40.人生に正解なんて存在しない
「な、なによこれ・・・」
「知らないわよ! あなたが馬鹿な事するから!」
ただの紙切れ一枚が、最近まで慎ましい生活を送っていたある母娘を、さらなるどん底へ突き落とすのには十分の効果を発揮した。
それは、ある女性の代理人から届いた、一通の【内容証明郵便】
そこにはある夫婦が離婚にいたり、その原因となった心美へ、妻側から精神的苦痛を与えた代償として、慰謝料を請求する旨が書かれていた。無論その夫婦の夫とは、心美のパパ活相手の1人であるのは言うまでもない。
(不倫でもないのにどうしてこんなことが許されるの)
「お母さんは知り合いの弁護士さんに相談してくるから、絶対に家から出ないでね」
そう言い残し自宅を出ていく母の姿は、すっかりやつれ切っており、女手一つで娘を育ててきた人物には到底見ないほど、凄惨を極めている。
そう
佐々原心美の家庭は崩壊したのだ
(どれもこれも全部あいつのせいだ・・・私は悪い事は何もしていない)
思いとは裏腹に、世間は心美に厳しかった。
全てが彼女が招いた結果なのだが、彼女は理解できないでいる。
(あいつさえ居なければ・・・)
強い自尊心からか責任を転嫁をしてしまい、間違った方向へ彼女を誘う───
そして紀元佳市は、一時でも一緒に過ごした存在のためか、時間の経過とともに僅かではあるが、情が生まれていた。
「あいつ、馬鹿やんなきゃいいんだけど・・・」
学校から帰宅し、自転車でバイトへ向かう。
いつもの日常が彼には戻っていた。
質素な食事でも、生きている幸福感を感じられる。
最愛の相手と出会い、毎日が充実している。
今まで、なんとも思わなかったことが、素晴らしいことだと認識でき、心にゆとりを持たせてくれる。そのゆとりが魅力として彼を装飾していき、人格を形成していく。
ほんの一月ほど前までは考えられないほど、彼は成長していた。
以前の様な卑屈さも、境遇への後ろめたさもない。
アパートの外観を眺めるだけで、生きている実感が湧いてくるほどだった。
「あんたさえ居なければ!!」
日常に割り込んできた異物が、佳市の動きを止める。
「やっぱりか・・・」と心の中で呟き、覚悟を決め振り返った。
付き合ってた当時とはかけ離れたその姿に絶句してしまう。
絶世の美女とまではいかないが、間違いなく美しかったはずの彼女は、すっかりと変わり果てていた。やつれた頬に、くすんだ瞳、艶やかだった髪も潤いを失っている。
本当に俺の知ってる心美なのか?と疑いすら出てくる。
「あんたさえ・・・」
「・・・ひ、久しぶりだね」
「あんたさえ私の前に出て来なければ!」
「心美も自分の事わかってなかったんだね・・・」
その言葉が心美を逆なでしてしまい、目元にさらなる怒りが増していったのが分かる。
鬼の形相とも違う、ただの化物になり果てていく。
「あの時、心美から告白してきてくれたのにな・・・」
嘆きに似た声が2人の間をすり抜けていく。
耳には届いても、きっと心には届いていない。
無情なまでの違いが、2人の心の距離を遠くへと引き離していく。
「絶対に許さない!!!!」
心美がポケットに手を差し込み、中で何かを握る。
(そこまで追い詰められていたのか・・・)
佳市にはこれから何が起きるか、儚ずも分かってしまった。
初めて告白され、初めてお付き合いをし、初めてを経験した相手。
───それが今、自分を殺そうとしている
心美の本性を気付けず、力になれなかった事を悔やむ。
そして間違っているとは分かっていながらも、その気持ちを受けとめようと決心してしまう。
「わかった。それで気が済むなら、それでいいよ。でも、それでも心美は何も変わらないと思う。自分自身の行いを振り返って、見つめ直さない限り何も変わらない。俺はそれを学んだよ? それでも・・・そっか・・・・・・」
何も感じてくれず、変わる気配の無い彼女に、最後まで話すことを諦めた。
激しい自己愛のため、誤った方向にすさんでしまった魂が、16歳の少女をさらなる罪へと導いていってしまう。
ポケットから抜かれた手には、カッターナイフが強く握られている。
小刻みに震える指が刃を上へ上へと押し出していく。
