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【短編集】あることを、あるがままに。

朝の街。

作者: パン大好き


 午前5時。師走。

 苛烈を極めた残業を終え、ようやく会社の外へと脱出した。

 

 寒い。

 

 都心とはいえ、未明の街はいまだ初冬の夜陰に沈み込んでいた。

 林立するビルと底冷えの暗がりの境界はあいまいなまま、輪郭は溶解し互いに混じり合う。


 翌朝までに仕上げなければならないたぐいの仕事だった。

 腹をくくり、コンビニで掻き集めた飲み物とカロリーを頼りに、報告書作成に没頭した。


「待たせてごめん。寒いねぇ」


 仏壇に手を合わせるようにして謝っているのは、同僚の山元やまもと麻奈まな。寒風に弄ばれた黒髪を頬に貼り付けながら、俺を拝んでいる。両手を細かくすり合わせているのは、木枯らしに手がかじかんでいるからだろう。


 愛らしい仕草だな、と心が動いたのを上弦の月に盗み見られたような気がした。


 彼女とは二年前から同じ部署で働いている。今回の企画担当として強制的に俺とペアにされ、案の定、上司やクライアントの横暴に存分に振り回された挙句、本日の徹夜強行軍と相成った次第だ。


 夜が更け一人、二人と社員が帰宅し、とうとう職場には麻奈と二人だけとなった。同期であることくらいしか共通点もなく、作業に関すること以外の会話も皆無とあっては少々気まずかったので、テレビのスイッチを入れた。


「雪、すごいね」


 東京都心に雪が降り、数人のけが人が出ていることを乾いた口調でアナウンサーが伝えていた。コピーのために席を立った麻奈が、どこか懐かしそうな眼差しで画面を眺めている。


「山元さん、出身はどこだったっけ?」


「私、生まれは鳥取。鳥取って意外と雪、降るんよ。知ってた?」


「へえ、鳥取出身か。山陰って結構、降るイメージあるなぁ」


「木内君って、確か、兵庫県生まれ?」


 コピー機を操作しながら麻奈が問い掛けて来た。なぜ、俺の出身地のことを知っているのだろう? 作業の手を止め、しばし考え込んでしまったことに気付いた彼女が振り返る。


「この前、白岩さんとそんな話をしてたよね?」


 あの性悪部長と個人的な話なんてした記憶もするはずもないのだけれど、小首を傾げている麻奈の姿が妙に可愛かったので、そのままにした。


「兵庫っていっても、神戸のほうちぃさいころ、小学校のころかなぁ、冬の香住かすみに行った時、すごい雪やった。それ覚えてるから、日本海側は雪っていうイメージ」


 鳥取ってね、何年かに一度、大雪になって真っ白に埋もれてしまうの、などと言いながら複写を終えた書類の束を手に麻奈が向かいの席に戻る。いつの間にかニュースはスポーツの結果を流していた。


 二人しかいない職場には、再びキーボードとマウスと書類が織り成す乾いた音が降り積もってゆく。けれども、その源である両社員の顔付きは、どことなく温かさと明るさを帯びたものとなっていた。


 深夜を超え、未明を駆け続け、公共放送の画面が世界の山岳風景を垂れ流す頃になって、ようやく作業は終わりを告げた。広辞苑の半分ほどの厚みに達した報告書を白岩部長の席に叩きつけるように置き、一息入れ、ほぼ同時に互いに顔を見合わせた瞬間、二人の仲はただの同僚から「戦友」へと一気に昇格した。


 麻奈と二人で帰るのは初めてだった。


「寒かったでしょ。何分待った?」


 彼女がこちらの顔色を覗き込むようにして来たのが恥ずかしく、咳払いをしながら顔をそむける。

 視線の先に広がる夜の終わりと朝の始まりが混じり合ったあいまいな暗がりに、その心を逃がして、溶け込ませた。


「じゃ、行こっか」


 もっと他に言うことがあるような気もしたが、そんな言葉しか思いつくことができなかった。


 始発までは、まだ四十分もあった。ホームのベンチで座っているだけなら次の駅まで歩こうよ、との麻奈の提案に素直に従い、コンビニで缶コーヒーを買い求め、肩を並べて幹線道を進んだ。


