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何かを追い求めて  作者: 立方体
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とある少年

 シルという少年は、人の心臓の音を聴かされたことはあっても、人に心臓の音を聴かせたことがない。

 エルデにおける死別の際に、必ず行う動作がある。それは死者の胸に耳を当てることだ。理由は明確にただ一つ。生きているか死んでいるかを確かめるため。ただ、それだけのための行為だ。

 そこから転じて、もう二度と帰ってこないといった命を掛けた誓いなどをする際に自分の心臓の音を聴いてもらうという風習が生まれた。

 シルが心臓の音を聴かせたことがないというのは、つまりそういうことだ。誰かを守ることより、誰かに守られることの方が遥に多かった。守ってくれた人たちの二回目の心音を聴けたことは一度もなかった。

 命を守ってもらったとはいえ、シルは彼らが本当に自分のために行動してくれたとは思えなかった。だからといって、薄情だと決めつけたいわけではない。こう、漠然としたピントの合わなさ。彼ら彼女らのシルを守るという目標が、自分に向いていないのではないかと感じることが多かった。シル本人が置いていかれている、堕胎児であるシルが重要であってシルという少年には意味がない、そんなふうに言われている気がしていたのだ。 

 それに、シルは自らの名前の由来を知らない。いや、自分の名前の意味は知っていても、どうしてその名前にしたのかということを聞かせてもらったことがない。エルデにおいて知を意味する名前だけが記してあったと捨て子だったシルを拾った人は言う。もちろん、これまで生きてこられたのは彼らのおかげであり、当然感謝もしている。だからといって、その人生が幸せだったかと聞かれれば多分シルは首を振るだろう。生きていてよかったと思う、けど幸せではなかった。シルはそんなことを言ってしまうかもしれない。

 そもそも幸せがどういうものなのかすらシルはわからない。エルデのごくごくありふれた家庭というものを体験したことがないから。死んでいった彼らはシルのことを見てはくれなかった。シルに誰かを重ねて、あるいはシルの向こう側の何かを見つめて、死んでいった。

 だから、シルは幸せがどういうものかわからない。


 シルが目覚めたのは、見知らぬ建物の中だった。過激派と呼ばれる人々に連れて行かれたところまでは覚えてはいるのだが、そこからどうしてここまで来たのかは、全く身に覚えがない。

「皆、大丈夫かな」

 どこにいるかもわからない自分のことよりも、シルが最初に心配したのは身の回りの人のことだった。

 シルは堕胎児だ。生まれつき穢れを持った子供。不浄の存在。その名前を聞けば、大体の人は目を背けるか、顔を顰める。要するにただの嫌われ者。堕胎児はそういう事情があるため、早死する。運が悪ければ、産後すぐに殺されてしまうし、普通は誰も世話なんかせず初めての誕生日すら迎えることもできずに死ぬ。奇特な人が親になってくれたとしても、堕胎児を育てているなんてことを知られたら、露骨に差別されて、まず先に親が生きていけなくなる。そう考えれば、十二歳の誕生日を迎えることのできたシルは本当に運に恵まれていたとしか言えない。

「けど、これでいいんだ。これでよかったんだ」

 シルはむしろこの状況を歓迎してしまっていた。十二歳のシルが幸運であったことは疑いようもないが、幸せだったかと言われれば、それには疑問符が浮かぶ。八百七十二人。五歳の誕生日から数えていた、自分を守るために死んだ人数だ。それだけの数がシルを守るために命を落とした。この国には聖女という存在がいるらしいけれど、シルは会ったこともない。エルデ王国の成立に尽力した初代の聖女の統治は完璧で、争いなどなかったとまで言われているらしいが、シルからすれば嘘に決まっている。御伽噺に出てくる初代聖女と今この国を治めている国王と聖女は似ても似つかず、実際にシルは差別を受け、そのために多くの人が死んでいる。

 その現実はシルを諦めさせてくれるには十分だった。シルは十二年もの間自分を守り続けてくれた人々の気持ちを踏みにじって、過激派に投降した。本来は殺されるはずだったが、堕胎児の証である、黒の紋様――生後の段階では、手のひらに収まる程度のもの――が左腕にびっしりと広まっている姿を見て、恐れをなした連中が、シルを常闇の森に捨てたのだった。

 記憶を辿ってみれば、やはり間違いなくシルは常闇の森に捨てられたはずなのだ。魔女の住まう、生のない森。ところが、周囲を見渡してみれば、森の中ではない。四方に置かれた燭台の灯火からかろうじて部屋であることがわかる。光は一切入ってこず、おそらく窓もないのだろう。

 光は朧げに揺れて、いつ消えてもおかしくないほどに頼りない。そんな状況でも、シルは冷静だった。追われていた日々の方がよっぽど恐ろしかった。どんどん欠けていく人を確認する方が辛くて、ずっとずっと死んでしまいたくなった。

