とある猫
一言で表せば、それは鳥籠だった。まだ、過激派から逃げていた頃に、拠点の中であった小さな鳥籠に鳥が飼われていたことをシルは思い出す。確か、人の話した言葉を覚えるという習性があって、色々なことに使われていた。特定の言葉に対して、割り振られた言葉を返すという躾もできたので、何かと重宝していたようだ。シルたちは弱い存在で、情報は何よりも貴重だから、的確にバレないように伝達しなければならない。
シルの目の前の現実に、ひとつ付け加えるならば、それは檻でもあった。強固な鉄格子で囲んだ、檻。そして、鳥籠。明らかなに普通の鳥ではない、何かを、飼育するための鳥籠。シルが目覚めた部屋と同じように、四方に置かれた燭台の揺らめきが微かにそれだけを伝えてくれた。
足を進めるごとに、床に深く沈み込む。どうやら、また、とても豪勢な布のようなものを敷いているらしい。シルには、この部屋の酷い釣り合わなさが感じ取れた。いや、多分、シルでなくとも、この部屋に一歩足を踏み入れれば、誰だって気づくだろう。先ほどの廊下と一緒で、また高そうな絵画が、飾られている。
「ひっ……」
だが、それは廊下に飾られていたものとは全くの別物であると、シルは思い知った。違わないのだが、違う。廊下に飾られていた絵画が、生き物の栄華を、少なくとも光の部分を描いていたとすれば、ここに飾られている絵画はその逆、生き物の闇の部分を描いているものばかりだった。それはシルの知っている現実とよく似ていた。むしろ、フィクションであるがゆえの現実よりも惨たらしい光景だ。
ここは危険だ、とシルが一歩、二歩後退すると、背中に硬い感触。ドアだ。開けたはずのドアが、閉めた記憶のないドアがいつの間にか、閉まっていた。ドアノブを弄っても、何も感触がない。木の壁に穴を開けてドアノブだけをつけたみたいな。ドアとしての機能がなくなってしまったのではないかという、そんな感覚。ドアノブがただ動くというだけで何の意味もないのではないかと、そしていつの間にかそうなっていたという現実にシルは身を震わせる。
閉じ込められたからではなく、そういう頭の痛くなる現実に取り残されたことに、シルは怯えていた。
じゃら、と金属の掠れる音。金属と金属の擦り合う、人の心を不安にさせ不快にさせる鈍く低い音。
「……」
けれど、恐怖とは裏腹に、シルは奇妙なほどに落ち着いていた。心を落ち着かせていた。
だって、これは、これまでの日常の延長に過ぎない。シルは何度も何度もその首に刃を突きつけられたことがある。その度に死を覚悟して、震えて恐怖に押しつぶされそうになった。そしてその度、誰かに命を救われていた。だから、これも、今回もその続きだ。
別に、シルには今回も誰かが都合よく助けてくれるだろうなんて甘い考えがあるわけではない。けれど、わざわざ取り乱すことのほどでもないのだ。わかりやすい現実に潰されるのか、わかりもしない現実に潰されるかなんて、どちらも大した違いではない。だから、怖くとも落ち着いていた。
「にゃ~、にゃ~」
鳴き声。そして、足元に柔らかな感触。猫だ。ここにも、ひょっとしたら猫がたくさんいるのかもしれない。なんたって魔女の家かもしれないのだ。そういう冗談を考えられるほどシルはいつもの精神状態を取り戻していた。きっと、今からギロチンで処刑されることになっても、そんな些細なことを考えるのかもしれない。
「にゃあ」
猫がもう一度鳴くと、足元を離れて部屋に置かれた巨大な鳥籠に向かって歩いていく。シルもそれに追従した。その方が楽だから。何かに頼って生きていくのは至極楽だから。
一歩進むたび、鳥籠の中身が朧気ながら見えてくる。巨大な影。全体像も、おそらく縦にはシル二人分くらいの大きさがあった。きっとそれくらいの大きさが必要なのだろう。
例えば――
そこで、シルは考えるのはやめた。猛烈な嫌悪感が、思考を停止させる。考えたらいけないと、理性がストップをかけても、なぜかシルはまた一歩また一歩と足を進めていた。近づけば近づくほど、心臓が強く鼓動する。なぜかはわからない。けれどシルは何かに引き寄せられるように、鳥籠に向かって歩いていく。先を行く猫は振り返らない。まるで、シルがついてくることを知っているかのようだ。
やめろ、やめろと警告してもシルは自らの体を止められない。気分が悪くなる、それでも歩く。どれだけ歩いたのか、シルにはわからない。
ずっと歩いていたようで、全く歩いていない気もした。意識がどこかに行っていて、気づいたら目の前に鳥籠があった。近くまで来ても、その鳥籠の中身はよく見えない。シルは自分が見たくないからだと思った。体の中を這い回る忌避感が、視界をぼやけさせていた。そして、重くのしかかる背徳感が、シルの目を釘付けにさせる。
シルは気づいていた。その影が一体なんなのか、自分が理解しているかもしれないということに。けれど、必死になって否定していた。認めたくない現実を目の前にして、目をつむってしまっていた。
それは、割ってしまった皿を前にして、一度は自分のせいじゃないと否定することによく似ている。
ぼぅ、と火が爆ぜる音がした。すぐさま振り向いたシルの目の前には、様変わりしていた部屋の様子が広がっている。四方の隅にしかなかったはずの燭台は無数に置かれて、部屋を明るく照らす。床には、赤い布がしかれていて、磨き上げられた木製の机は、光沢すら放っていた。だだっ広い部屋に置かれたそれはどこか不自然さを感じさせる。
