とある都市
どれだけ、恨み言を考えたか。そういうことを考えることすら、億劫になっていた。意味なんてなくて、理由なんてなくて、ただ、この世に生を受けたことだけを後悔した。なぜ自分が、なんてことを考え出せばきりがない。そこらへんに転がっている死体、それが運命を肩代わりしてくれてさえいればどれほど楽だっただろうか。死んだ者に捧げるものなんてなく、ただ先に楽になった者への恨み言が積もり積もっていた。けれど、吐き出すだけの元気はなく、まだ生きてしまっている
自分の体の丈夫さを心の底で呪った。
エルデという国は、貧富の差が非常にわかりやすい国だ。円形の高原に作られたこの国は中心部に行けば行くほど標高が高く、富める者が増える。その富める者こそが、貧しい者をより高みから見下ろす形式になっている。国王と聖女が住む王宮は国の中で一番大きな建造物であり、これを見下ろすことのできる建物を作ることは許されていない。
聖女の威光をあまねく届かせる、というのがもっともらしい建前で、しかしながら、それが紛れもない本音でもあるというのが、この国の現状だ。しかし、そんなことは、今まさに死にそうになっている最外周の最貧層に住む彼女には、どうでもいいことだった。
彼女は、彼女からしてみれば嫌味ったらしくそびえ立つ、まるで塔のような王宮を睨みつける。彼女は、それが王宮であることを知らない。彼女に学というものはない。教えてくれる存在もほとんどいなかった。
楕円形の城壁に囲まれたエルデ王国。彼女がいるのは、その、最北端。エルデの抱える闇。一定以上の生活水準を、いや、健常な生活を維持できない人々が集う塵芥の吹きだめだ。ちょうど、王宮を中心とした円から、はじき出された場所。
彼女は、まだ年端もいかない少女であり、堕胎児だった。堕胎児が忌み嫌われる存在であるのは北部にきても全く同じで、そこだけはまさに平等だ。
だらんと垂らした自分の二の腕を少女は眺める。そこに浮かぶ紋様が、自分の運命を決めてしまったということに、彼女は気づいていない。彼女は、自分がここにいた理由を知らない。中央部から、捨てられたのかもしれない。もともと北部の生まれだったのかもしれない。家と呼ぶのもおこがましい木の集まりの前で横たわる男と、目が合った。寂れた道一本挟んだ先で、男は地面を這いながら移動する。彼女の視界から外れてようやく男は動くのをやめて、目を閉じる。
彼女にとってそうしてくれることが随分と楽だと思った。彼女にとってはあずかり知らぬことだが、大抵の人間はその紋様を見ると立ち去ろうとする。それは中央部と同じ、堕胎児に対する恐れからくるものだ。もっとも、穢れがついているなんて理由ではなく、ただ人と違うから。体のどこかに不気味な紋様があるというのは、それだけ忌避される理由になりうる。
中央部であれば人に余裕があり、怖いものを痛めつけようとすることもできるだろう。けれど、北部の人々は違う。怖いから逃げる。それだけの話。言ってしまえば、怖いからといって何の意義もなく、関わっていたら自分が死んでしまう、そういう話だ。たかだか十歳くらいの少女を襲っている暇があれば、食物を持っている奴を襲う。ここはそういう場所だった。
彼女がそれに気づいたのはここ二年ほどの前。それまでは、この地獄にそのまま晒されていた。体を殴られたり蹴られたりというだけでは、最高に平和な一日だった。刃物か何かで刺されたりすればそれは普通の一日。指を折られればちょっと不幸な一日。腕や足を折られれば最悪な一日。そんな毎日が紋様を見ただけでピタリと収まる……楽だと彼女が思うのは仕方のないことかもしれない。
けれど、それでちょっと困ることが起きたのも確かな事実だ。ゴミのふきだまりにまれにいる女子供に食料を譲る奇特な人物、そういう人種さえも彼女は遠ざけてしまった。生きていくのがやっと……そういう人物は彼女を無視するだけだが、生きていける人は、彼女と戦うことができたのだ。正確には、紋様を刻み込まれた何か、だが。
女としての尊厳を切り売りすることもできなくなってしまった。もっとも、それは奪われなくなったということと同義である。
彼女の体で性欲を満たすだけ人間もいたし、その行為に何か見返りを差し出すだけの人間もいた、ただ蹂躙したりするだけの人間もいた。だから、尊厳を失うことが多く、見返りはほんの少しだけで総合的に見れば損かもしれない。それが彼女の結論だ。
不思議なことに、彼女の体は丈夫だった。いや、彼女という生き物が強かったというべきか。
二、三日、虚空を眺めているだけとはいえ、何も彼女は口にしていない。最後に食べたのはそこらへんに生えてきた雑草だった。それでも空腹という感覚はあって、ただそれがとても辛いだけ。土を食べるとざらざらして、口の中の水が奪われてさらに辛くなるということは、何もかも切り売りしていた時代にとっくに学習していた。
彼女は生きているのが面倒になって、何も口にしないという遠回りな自殺を何度も試みていたが、結局空腹に耐えかねてその辺の何かを口にしていた。
ばたばたと死んでいく周りの人間を見て、あれじゃあ何も食えないなと考えたことはしょっちゅうで、彼女は生きるのが面倒なくせに生きることに必死だった。
結局、自分は生きていく気があるのかもしれないというのが、彼女の結論だった。そして、空腹を耐え切れなくなるまでただ無為な時間をすごして、耐え切れなくなったらそのへんの何かを口にするという生活を繰り返していた。
そんなわかりやすい生活を彼女は楽だと思っている。ただ、面倒で嫌だとも思っている。こうして空腹に耐えるのは辛いし、何かを口にするのも面倒。楽だけど、面倒。
中央部ではそういう仕事のことを滑車仕事と呼んでいた。ただ、回って回って回るだけの滑車と、同じことを繰り返すだけの仕事を重ねただけの話だ。生きるための糧を手に入れるという意味では全く同じだが、ほかに何かをするためという意味では、全く釣り合っていない。
もっとも、彼女はそういうことを考えているわけではない。それが精一杯であり、それしかなかった。選択肢なんて他になくて、故に考えるべきことなど何もなかったのだ。だから、その感覚をおかしいなどと疑うこともなく、すっと体の中に入ってきた。
行かなければ。
少女はそう思った。立ち上がって歩みを進める。行為としては、それくらいだ。