貧民街
アレニェの背中を見送った俺は、再び貧民街の入り口を目指して歩き出した。既に中心街のはずれに近づいている。。角を曲がると、街区を区切る塀が見えてきた。さらにその塀に沿って歩くと、赤い光が目に入った。
更に近づくと、その光が一つでないことが分かる。門を挟むようにして、二つのランタンが灯されているのだ。門は開かれており、両脇には衛兵の姿があった。
ゴーン、ゴーン、ゴーン――――――。
俺がその門前に辿り着こうか、という時、夜空に大音量の鐘の音が鳴り響いた。街の中心部にある大聖塔の連鐘が鳴らす、夜を告げる音だ。九時になると、この鐘は鳴らされる。
「閉門、閉門」
衛兵の男が、その残響に負けじと大声で叫び始めた。と同時に、鉄製の門扉がゆっくりと閉じられていく。
貧民街とその他の街区をつなぐ門は、昼間は自由に往来できるのだが、夜間はこのように閉じられる。双方の住民の安全のため、と言うのが表向きの理由だが、それが本当の理由でないことは、貧民街の住民なら誰でも知っている。選民意識に肩まで浸かった貴族たちが、貧民街の住民を少しの間だけでも閉じ込めたいが為に、夜間の閉門を決めたのだ。
少し前までは、それに反発する声が、貧民街にもそれ以外の街区にも多くあった。ほとんどは夜中に貧民街の売春窟や盗品窟に繰り出したい男達のものだったが、神の前には皆同じだ、という平等主義者の声も少なからずあった。
しかし、最近はあまりその活動を見かけなくなった。
16人。
ここ3週間と2日の間に、それだけの人数が中心街で、何者かに殺害されている。しかも、そのうちの半数は貴族である。
街に暮らす住民たちは皆、怯えきっていた。そして、その非難の矛先は当然のように貧民街へと向けられた。何の証拠がないにもかかわらず、貧民街に住む人間による犯行に違いないと考えており、その中にあっては、平等主義者と言えども貧民街を擁護することはできないのだった。
神の前では殺人犯も平等だ、などとは、例えそう思っていたとしても言えるはずがない。
さらに、数日前からは夜間外出禁止令、いわゆる戒厳令も発布されている。アレニェが時間だ、と言っていたのはこのことだろう。彼の場合は、この街にいること自体が問題になる。下手に憲兵につかまるわけにはいかないのだ。
と言うわけで、とにもかくにも、この街は今物騒な状況下にあるのだ。
視線を前に戻すと、扉はもうほとんど閉まりつつあった。
「通らせてもらうよ」
しわがれた声で叫んでいる衛兵の脇を、急ぎ足で通り過ぎる。何とかギリギリのところで閉門には間に合ったようだった。
× × ×
貧民街に入った人間が初めて目にするのは、二車線の大通りだ。貧民街で唯一の車が通れる道である。その両脇にはずらっと商店が並び、様々なものが売られている。もちろんいかがわしい店も少なくない。少し裏通りに入れば、アヘン等の麻薬が裸で店先に並べられているのを目にすることもできる。
龍や鳳雛の意匠が彫られた、異国情緒のあるランタンが、ガス燈の代わりに、赤い光を街路に投げかけている。聞くところによると、酒に酔った赤ら顔を分かりづらくするためにそうしてあるらしい。自分が酔っていることに気が付いていない酔っ払いほど、いい鴨はいないからだ。雨模様にも関わらず、大通りは今宵も多くの人出で賑わっているようだった。
だが、ここが貧民街であることに違いは無い。法律は適用されず、暴力が通貨の代わりになる街だ。隣の奴が、次の朝にはどこかの街路で屍になっているなんてことはざらにある。
それを横目にしながらも、俺は自分の目的地へと急いだ。
大通りを左に曲がり、迷路のように入り組んだ裏路地に足を踏み入れる。大体の場所は足が覚えているのだが、道が変わっていたり、ふさがっていたりすることもよくあるので、集中して歩かなければならない。
ひどい匂いがする。糞尿と、腐った油の匂いだ。灯油の匂いも微かに混じっている。街灯は無く、大通りから聞こえる人々の話し声もどんどんと遠くなっていく。どこに何が潜んでいるのかも分からない。かすかな物音にも体が反応してしまう。
そうしておおよそ30分ほど歩いたころ、ようやく4階建てのアパートに辿り着いた。アイビーの蔦に覆われた、今にも崩れ落ちそうな建物である。元々はレンガ造りだったのだろうが、今ではその欠片の姿も外から見ることはできない。