凄惨な光景を描いた絵画は部屋の側面に飾られているだけでなく、天井にも描かれていた。今にも血を滴らせそうなそれは、部屋の温度を幾らか奪いそうだ。
「はぁ……っ、は、はあぁ、あは……は、あぁ、ははは……」
呼吸が乱れる。シルはやがて呼吸すら困難になり、闇雲に空気を求めるが、うまくできない。
そこに散らばっているのは、骸。そう、ただの骨の集まりだ。どす黒く変色していて、その色が元はなんなのかわかったとしても、ただの骨だ。血に塗れた骸が、幾層にも積み上がっていてもやはりそれはただの骨だ。
「はぁぁぁぁ……っ、はぁぁぁ……」
大きく吸い込んで、そのまま吐き出す。教わった、焦った時の息の整え方。呼吸には、人の癖が出ると助けてくれた人が言っていた。緊張をほぐすやり方も、出産の際にしなければならないものもあるらしい。そういう懐かしさを頼りに、シルは徐々に心を平静という泉の底に沈めていく。大丈夫だ、こんな光景似たようなものを何度か見たことあるだろうと、自分に言い聞かせる。まるで作業のように、見知った顔をした死体を数えた光景を思い出す。
「ふぅ……」
心臓の鼓動がいつもと同じ速さに戻ったところで、シルは大きく息を吐きだした。骸の匂いも、いつの間にか嗅ぎなれていたことに驚いた。そして、シルはそのまま……振り返らなかった。もう一度、鳥籠を直視しようだなんて、微塵も思わなかった。この部屋がおかしいということがわかるくらいに明るい。それはつまるところ、鳥籠の中の影の正体もきっと見えてしまうということに他ならない。
あえて、目を背けたものを改めて見ようだなんて、シルはそんな奇特な考えの持ち主でもない。
けれど、足は床に縫いつけられたかのように動いてはくれない。ぎりぎりざくざくと、頭が締めつけられて、強引に向きを変えさせられるようにゆっくりと、シルは振り返ってしまう。死んだ人間。死んだ犬。死んだ猫、死んだ、鳥。そこらじゅうに転がっている骸が、目に入っても、何の感慨も覚えない。ああ、そこに落ちているんだな、という認識。絵に対する恐怖心も、いつの間にか薄れていた。まるで、もっと恐るべきものがあると、シル自身が理解しているかのように。
そして、シルは今まさに、それを見なければいけないとばかりに。柔らかそうな、肌。やめろ。艶やかな銀髪。やめろやめろやめろ。違う違ういやだ、おかしいおカシい可笑しいオカシイ。触れれば折れてしまいそうな腕や脚。ヤメろやめてやめと、やめおろヤメロ。いやだイヤダだダだだ。そして、無粋で、不釣りあいな、重々しい鎖と鉄球。それを、それを、それを、つなぎ止めておくための枷。無表情なそれはまるで絶望も希望も、何も抱かずに死んでいった死体みたいだ。不気味で、奇妙で、異質で、異形で、ただただおかしい。
「おぇ……ぁ、がぁ、ああっ……うああああ、はあぁああ!」
湧き上がる嫌悪感をまとめて吐き出す。何かを食べた記憶はここにくる前のことで、当然ながら何も出てこない。それでも、何かを吐き出しているという実感だけはあった。鳥籠の前にお座りしている猫は見えないそれをひょい、と避けた。振り返った猫の瞳には、シルの姿が映っている。それはいつか、見た道端に放り捨てられている人の顔にほんの少し重なった。頬の肉がそげ落ちて、骨が浮かんでいる。口角を上げると骨の部分が露骨に強調されて、一層気味悪い顔になる。
「はぃ……」
笑った顔、とシルは自分の考えを問いただす。ナゼダなぜだ何故ダダ、なぜなぜナ故ナゼ。黒猫の瞳に映るシルの表情は、いつ死んでもおかしくない、弱々しいものだと一見してわかるが、その裏には自らが死ぬだなんて全く思っていない……いや、むしろ、いつ死んでも本望だと、全ての希望を手に入れたと言わんばかりの歓喜の色に満ちていた。シルの自覚を確認したのか、黒猫はもう一度、
「にゃあ」
とだけ鳴いて、鳥籠の隙間を通って、それに近づいていく。目を見開いたままのそれは、眠っているかのように力が入っておらず、それこそ、死んだかのような様体だ。黒猫は、そのままそれの脚に乗っかって、前足で太股を器用にぺしぺしと叩く。
それは、動かない。ぺしぺし。ぺしぺし。ぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺし。ぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺし。
シルはそれをただ見ているだけだった。猫を止めようとも、それに触れようとも、その異様な光景から逃げ出そうとも思わなかった。ただ、茫然自失。傍観者。ただの役立たず。生きているだけのただの骸。部屋の中に転がっているそれらと、なんら変わらない。
それでも、それで、シルは納得していた。猫がただ遊んでいるいる。ただそれだけの光景を、じっと見つめて、それが何か神聖な儀式のように、見入ってしまって、魅せられてしまった。
「あ――」
そして、突然、心臓が痛み出す。心臓だけではなく、全身が。違う。シルは気づく気づいた気づかされた。痛いのは、体に浮かぶ紋様だと。全身に広がったそれがシルの体を締め上げている。
「――」
声が出ない。経験したことのない痛みに、喉のあたりで音が止まっているみたいに、吐き出すことができない。シルは痛みを、表せない。痛みを痛み以外の形で、発散することを、禁じられてしまった。
意識が消えそうになった。持っていかれようとする、その先で、シルはそれを見た。ぐぎるん、と瞳が周囲を舐め回し生気を取り戻したそれを。そして、それの体から出て部屋中を這い回ろうとした、影を。