とある館
「にゃ~」
しばらく歩き回ってわかったことといえば、ここでは黒猫を放し飼いにしているということだ。黒猫はエルデにおいて極端な扱いを受けている。幸福の象徴であり、翻って幸福が逃げていくとも考えられているからだ。元を担ぐときは剥製や木彫りの置物にしている一方で、道端で黒猫に遭うことを人々は異常に嫌がる。黒猫もただの猫でしかないのに体毛が黒かっただけでこんな扱いをされるなんて、シルは心底同情する。もっとも、シルもたまたま体に黒い紋様があっただけで、大きな差別に遭っていたのだが……。
それに、黒猫は魔女の使い魔として描かれることも多かった。幸福の象徴でありながら気まぐれで逃げていく、そういうものである黒猫は自然と呪術的存在でもあったらしい。
たとえば、夜でも目が見える黒猫は魔除けに使われたらしいし、だからこそ、魔女の使い魔として人々を襲うのに使われたとも聞いている。ヘルトサイアという国では要人が死亡すると必ず魔女の呪いが疑われるらしいが、エルデでそんなことを言おうものなら、一笑されるだろう。
もっとも、どっちが先かはわからないということも仲間は教えてくれた。つまり、魔女との関わりがあったからそういう曰くがついたのか、そういう曰くがあったから魔女の使い魔として使役されるようになったのか、という話だ。やっぱりシルには興味がない。
猫は猫だ。その瞳は愛くるしいし、抱き上げれば温かい。機嫌が悪いと引っ掻かれたりするけれど、寂しいときにはいつもそばにいてくれる。同年代の子供と遊んだことのないシルからすれば数少ない友達だったのだ。
「あぁ……やばい。結構いいかもしれない、これ……」
そんな感傷に浸ってしまうのは、こうして猫に埋もれているからかもしれない。十匹前後の黒猫にまとわりつかれる状況は平和だったほんの一瞬を思い出させてくれるからだ。そして、
「うん、やばい……」
涙が、頬を伝う。楽しかった日々は大抵終わりを告げる。幸せな時間はずっと続かない。皆が襲われて、悲鳴と怒号が耳にこびりつく。身を隠して、静かになるのをじっと待って、死んでしまった命を数え始める。赤く染まった黒猫を抱きかかえながら、自分をかばった命に名前と思い出を通わせて、たくさんの後悔と一緒に頭に刻み込む。シヴァニエル・バートン、口うるさい人だったけれど、歴史だとか民族伝承なんかを教えてくれた、数少ないシル自身を見てくれた人。酒が入ると聞いてもいない昔話を語り出して、何度も聞いた話を永遠に続けるのだ。もっと色んなことを教えて欲しかった。もっときちんと話を聞いてあげればよかった。そんな具合に、昔を思い出してせめてこの人のために長生きしなければと何度も心に誓うのだ。過激派に捕まる直前、先に行けと逃がしてくれた際の後ろ姿が、脳にこびりついていた。
彼はおそらく死んだ。その思いには報いなければならない。もっとも、こうして重さに耐え切れずに投げ出してしまったのだけれど。
温かい思い出と必ずついてくる悲しい思い出に、バカみたいに心を揺さぶられながら、視界にまた、黒猫が横切っていく。その猫はこちらを一瞥すると、ぷいっと違う方へと歩いていく。
シルがふらふらと追いかけると、まとわりついていた猫はあっという間に逃げていく。残されたのはシルだけ。まるで襲撃があった直後みたいに一人だけでぽつんと立っている。
そんなシルの寂しさを知ってか知らずか、猫は高そうなドアを爪でがりがりと削っている。そのまま抱きかかえると、先程までの暴れっぷりが嘘のように収まり、猫はなんだ、こらとでも言いたげな表情でこちらを振り返る。抱きかかえた温かみは、なんだか懐かしい。
ドアノブに手を伸ばそうとすると、なぜだか、急に開けるのを躊躇ってしまった。なんだか、開けるべきではない。開けるなとそんな意思がドアの向こうから伝わってくる。
「にゃ~」
抱えていた猫がシルの戸惑いを感じ取ったのか、急にジタバタと暴れる。ドアに何か恨みでもあるか、執拗に引っ掻こうとする。
そんな猫の態度に感化されたわけではないけれど、シルはドアノブに手をかける。
ドアの向こうでは、女の子が飼われていた。