第十話 守秘義務事項
「お、お帰りなさいませ、ラディス兄様……あの、これは」
リーナ様が慌てて立ち上がり殿下にご挨拶をしている横で、私は手早くリーナ様の持ち込んだ事業収支報告書をまとめ、開いていた資料と自分が書き込んだメモの間に挟んだ。
チラリと殿下の方を見ると、ばっちり目が合う。
「カタリーナ、成人を迎える前とはいえ、主が留守中に部屋に入り込むのは淑女としてよろしくない」
「はい……ごめんなさい」
しゅんとするリーナ様。そんな姿も可愛らしい、なのにそんなリーナ様を前にしても動じず、殿下は私の方に向き直った。
「コレット」
「は、はい」
「何をしていたのか、まずは説明しろ」
「ラディス兄様、これは私が押しかけて……」
横から口を出そうとしたリーナ様を、殿下は手を挙げて制止する。リーナ様ではなく私からまず話を聞くつもりなのだ。少し意外だと思ってしまう。
「仕事の休憩を利用して、カタリーナ様が関わるご友人の卒業課題へ、アドバイスをしておりました。定められた休憩……昼休憩と午後の休憩を合わせた時間で済ませようと思っていましたが、十五分ほど超過してしまいました、申し訳ありません」
「卒業課題か。それは本当なのか、リーナ?」
問われて、リーナ様は申し訳なさそうに頷く。
「本当です、事業が立ち行かなくなり、恥を忍んで助言をいただいておりました」
「学園の課題なら、教授に教わればいいだろう、なぜ彼女なのだ」
「実務経験豊富な、女性会計士はそう居るわけではないので、意見を聞きたかったのです。実際、お会いして良いアイデアを示唆していただきました」
殿下はそこまで聞くと、小さくため息をつき、ようやく表情を緩めた。
それが彼特有な放免の合図と、リーナ様はよく分かっていたのだろう。にっこりと天使のような微笑みを殿下に返していた。
「今回は不問にするが、この一度だけだリーナ。変な噂を立てられないように。それから、コレットのことは他言無用だ」
「分かっておりますわ、今後は事前にお約束を取り付けますので、またお話させてください」
「ここでか?」
「ダメでしたら、お父様の執務室にお使いを出してくださいませ、それなら構いませんでしょう?」
殿下の追求にしゅんとしていたはずが、今はなかなかに強気だった。案外、というか高位貴族の令嬢らしく、通せる要求はしっかりと押さえる方のようだ。私のなかでリーナ様の評価がさらに上がる。
「ヴィンセントの付き添いとしてなら」
「本当ですか? 嬉しい!」
リーナ様が頬を染めながら、大いに喜ぶ。ちょっと大げさなと思っていると、彼女が小さく呟いた言葉に、私はどこか納得してしまった。
──ヴィンセント様にも会える。
そうして嵐のようにやってきた天使な令嬢は、迎えに来たトレーゼ侯爵とともに、殿下の私室を辞した。
さすがに父親と同伴で出てきたら、親族としての挨拶と見なされるだろうとの判断だったようだ。貴族令嬢とは、大変なのだと同情する。
それから殿下はヴィンセント様とともに今日の視察の報告書をまとめるというので、私はそこで仕事を終えることになった。
「コレット」
荷物をまとめて帰ろうとしたところで、執務室へ通じる扉の前に立つ殿下に呼び止められた。
もしかして、まだお小言があるのだろうか。少し警戒しつつ殿下の元に行くと。
「帰る前に少しいいか?」
「はい」
殿下に促され、再びテラスから中庭に出る。美しく整えられた芝生と、よく手入れされた木々がほんのりと赤みを帯びた日差しを遮り、木陰を落としている。
なんの話があるのだろうと殿下の言葉を待っていると、聞こえてきたのは意外な言葉だった。
「すまなかったな、リーナ……カタリーナが余計な面倒をかけた。大事に育てられたせいか、純粋で遠慮がない」
「でもそこが、リーナ様の魅力ですよね」
そう答えると、殿下は意外だと言いたげな顔だ。
「そうお呼びするよう言われましたので。あ、外ではもちろん、気をつけます」
「いや、いい。彼女の希望を叶えてやってくれ」
「殿下は、リーナ様のことを大切になさってるんですね」
勝手をしたことより、殿下の私室に一人で滞在したことによる彼女への弊害の方を心配していた。そしてもしかしたら、彼女の気持ちも知っているのかな。
「俗に言う幼なじみ、と言うのだろうな。私には兄妹はいないが、それに当たるのがリーナとヴィンセントだった」
「そうだったんですか……今日お会いしただけで、とてもお優しくて素敵なお方だというのが分かりました」
「だから少々心配をしている。リーナがお前の何を、そこまで気に入ったのかをな」
あ、お小言ですか?
