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野良犬のプライド

 貧民街、もしくはスラム。

 旧貴族街から中心街を抜け、さらに少し南に下ったところに、その入り口はある。この街がまだ荒地だった頃、初めて開拓され、人が住み始めた場所が、今ではそう呼ばれている。


 中心街と貧民街の間には長い塀があり、その向こう側は、こちら側とは全く別のルールが支配する、混沌とした街が広がっている。電気も水も通っておらず、街路もまばらにしか舗装されていない。もちろん車が通るほどの道幅もなく、家々の軒先が、さらにその狭い道路を覆いつくしている。


 こんな雨の日には、ひどい悪臭も漂っていることだろう。夜盗に人殺し、それに売春婦。表で生きることのできない、もしくはそこから零れ落ちてしまった屑とゴミが暮らす街。だが、俺はその場所が嫌いではなかった。いつの頃からか、そこが自分の居場所なのだと感じられるようになっていたからだ。


「到着してしまう前に、報告を」

 隣を歩いていたアレニェが立ち止まった。俺も仕方なく足を止めた。

 俺は今、アレニェから依頼を受け、ある家の調査をしていた。とは言っても、大したことをするわけではない。ただ、その家を見張り続ける、と言うだけだ。貴族街の喫茶店で朝から晩まで過ごしているのも、それが本当の理由だった。

 

「特に変化はない。」

 俺は簡潔にそう答えた。もちろん嘘ではない。灰色の髪の少女が俺を訪ねてきた、というのはイレギュラーなことではあったが、アレニェからの依頼とは無関係のはずだ。

「分かりました。では、何か変化があり次第、報告してください」

 俺の言葉に、彼はあっさりと頷いた。そして、話は終わりだという風に、再び歩き始める。

 いつもならそれで終わりのはずなのだが、俺は今日、初めて彼に、前々から思っていた質問をぶつけることにした。


「俺は一体何をしているんだ? 」

「知る必要が? 」

 アレニェは即答した。これ以上聞くな、ということだろう。細い目が薄く開かれ、その奥の黒い瞳が、闇の中でどこからかの光を反射して毒々しくきらめく。密林に潜む、獰猛な大蛇を目の前にしているような、そんな錯覚さえ感じさせる目だ。

 引き下がるべきだ。深入りすべきじゃない。頭の中に、俺を押しとどめる言葉が鳴り響く。だが、今日はそれに耳を貸すつもりは無かった。


「お前が俺に支払った額は、決して安くない。お前の故郷くになら、家一軒が建つくらいの金額だ。だが、俺のしていることと言えば、一日中貴族街の喫茶店でコーヒーを飲んでいるだけ」

「それはあなたが勝手にしていることです。私は、旧貴族街6番、9ブロックの家を見張っていてくれ、と言っただけのはずですが」

「ああ、そうだな。コーヒーを飲むのは俺の勝手だ。だが、もう二週間だ」

「そうですね」


「二週間、誰一人としてあの家からは出てこない」

 俺は、喫茶店の窓から見える景色を頭に思い浮かべる。二車線の舗装された道路の向こうにある、屋敷の姿を。大きな門構えの家だが、その向こうには雑木林しか見えない。塀の内側に並んで植えられていた庭木が、何年も手入れをされていないせいで、そうなってしまっているのだ。

「もちろん、訪れる人もいない」

「ええ。でしょうね」

 アレニェが鷹揚にうなずいた。何を考えているのか、全く悟らせない表情で。


「釣り合わない」

 それが、ここ数日俺が感じていたことだ。高い金額には、それに見合っただけのリスクが付きまとう。だが、俺はこの二週間、一度も、何の危険も感じなかった。もちろん、今日のシエルの来訪はその中には含まれていない。 

「それは、あなたが決めることではありません」

 アレニェが、一歩俺に近づいてきた。

「我々が決めることです」

 そして、俺の顎を赤銅色の指でつかみ、軽く上へと持ち上げる。息までかかりそうな至近距離で、俺たちは向かい合う。俺より少しだけ身長の高い彼の目が、俺を軽蔑するような、嫉妬するような眼で見下ろす。


「考える必要などありません。大丈夫。あなたが何もしなければ、命のやり取りをするようなことは、万が一にも起こりませんから」

  何もしなければ、と言うのは、何も考えなければ、というのも含まれるのだろうか。もしそうなのであれば、俺はそれを守ることはできないだろう。考えることを止めた者に、この世界は等しく牙を剥くことを、俺はよく知っている。


「なんて、言ったところであなたは守らないでしょうけれど」

 だが、俺が反論を口にする前に、アレニェは俺の顎から指を離して、一歩後ろに下がった。目はもう細められ、さっき浮かんでいた感情は、もうそこから読み取ることはできなかった。

「別に、あなたじゃなくても良かった。ですが、私はあなたにこの件を依頼しました。それが何故だかわかりますか? 」

 丁寧な言葉遣いだが、高圧的な声色で彼が尋ねた。

「……俺が、野良犬だからだ」

 そして、俺がそう答えると満足げに頷く。


「その通りです。あなたはお行儀のいい人間じゃない。こちらの言う通りに動くことなど無いし、飼いならすこともできない。しかし、一匹狼というわけでもない。あなたにそんなプライドはない」

 ともすれば中傷とも取れるような言葉でも、それを言うことに、彼が躊躇うことはない。

「それこそが、私があなたを評価している点なのです。時としてそういったプライドは判断を誤らせる。無いに越したことはない。野良犬ストレイ・ドッグ。いい名前です。そう、結局のところ、あなたは私と変わらない。一番最後のところで、自分が生き残ることを優先する」


 そう言うと、アレニェは俺を見つめた。俺がどんな顔をしているのか、確かめるように。そして、再び口を開く。

「私があなたに依頼した理由は、あなたの調査能力を評価しているからではありません。あなたが、個人の力の限界を知っているからです」

 俺は額に、嫌な汗が滲むのを感じた。彼の言う通りだったからだ。確かに、俺は過去に傷を抱えている。一人の力ではどうにもならない相手と事を構え、全く力及ばすに敗れ去った。だが、頭ではそれを理解していても、否定する言葉は口からこぼれ、

「ちが――」

 そして、人差し指を口に当てるアレニェに遮られた。


「申し訳ないですが、もうそろそろ時間の様です。あなたとの会話は楽しい。ついつい長話をしてしまいます。ですが、今日のところはこの辺りにしておきましょう。それでは、また」

 アレニェはそう言うと、濃紺のコートを翻して夜の闇の中へと消えていった。彼の大きな背中は、不思議と夜に紛れるのがうまい。そんなところは、蜘蛛と言うよりも、密林に潜む猛獣を思わせるのだった。

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