第五章 矢田さんストーリー
「最近知り合った人の人数は?どんな些細な出会いでもいい。言ってみると良い。」と男は言う。
「二人です。」と僕は答える。
「いや、嘘だ。四人だ。そしてわたしを入れると五人だ。」と男は自信満々に否定した。
「わたしは君の何もかもを知っている。先月のバイトの給料から家にある歯磨き粉のメーカーまで全てだ。」
男は僕の周りを歩き回りながらしゃべっていた。男は暗闇に紛れていて特徴をつかむことが出来ない。ただ身長は高そうな感じだった。それ以外は闇に包まれていて何も分からなかった。そもそもここはどこだろうか。今が何時なのかもさっぱり分からなかった。腕時計を見ようとしてみたが出来なかった。判然としない僕の意識の中、よくよく見てみると僕の体は椅子に縛り付けられており、身動きを取ることが出来なかった。
「あなたは誰なんですか?」
「わたしか?わたしは、そうだな。この世の隔たりの向こうからやってきたかつての移民とでも言っておこうか。呼び名は矢田でいい。」
「では矢田さん。あなたの目的は何なのですか?これは立派な犯罪ですよ。すぐに解放して下さい。」と僕はなるべく丁寧に言う。
「解放しろ?面白いことを言うね、鴎君は。その縄なら君自身の力で解けるはずだ。心の中で、外れろ、と唱えればすぐに外れるさ。」矢田さんはそうやって不気味に笑いながら僕の周りを歩き回る。今で二十周を回っただろうか。
「わたしの目的、というよりも我々の目的と言うべきだろうか。我々はイノベイターという組織で活動している。内容は革命家に近いだろうか。この世界の調和を司り、なるだけ平和な地球を作りあげることを目的としている。そしてわたしはその一環として“傘”の人間の保護を行っている。そのことについて鴎君に用があって来た。」
「イノベイター?傘?何を言っているのか分からないな。」
「だろうな。鴎君はわたしの言動を理解することが出来ない。それはわたしが唯一鴎君の細君に関する事情を思い出すことが出来ないのと同じ根拠であろう。いや、こちらの話だ。」
矢田さんは息を整えながら言葉の一つ一つを丁寧に唱えるようにそう言った。
「とにかく、結論から言うと鴎君は記憶を失っている。鴎君は“傘”の住人なんだ。この世界にたどり着く前、鴎君は傘という国に暮らしていた。だが、ある理由で傘から抜け出し、ここへやって来た。その理由に関してわたしは要領を得ていない。君自身の力で記憶を取り戻していく他ないだろう。傘の住人というものは極めて特殊な性質の持ち主が多い。自身のことは最終的には自身でしか解決できないのさ。」
と、矢田さんは一気に話し終えたところでようやく僕の周りを歩き回っていた足を止めた。どれもこれも常軌を逸した話でとても容易に飲み込めるようなものではなかった。
しかし、その一方、この人は多分本当のことを言っているだろう、という感情が頭の中で渦巻いた。
僕は矢田さんに会うずっと前から今の自分に違和感を覚えていた。
僕の記憶は一体どこから続いているものなのか、この地球のどこに僕にとっての安住の地があるのかが分からなかったのだ。だから、もし矢田さんの言うことが本当ならば、僕の記憶を何らかの方法で取り戻すことでその違和感を解消することが出来るかもしれない、と思った。不透明な部分は多々あるが、今はこの人の言うことを信じてみた方がいいのかもしれない。
「よく分からないですが分かりました。そうすると、矢田さんは僕の手伝いをしてくれるということですね?」と僕はやや投げやり気味に言った。
「我々はイノベイトする者として存在している。我々が行う行動は基本的にこの世界で一番最初に行われ、それが流行になり、当たり前になり、世界中に波及されるのだ。それが我々の仕事だ。しかし、わたしの今の仕事に関しては例外だ。傘の住人の保護、それはイノベイター自身が抱える課題だ。そこには傘の住人の精神的ケアも含まれている。その理由についてはまた今度話す。安心したまえ、鴎君の身は我々が保障する。だから精一杯記憶の再構成に努めてくれ。記憶を蘇らせるコツは記憶を遡ることだ。今まで知り合った人別で分けて思い出してみるといいだろう。もう時間のようだ。夜はまだ長い。もうひと眠りするがいい。では、また会おう。」と言って矢田さんは奥行きも何もない真っ暗な向うに歩いていってしまった。




