を抑えているデルサルト派に対抗するには、こちらは常に人手不足だ。だが少なくとも優秀であるなら、重要なのは人数ではないと思っている。期待しているぞ、コレット?」
「……え、私? 期待って言われましても、私はただの会計士で」
「ああ、そうだな。だが私の部下だ」
悪魔のような笑み、再び。
「庶民だろうが何だろうが、辞めるまではおまえも王子派と見なされるということだ。ジョエルなら今後も隙あらば、ちょっかいをかけてくるだろう。だが利用されるのではなく、利用する側に回れ。おまえなら出来るだろう」
まさかの派閥争いに巻き込まれた?
しかも、王位継承問題。本当にどうかしてる、勘弁してください!
 