 そんな二人の横を折り目のついたスーツを纏ったビジネスマンが駆け抜けてゆく。メンズ向け整髪料の揮発性成分を多分に含んだ尖った香りが、彼の一日の始まりを告げていた。


「もう、朝なんだね」


 分かり切っていたことなのだが、麻奈がぼそりとつぶやく。充実感はあれど、身なりも心も互いによれよれの缶コーヒー姿は、激闘を戦い抜いた戦士の我が家への帰投を十二分に物語っていた。


「ちょっと持っててくれない?」


 彼女が、手にする缶コーヒーを差し出してきた。スマホで家にメールしておきたいとのことだった。

 

 受け取った温かさは、彼女そのもののように感じた。

 いや、決してそんなことはないのだけれど。

 

 人差し指の爪が白むほどにギュッと缶を握りしめたのを、麻奈は見逃さなかったようで、目尻を下げ両頬に静かな笑みを浮かべた。

 

 時間ときは容赦なく光の始まりを運んでくる。

 いつの間にか、深く沈みこんだ暗がりを脱ぎ捨てた街は、加速度的にあるべき輪郭を取り戻しだした。

 

 麻奈と俺の二人は、いや、俺は、慌てて地下鉄の次の駅のホームへと潜り込んだ。俺のそばにいる、あいまいな存在が、明確な境界線を持ってしまわない内に。


 始発電車の車内は、思ったよりも込み合っていた。

 何とかして麻奈と並んで座った途端、彼女はコクリコクリとこうべを揺らし始めた。


 徹夜の激務だったのだ、疲れていて当然だろう。

 職場では同僚としてむしろ頼もしさすら感じていたのだが、腕が触れるほどに隣合った存在は、ただただ社会人として頑張っている女の子の姿だった。


 車内が少し寒かったので、俺は首に巻いたマフラーを外し、麻奈の膝にふわりと掛けた。

 そんな行為を見つめる者も、見咎みとがめる者もいないまま、電車は黙々と終着駅へと乗客を運んでゆく。


 ガタゴトと揺れる車内。右腕から伝わるほのかな温かさは俺の胸の内に、熱く、もはや疑いようのない明瞭な想いを刻み付けた。けれども彼女は……


 乗務員のダミ声のアナウンスが終点の近いことを告げたので、気づかれないよう、そっと、マフラーを回収した。


 都心のターミナルに到着した無機質な集団の一員として改札から吐き出された二人は、駅からつながる地下街を歩いてゆく。その先には小さな階段があった。

 

 十二段の階段を上りきれば、その先は互いに別の道。

 そして何もなかったかのように、また、元の関係に戻ってしまうのだろう。


 一段ずつ踏みしめるように進んでいると、気がつけば麻奈が先に階段を上り切っていた。


 彼女がくるりと向き直ったので思わず立ち止まった。

 十二段まであと数段、彼女と目線の位置がぴたりと重なった。


「マフラー、ありがと。とっても、あったかかったよ」

 

 

 地下鉄を出ると、まぶしい位に朝日が都心のビルの群れを、くっきりと照らし出していた。


  いつものように、

  いつもの朝が始まった。


 俺はしっかりと一歩を踏み出し、輝きを増す街へと飛び込んでいった。

 



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― 新着の感想 ―
[一言] 絶対「いつもと同じ」じゃないですね!大人の恋だ~(о´∀`о)マフラーかけられたとき絶対ドキドキしてますね!缶コーヒーと彼女の暖かさ、くらべてみればいいのに。 素敵なお話しでした!
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