カチ カチ カチ カチ
聞きなれた音が聞こえ そしてあるところで止まる
(・・・ごめんな)
最悪の想定が最悪な事に現実となってしまった
佳市は情けなく、そして悲しくなるが、それでも最後は笑顔を、と彼女へ向き改まる。
心美の表情が一層険しくなり、体が前へと動き出した。
───その時だった
「馬鹿な真似はやめなさい!!」
心美の背後から男性が飛び出しきて、一瞬にして手に持っていたカッターナイフを取り上げ、体を取り押さえてしまう。
「警察だ! これ以上は見過ごせない。何でかは分かるね? これから署に来て話を聞かせてもらう。いいね? 親御さんへもこちらから連絡するから」
呆然と言葉も発せず、泣きながら警察官に押さえつけられている心美の姿には、彼女なりに苦しんだ過去や、精一杯に高校生活を謳歌しようと努力していたものが、全て崩壊していく様に映り、もはや言葉には現せない。
男性に抱えられながら連行されていく───
(どうしてこうなる前に・・・)
佳市にはどういった言葉を掛けていいか分からなかった。
「○○署の者です。彼女に何かあるといけないと思っていたのですが・・・まさか彼女自身が加害側に回るとは・・・。これから、君にも事情を聞かせてもらうため、署まで同行を願います。いいですか?」
別の男性が佳市へ声を掛け、これから彼女がどうなるか。自分がどういった立場になるか説明をしてくれた。その男性にも悲壮感に似た、少女への同情が感じられた。
「───はい。それで結構です」
男性は一つ深い溜息を吐き、続けた。
「・・・にしても、良く逃げなかったね」
「なんなんでしょうね。どこかでこうなると思っていたからかもしれません」
「たまたま巡回してたからよかったものの、次はちゃんと通報してくださいね? 起きてからじゃ遅いんですよ?」
「はい・・・すいませんでした」
「・・・じゃ行こうか」
痴情のもつれではあったが、明確な殺意があったと警察側は判断し、”事件”として処理することとなった。彼女もそれを認め、一連の騒動について、ポツリポツリと語り始めたと聞く。
高校側もそれに焦りを感じたのか、”懲戒退学”という異例の決定を出し、事態の収束を図ったが、SNSでの事件の拡散は凄まじく、さらには今回の淫行騒動に学校関係者が関わっていたこともリークされてしまい、初動の遅さも含め、世間から激しく追及され、公式に謝罪会見を開くまでの事態となった。
「本当これでよかったのかな?俺たち」
「んー? よくは無かったけど。アタシはこうして佳市が居てくれる事で十分かな・・・。だからもう危ない事はしないでね?」
「あの時、警察の存在に気付いてなかったら、そんなことしなかったから。だから安心して?」
「あっそうなんだ・・・アタシてっきり」
「俺はそんなお人好しじゃないよ? これであいつが何かに気付けばいいんだけどね」
「やっぱお人好しじゃん・・・」
いつもの手狭な部屋で、いつもの指定席に恵理は体を預けている。
この瞬間が今一番の安らぎであり、本当の幸福を実感できる時間だ。
「あと、永遠の事だけど。やっぱりまだ判断つかないや」
「そっか・・・」
「前向きには考えてはいるんだけどね? でも正解が何かなのかって分かんない」
「正解なんてないし。自分が出した答えが全てだし。それがたとえ間違っていても、後から自分で気付くしかないんだし」
人それぞれの価値観があり、それが間違いか正解なんて誰にも分からない。自分の正解が他人には間違いであることさえある。多種多様の価値観があることを知り、そこに罪はないと佳市も気付いた。いかに相手に自分の事を伝え、自分の存在を受け入れてもらえるか、そして相手を受け入れるか。そこには劣等感など不要である。必ず誰かは見ていてくれ、苦しい時に助けを求める勇気も学んだ。そして意外と人は助けてくれることも。
「だな。なら俺が誰かの答えの助けになるなら、喜んで引き受けるよ」
「ふーん。ねぇ? 好き?」
「大好き」
「大好き。ちょー好き。愛してる。これからもずっとアタシの傍に居てね?それが私の答え」
「だから最後重いってば・・・」
人生に正解なんて存在しない
~本章~ 完