とある黒幕
「まったく、この世は偽りばかりで微塵の正しさもありはしない」
エルデの酒場で、一人の男が酔っ払っていた。周りは大声で話すその男を迷惑そうに眺めている。あるいは関わりたくない、興が削がれたとばかりに席を立つ者もいた。
「そうかいそうかい。けど、あんたが飲んだ酒だけは本当だよ」
「ははっ、女将さんいいこと言うじゃねえか。確かにその通り。俺が飲んで食べて、そして話す。こりゃあ、確かに現実だ」
「別に構いやしなけど、あんた金はあるんだろうね」
「ああ、あるさ。もちろんだ」
そう言うと、男はどさっと金貨の詰まった袋を、カウンターに乱雑な所作で置く。それを見て、酒場の女将はにやりとその笑みを深くする。
「沢山吐き出してもらうよ?」
「そういや、女将は常闇の森を知ってるかい?」
「ああ、北にある森のことだね。なんでも騎士様たちが取り除きに行ったんだってね」
金払いのいい客に対して、女将は健気に話を繋げる。取れるやつから取るのはこういう店の常識だ。
「ああ、本当にいい子たちだ。まぁ、常闇の森には魔女って奴がいるんだが、それも知ってるかい?」
「ははっ、そんな御伽噺の世界の話がしたいのかい、あんた」
「魔女ってのは女将が思っているみたいに穢れを一身に宿した存在だ。厳密に言えば、人ですらない場合があるし、女ですらない場合もある」
「奇っ怪なもんだね。あんた、物書きの才能があるんじゃないかい? もっと聞かせておくれ」
女将のそれはおべっかであったが、男はそれを十分に理解していた。男は誰かに話を聞かせたいだけで、その姿勢などどうでもいいことだったのだ。
「その身の穢れを払わんがために魔女は、普通の人間の血を取り込むのさ。誰からも、いや、多くの人に嫌われていた身だからこそ、少しでも清らかであろうとするのさ」
一気にまくし立てる男はまた、酒を呷る。そして、女将にもう一杯と店で一番高い酒を頼む。とぷとぷと注がれるそれは不吉な笑みを浮かべる男を水面に映し出していた。
「けど、それは薄まるだけで穢れの総量が変わるわけじゃあない。結局は何ら意味のないことだ。常闇の森には尋常じゃないほどの穢れが溜まっている。ところで女将、あんた堕胎児を見たことがあるか?」
「やめてよ、そんな話。せっかくのお話の熱が冷めちまうよ」
「まぁまぁ、大事な話なんだ」
「……そうさねぇ、生まれたばかりの堕胎児ならあるさ。そいつもあっさりと死んだみたいだけど」
「そうなんだよ。堕胎児ってのは大抵が早死だ。けどなぁ女将。堕胎児が十二、三。あんたの息子くらいの年齢になるとさ、とんでもないことになんだよ」
女将はそのお世辞を嬉しそうに受け取った。彼女の息子はとっくに二十を超えていて、今では立派な海の男になっている。
「へぇ、どうなるんだい? 聞かせておくれ」
だから、乗ってしまった興のまま、次の言葉を催促した。例え、興味のない話であっても金を払う客の言葉なら聞いてやるのが酒場の稼ぎ方だ。
「生まれたときには手の甲に収まるくらいの黒い紋様がさ、全身に広がっていくんだよ。そうだな、十二になったなら片腕にびっしりくらいの量かね」
「恐ろしいもんだね。さっさと殺しちまう方が安心できるさ」
「堕胎児ってのはね、魔女になる資格を持ったものなのさ。世界から嫌われたものであるからこそ、清らかであろうとする動機がある。同じ境遇を辿ったからこそ、受け継いでも構わないと思う。たとえ、それが不条理なものだとしても。なぜなら魔女こそが堕胎児にとって唯一共感しうる存在だからだ」
男は声高に宣言すると、酒を飲み干す。中心部の最外縁のものなら半月は生活できる金額の酒を一息に。
「女将、もう一杯くれ」
「はいよ」
女将は男の話に、気味の悪さを感じていたが所詮は酔っ払いの戯言だと聞き流していた。
「堕胎児は魔女の意思を継ぎ、意思を託した魔女は安らかに眠る。新たな魔女はまた同じように清らかな人間の命を奪い、その血でもって自らの穢れを流そうとする。だがねぇ、結局は洗い流せない。意味のないことなんだ」
「だから、騎士様が魔女を殺しに行くってのかい?」
「ああ、惜しいな、女将。魔女が死ぬってことはそうそうないんだ。けど、魔女を殺す方法ってのは今ではもう確立されているんだ。オルトアハブって国を知っているかい?」
「息子が仕事でよく行ってるよ。海の向こうにあるから、あたしは行ったことがないけどね。なんでも魔女だなんだと言いがかりをつけて女の子を焼き殺してるって話だよ」
「おお、それだそれ。魔女にはな、焼き殺すってのが一番有効なんだ。まぁ、なぜかは知らんがね。ん? そうか、騎士様の目的か。穢れってのはな、そうそう形がないもんだ。たまたま、魔女の体を寄り代にしているだけで、本来はどこにでもあるし、どこにでもないもんだ」
「あんたの説明じゃ、魔女が死んだら、穢れってのはどこかに行っちまうんじゃないのかい?」
男は、女将のその言葉を嬉しそうに首肯する。酒に酔っているということを差し引いても、男の表情は異常であった。酒に酔っているというより、何か別のことに酔っている風ですらある。
「ああ、行き場を失った穢れはこの地を飲み込み、エルデを地獄に変えるだろう!」
呆然と、突拍子もないことを聞き流す女将を尻目に男はさらにカウンターへと金貨を大量に置く。
「女将、話を聞いてくれてありがとう! もっとも、もう金なんて大した意味はないだろうがな!」
男は釣りを受け取ることなく、そのまま外へ出る。
外へ出ると、民衆はどこか騒がしい。すっかり日が暮れている時間帯の空には夕焼けの鮮やかさはなく、どす黒く変色した血色に染まっていた。
そんな異様な景色に怯える人々を尻目に男は歓喜の声をあげる。
「あれが地獄だって? 違うね! 今こそが地獄だ。偽り偽り偽り偽りぃ! 正しきものなど何一つないじゃないか! ああ、ご先祖様よ、感謝しようじゃないか。あんたは俺に楽園を教えてくれた! 地獄? とんでもない。あの時代こそが、天国だ!」
周囲に喧伝される声は、自然と耳目を集めた。血走った目をした男は、不気味なまでのこの景色とよくよく似合っていた。
「エルデにはかつて地獄と呼ばれた時代があった! その地獄を鎮めエルデを築いたのは聖女様だ! だが、今の聖女にはそのような力はない。かの聖女は偽りに過ぎない! かの王はその事実を隠し続けた! さあ、来たれ地獄よ。さあ、来たれ救世の聖女よ。やがて地獄に落ちるこの地を救いたまえ!」
前王国近衛騎士団団長、シヴァニエル・バートンは高らかに予言する。新たなる聖女の出現を。
「愛しのシルよ。手塩かけて育て上げたありとあらゆる痛みを『シル』者よ! 穢れを受け継げ! お前を守るために散った命のために、この国へ復讐するのだ!」
その瞳には狂気が渦巻いていた。