 この部屋はただ暗いだけで、今すぐに身に危険が迫るわけでもない。敵が潜んでいるならば、シルが起きる前に殺されているはずだ。

 もとより捨ててしまった命だ、惜しむつもりもない。シルは投降して、ずっと助けてくれた彼らを裏切ることになった。それは単にシルの都合だ。別に、過激派が言うように堕胎児である自分に生きている価値がないなんて思ったわけではない。けれど、八百七十二人以上の人を殺してまで生き残るべき命ではないと思っただけ。

 もっと早くに決断すれば、この数字はずっと減ったのだろうけれど、今はそれを悔やんでも仕方ないだろう。

「…………」

 部屋の中は随分と静かで、微かな身じろぎがやけに耳に残る。闇雲に動き回るのも危険なので、取り敢えずじっとしていることにした。シルは必死に考えを巡らせて、状況把握に努める。常闇の森に捨てられたことは間違いない。けれど、問題はそこからだ。

 常闇の森に生物はいない。いるのは魔女の使い魔だけで、生物が迷い込んだら瞬く間に命を奪われると聞いていた。だったら、シルが生きているのはおかしい。そして森に建物があるなんてことも聞いた覚えがない。

 とは言っても、生きて帰ってきた人間がいないとまで言われるこの森だ、証言が残らないだけで実際にはあるのかもしれない。

 結局、わからないことだらけで、推測に推測を重ねるしかない。

 例えば、ここは常闇の森の中で今自分がいる部屋は魔女の住処で危険かもしれないが、森の中で殺されなかったのだからしばらくは殺されないだろう、みたいなそういう都合のいい考えを並べてシルは立ち上がった。無茶苦茶かもしれないが、それぐらいしないと、奮い立たないと思った。一度捨てたはずの命なんてもはや大した価値じゃない。

 そして、どうせこのまま死ぬのならば、魔女に一回くらい顔を合わせてからの方がずっとずっと価値のある死に方だと思った。踏み出した一歩が、深く沈み込む。今更気付いたが、目が覚めたばかりにしては、体の痛みがない。感触からして、床に何かを敷いているらしい。シルにはわからないが、とても贅沢な使い方だと思った。

「うわっ……」

 暗くてよくわからない距離感に苦戦して、ドアに頭をぶつけたあと、シルはなんとか、部屋を出る。思わず漏れた呻きは、ひょっとしたら予感が当たっていたのでは、なんて思わせてくれるに十分なものを見たからだ。

 鬱蒼と生い茂る樹木は大空を遮って、ガラスの窓から差し込む光はほんの僅かだ。出た先の廊下を一望しても、等間隔に並べられた燭台、床に敷かれたいかにも高そうな布、至るところに飾られている肖像画。シルには、それらの価値がわからないし、何のためのものであるかすらわからない。それでも、全部を売り払えれば、どれだけの人を養うことができるだろうかとも思った。

 状況確認の一貫として、肖像画を見てみれば、見事なまでに統一感の欠片もない。年齢はバラバラ。人種もバラバラ。それどころか、大昔にいただとか海を渡った先の大陸に暮らしている、だなんて噂の亜人と呼ばれる人間に似た種族すらいる。亜人についてはその外見的特徴しか聞いたことはなかったけれど、一目見るだけでそれとわかるくらいに、肖像画は正確だった。もっと、本物を見たことがないけれど。加えて、ところどころではあるけれど、明らかに人ではない、動物もいた。

 この、あまりに統一感のない絵の並びに、シルは背中がぞわっとする。嫌な感じだ、と思う。

「ガァ! ガァァッ!」

 甲高い鳴き声とともに鳥の羽ばたきが、空気を揺らす。しばらく耳にしていなかった、ちゃんとした音にシルの心臓は一気に鼓動を加速させる。釣られるように窓の外に目を向ければ、一羽の黒い鳥が、空へと舞っていく。

 あっという間に黒い鳥は姿を消して、シルはほっと一息をつく。落ち着くと、常闇の森に生物はいないという噂が影をちらつかせる。疑問はどんどん増えていく上に、わかったことは疑問の解決には役立ってくれない。ここは常闇の森ではなく、ごくごく一般的な森なのだ。

 なんて考えは楽観的すぎるだろうか。その、ごくごく一般的な森に豪華な造り――少なくとも内装は――の建物があるのかとか……そもそもエルデの周辺は平野で常闇の森以外に大規模な森はないのだが。結局、常闇の森に、生物はいたと考える方がよっぽどシルは納得できる。証言は怪しい。そして、ここには魔女が住んでいるのだから。魔女ならば、基本的にはなんだってありだろう。シルの知識にある限りでは魔女とはこういう存在であるというものはない。

 呪術的儀式の行使者という場合もあれば、超常現象を引き起こしたりする人という場合も、あるいは単に悪徳を犯しただけの人であったということも聞いていた。ことエルデに関して言えば入ったものは二度と出てこられないと言われている常闇の森の主、ただそれだけだ。

 そんな話に尾ひれがついても、侵入者の生き血を吸い永遠の時を生きる存在だ、なんて程度。だから、シルにとってはこれからどうするのかの方がずっと重要だった。

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