「さ、さあ……なんでしょうねえ」
「いったい、どういう助言をしたのか……貴族令嬢として品格を損ねなければよいが」
ジロリと睨まれたが、それ以上は問われない。あれれ、当然ながら何を言ったのか尋問されると思っていたのだけれど。
「リーナとヴィンセントに、余計なことを言うなよ?」
え、それってどういうことですか?
「リーナの呟きを、聞いていたのだろう?」
殿下の位置までは、彼女の呟きは聞こえていないだろうと、思っていた。思わず頷きかけたところで、ハッとする。
聞こえていたはずがない、カマをかけられたと思った時には、既に遅くて。
「やはりな。これも守秘義務だ、いいかコレット」
いやいやいや、良くないです。これ以上聞かせないでくださいよ、王宮の恋愛事情なんて!
そんな心の叫びが届くわけもなく、殿下は続ける。
「リーナは幼い頃からヴィンセントを慕っている。だがリーナの立場、ヴィンセントの事情、双方の都合ゆえに、公にしてはならないものだ」
「そう、なんですか?」
どうして。都合って……? あんなに美しくどこにも欠点が見当たらない高貴な令嬢のリーナ様が、届かない想いを抱えているなんて。
「そういえば、ヴィンセント様は指輪を……まさか」
ヴィンセント様には約束した相手がいる。許されざる相手ってこと? それでも会えることを喜ぶリーナ様……
ああ、なんて健気なこと。リーナ様、そんなあなたに「殿下と結婚すればいいのに」なんて勝手なこと言ってしまいました。
不肖コレット、こうなったらせめて事業の方だけでも、全力でリーナ様のサポートをさせていただくと誓います!
「おい、コレット」
思いの丈を握りこぶしに込めて誓っていたところ、殿下に呼ばれた。
「お前、絶対に誤解しているだろう」
「誤解? 何がですか」
「……ああ、くそ」
悪態をつきながら、殿下は忌々しそうに髪を掻き上げた。
「いいか何度も言うが守秘義務だ。二人は、両思いだ。公にできないのは、ヴィンセントに婚約者がいるわけではなく、俺の継承問題のせいでもある」
「へ……?」
「例の宝冠の徴が顕在した相手が男で、しかも行方不明なせいで、それを知る一部高位貴族たちの間でデルサルト公爵を推す者が出てきている。ヴィンセントは最側近だ、もし私が廃嫡されるようなことになったら共に堕ちる定めだ。そのような者に嫁ぐ約束ができるほど、トレーゼ侯爵家は軽い立場ではない。だからいいか、コレット。余計なことはするな、絶対にだ!」
き、聞きたくなかった。
二つの意味で、聞きたくなかったですよその話は!
まさか、あの日の失態が、殿下の王位継承にヒビを入れてただなんて。ただ単に、殿下が不名誉な噂に苛まれているだけかと思ってた。雪崩式にヴィンセント様とリーナ様まで不幸にする?
だめだ、ここに長く居たら守秘義務事項がどんどん増えるばかりだ。早くなんとか逃げ出さないと、まともで平凡な生活が送れなくなる。
平凡どころか、死ぬ。絶対に死ぬ。
このままじゃ断頭台行きだ……
その日、私は殿下に約束を了承し、ふらふらと足取りおぼつかなくなりながらも、なんとか帰宅したのだった。
 