頭上を見上げると、4階のある一室から微かな明かりが漏れている。淡い光が夜空をそこだけ染めているのだ。
そここそが男爵である。
「そろそろ来る頃だと思っていたよ」
俺が真鍮製のドアノブを握ると、中から女の声が聞こえた。
「入ってらっしゃい、野良犬。いえ、今日は本当の名前で呼んだ方がいいのかね」
女教皇の声だ。
俺はドアをくぐり、後ろ手に扉を閉める。
「いや、野良犬のままで構わない」
「そうかい? それは残念。私はあの名前も嫌いじゃないんだけどね。格好良くて」
カウンターの中に立つプリステスが、薄く笑う。
「野良犬にはもったい無い名前さ」
俺が言うと、プリステスは真顔に戻って、どうでもよさそうに、
「それはそうかもしれない」
と短く答えた。
狭い店である。カウンター席が5つと、奥に二人掛けのテーブル席一つしかない。計7人しか入ることができない店だ。しかも、俺はこの店が満席になっているところなど見たことがない。3人も客がいればいい方だ。
「たまには違うものにするかい? 」
「いや、いつもので頼む」
俺はコートを脱ぎ、カウンターの椅子にそれを掛け、テーブル席の更に奥へと向かう。そこには黒いピアノが置かれており、鍵盤の前に一人の奏者が座っている。
「よう、半月」
タラララン。
俺が声をかけると、バンイェは鍵盤を弾いて、それに答えた。調子はよさそうだ。
「何か弾いてくれ」
俺は胸ポケットから一番安い紙幣を取り出し、鍵盤の上にそれをそっと差し出す。バンイェが、鍵盤から指を上げ、俺を見上げた。俺にはそれが驚いているように見えた。だが、確信は持てない。彼の表情はいつだって分からない。
「あら、珍しい」
カウンターの中から、プリステスの声が飛んでくる。
「それは、バンイェに言ってるのか? それとも俺か? 」
「両方。あんたが彼に曲を頼むのも、彼が驚いているのも」
「やっぱり驚いているのか」
俺は思わずプリステスに尋ね返していた。
「分からないかい? 」
冗談でしょう? とでも言いたげに、プリステスが唇を軽く歪める。
「彼が驚いてるのなんて、顔を見ればすぐにわかるじゃないか」
「顔が見えればな」
そう、顔を見ることができれば、それは簡単に分かる。だが、もしもそれが見えなかったとしたら? 例えば仮面で隠されているとすれば、どうやって表情を知ることができるというのだ?
「生身の顔以外は顔じゃないって言いぐさだね」
「俺はそう考えて生きてきたよ、40年以上な」
「それはつまらない人生だよ、まったく」
「ご忠告どうも」
プリステスを信頼していないわけではないが、かといってその言葉をそのまま受け取ることはできない。俺は再びバンイェに視線を戻す。これを見て、どうして表情が分かるというのだ。仮面をしているというのに。
半月バンイェ。彼がそう呼ばれるのは、彼がいつもつけている仮面の形が、月を半分に切ったような形をしているからだ。その仮面は、彼の顔を全て覆っており、視界を得るための穴すら空いていない。もちろん、口に当たる部分も仮面の下だ。だからかは分からないが、俺は、彼が声を発している姿を一度も見たことがない。
「そんなに驚いていないで、何か弾いてやりな」
プリステスが、俺を見上げたままのバンイェを促した。すると、彼は恭しく紙幣を持ち上げ、更に立ち上がって深々とお辞儀をした。たった一枚の紙幣に対して、これだけの礼を尽くすことができる人間など、バンイェを除けば乞食以外にはいないだろう、と思われた。
だが、バンイェのそれは、乞食のそれとは比較にならない。所作の一つ一つが、あまりにも優雅なのだ。彼のお辞儀が、紙幣に対してではなく、俺と言うたった一人の観客に向けてなされているのだと、俺にもすぐに分かった。
顔を上げ、静かにバンイェは席に着き、鍵盤に指を置く。そして、曲を奏で始めた。鎮魂歌レクイエム、という類の曲だ。何故この曲を選んだのだろう。聞いてみたいが、聞いたところで彼はきっと答えてはくれないというのは、明らかだった。
コン、と。小さな音がその旋律の合間で聞こえた。プリステスがグラスを机に置いたのだろう。そして、彼女の声が狭い店内に響く。
「で、何を知りたいんだい」