とある気持ち
シルが突然部屋に戻ってきていても少女はどこかを見ていた。その視線の先を想像してみても嫌な気分になるだろう。なぜならそこには地獄しかないからだ。
堕胎児が歩く道には屍が転がっている。後にも先にも。不幸の象徴でもある堕胎児が死を招くというのは至極真っ当な意見だ。けれど世の中には堕胎児を守るべきだという人は確かにいる。少数であっても、いる。
そういう人たちは少数であるが故にまとまることができて、何より自分の掲げる正義が正しい物だと信じ切っている。自分のあずかり知らぬところであったとしても、自分の正義が踏みにじられることを許容できない。許容できない正義をなんとしてでも叩き潰そうとする。当然、堕胎児をすぐさま殺すべきだという人もいて、その人たちもその人たちなりの正義を抱えている。正義同士の対立の先に待っているのは闘争と、そして犠牲だ。
だから、堕胎児は厄介者扱いされていないものになる。普通の人にとっては守ることも、殺すことも積極的には関わりたくないことなのだ。だから、傍観する。
シルのように扱われるのは例外みたいなもので、普通ならば死が覆ってくれる。普通の生活を送れることは堕胎児にはありえない。だからシルは目立つ。だから批難される。話しあいなんてできるはずもなく、あとに残るのは結局、同じような闘争だけ。
早々と退場しても、泥をすすり生きながらえても、その先にあるのは闘争だ。
故に、堕胎児は死を重ねるとされる。社会に適応できない、異物であったが故に起こりえなかった争いの火種になってしまう。
シルは自分以外の堕胎児を知らなかった。だから、あの黒猫の言葉を聞いて、僅かな迷いを生じさせてしまった。
このまま連れ出していいものか、そもそもそんなことが可能なのか。
少女は消極的理由であったとしても、ここにいることを望んでいると、あの黒猫は言った。どうすることもできない。少女は何も言わないから。
シルは迷ってしまっている。資格があるのか、権利があるのか、そもそも自分自身の意思は。
このままここにいれば待っているのは確定的な死だ。それは、人はいつか死ぬ、なんてことと同じくらい確かな事実だ。ここから出られるはずがない。けれど、このままは嫌だ。少女は変わらず、視線を固定してどこかを見ている。それだけは同じ。
「ねぇ、君はどういう人生を生きてきたの?」
シルは呟いたが、少女は反応を見せない。ずるいと思った。それは酷く身勝手で酷く傲慢な考えをする自分と、それをさせる少女に対して。自分の考えが、大きなお世話になることを十分わかっている。そんな自分を醜いと思う。けれど、シルはどうしても少女に生きて欲しいとそう、思ってしまう。
自分を優しく抱きしめてくれたことを勝手に借りとして返そうとしているのかもしれない。それもまた、押しつけがましい想いだ。結局、シルはそれだけしか想いの伝え方を知らない。一度だって生きていたいと、伝えた記憶はない。仲間たちから生きてくれとは何度も何度も、伝えられた。だから、生きてきた。
だから、それだけ。シルにとって気持ちとは押しつけるものでしかない。
「君の人生は、生きていてよかったって、そう思えることが一瞬でもあったのかな?」
ありふれた日常は血と肉の匂いに潰されていてありがたがる暇もない。感覚が摩耗していくような辛く悲しい日々を過ごしてきた。誰かが死ぬたびにもっとしっかり生きればよかったと後悔する。
けれど、後悔しないで済むような生き方はできなかった。碌に名前も知らないような人に、わけもわからないままに担ぎ上げられて、体裁だけが整えられて、人が死んでいく。何で自分なんかのために死んでいくのだろうという疑問は降り積もって、やがて自分の人生に対する大きな問いかけとなって返ってくる。
人生に意味はあるのか、あるとするならばそれはどんなものなのか。
まるで、呪いにかけられたみたいにシルは楽しく生きようとした。仲間に誇ってほしかったから、何より自分が後悔したくなかったから。
けれど、叶わない。どれだけ楽しくあろうと、そう振る舞おうとしても死がそれを押し流す。
死から立ち直って、さあこれからというときになってまた死がやってくる。死に慣れた頃には、シルには人生を楽しむことなんてできなくなっていった。その中で頑張って、努力をしても人生をしっかりと生きていくことはできなかった。
それでも、どれだけ最善を尽くしたつもりでも後悔はふつふつと湧き上がり、シルを追いかけてきた。こうすればよかったんじゃないか、ああすればよかったんじゃないか――自分なんて、生まれてこなければよかったんじゃないか。
シルは、お前は不幸の象徴だと糾弾されれば間違いなく頷く。お前の周りには死が付き纏っていると罵られれば甘んじて受け入れるだろう。
だから、シルは願う。叶わぬことを夢想する。
――生きていてよかったと、一度でいいから思ってみたい。
「笑われるかもしれないけど、僕は敢えてこう言いたい。君には生きてほしいと思うんだ。だからお願いだ、そこから出てきてください……」
鳥籠の中の少女はぐるっと首を回して、シルの方に目を向けた。その深い瞳に、吸い込まれていく。シルは少女からじっと見つめられて、目が離せなくなる。ぐいっと惹きつけられて放されない。放してくれない。
まるで、魔性だ。人を魅力する才能。少女には、それが備わっている。
けれど、シルはそんなことを気にしていない。経緯がどうであっても少女のために何かをしてやりたい。それが望んでいない形だったとしてもなんとしてでもやり遂げると覚悟は決まっているのだ。
シルは歩いていく。鳥籠に向かって、一歩一歩。そして、呼びかける。
そこから出て来いと、ついて来いと。はっきりと明確に呼びかける。鳥籠ではなく、卵の殻をそっと叩く。
「ねぇ、一緒に歩いていこうよ。ほら、一人なら辛かったかもしれないけど、二人ならわからないだろ?」
鳥籠の中にシルは自らの右手を差し出す。少女はゆっくりのその手のひらを視界に収めて、シルの顔へと視線を移した。そして――




