とある教え
今の王族は偽物だと、あるいは錆びついた王冠だとシヴァニエル・バートンは言っていた。そこからいかに初代の王国が素晴らしかったのかと話が続いていくのだが、シルはさほど興味がなかった。彼の言うことは矛盾しているように聞こえて、けれど妙な説得力があった。とはいえ関心を持つかはまた別の問題だ。いずれにせよ正当な継承でありながら初代と当代の王国は、聞いただけの話であっても大きく食い違っている。争いの起きない理想郷と今こうして自分が置かれている現実。
そんな遥か昔のことを正直に受け取るわけではないが、昔がそうあったならば今だってそうあるべきだとシルは思う。たった一人の子供を巡って争っているようなら、理想郷なんてものは捨ててしまえばいい。
懐かしい記憶を思い出したのは、懐かしい経験をしたからだろう。誰かの温かさなんてとうに忘れてしまっていた。
「それにしても、ここはどこなんだろう」
シルの呟きに返事をするものは、ここにはいなかった。長い廊下を歩いていても何もいないのだから、返事を期待して口に出したわけではない。
目を覚まして抱きしめられているということが恥ずかしくて部屋を飛び出してみれば、何故か廊下にいた。普通ならば当たり前のことだが、部屋から出て部屋にいたという珍体験をしたシルにとっては当たり前のことではなくなっている。
逆に部屋に戻ろうとしたら廊下にいるという状況になってしまった。ここがどんな仕組みでこうなっているかは、シルには預かりし得ないことだ。どうしようもないのだから、ひたすらに歩き続けるしかない。
時折、一縷の望みをかけて部屋に入ったりしているのだが、結果は変わらない。構造を把握しようと同じところをぐるぐると堂々巡りしようとしているのだが、それもまたうまくいかない。直角に左曲がりを三回繰り返せばもとの位置にたどり着ける当たり前の常識もご丁寧に歩幅と歩数まで合わせたが、結果は失敗。
左曲がりであるべきはずの廊下の先はなぜか右曲がりになっていた。酷く徒労感を覚えたシルだったが、わからないということがわかっただけまだマシだと自分を奮い立たせた。無駄になったのが時間であり、命ではないだけ徒労で済んでいる。
「はぁ」
と、溜め息を漏らしながら廊下の突き当たりでシルは右に曲がった。そもそも廊下の内装が全く同じなことがおかしい。いや、内装だけならともかく置かれた調度品や窓の数。挙げ句の果てに花瓶の中の花の本数と種類まで、ことごとく同じだった。左右が判定していたりするが、違いなんて精々その程度の違いだ。シヴァニエル・バートンあたりはその統一感こそ素晴らしいと言いそうだがシルには気持ちの悪さしか感じなかった。
魔女とはやはりわかり合えない。
こんなものは悪趣味の塊でしかない。
だから、シルは気づかなかった。注意散漫だったというのは簡単だが、しっかりと注意していたところで防げたかと言われれば間違いなく否だ。都合、何度目かの場所の変化だ。気がつけば、いつの間にか、シルが立っているのは廊下ではなくなっていた。
回数を数えるなんて無駄なことをシルはしていなかった。ここが魔女の住処だというならば、気づいたらさっきまでいた場所と違う場所にいるなんて、何回起きたって不思議ではないと考えていたから。
さほど構えずに辺りを見回すと部屋だとわかる。四方の燭台に火が灯されているのは同じとして、悪趣味な絵画も規則性の欠片もない肖像画も飾られていない。床に赤い敷物が広がっているだけでその他に取り立てて目立つ家具は置いていない。
ありきたりだなとシルは感じた。もっともシルの記憶している部屋というのは必要なものは手の届く範囲に、という殺風景そのものと言えるようなものであったから一般的なありきたりとは違うだろう。だからなんだという話ではあるが。
もう一度ぐるっと見回してもさしたる変化はない。こうしてここにいるということは魔女の何らかな意図が働いている可能性が高いのだが、向こうからの動きは見られない。
どれだけ待っても何も起きず、けれど部屋を出るのはなんだかもったいない気もする。シルの考えは大体そんなところだ。
「お前に頼みたいことがある」
それはどこからともなく聞こえた。きょろきょろと首を振っても、シルの視界にそれらしき影はない。ぐるっと見渡しても、やっぱりない。
「こっちだ、堕胎児」
その口の効き方にシルは若干苛立ちを覚えながら、もう一回周囲を見渡す……が、やはり何もない。殺風景の権化のような部屋だ。
「足元だ、足元」
言うとおりに視線を向けると黒猫が擦り寄ってきていた。見下ろすと視線が合ってシルは若干だった苛立ちをさらに加速させた。
「何をする」
シルは擦り寄られていた脚を思い切り振って、蹴飛ばした。そのとき、清々しいまでの笑顔が浮かんでいた。憂さ晴らしは十分にできたようだ。
冷静になってやばいことをしたと気づいたが、シルの心は想像以上に平静を保つことができた。その黒猫からは、不吉さを感じさせない。シルに対しての害意がないように思えた。
「ふざけているのか、堕胎児」
壁際まで飛ばされていた黒猫はふしゃあーと毛を逆立てて威嚇するが、こんな馬鹿な争いをしている場合ではないと気づいたのか、あっという間に大人しくなってしまった。本来ならばシルは動物をそれなりに好むタイプの人間だが、魔女の使い魔としての側面が強くなっていて今回ばかりは不快感を露わにしている。
「何か、用か?」
珍しくシルはぶっきらぼうで、妙に強気だった。ここで目を覚ましてから、勝てないと思わされてばかりのシルには、邪気の感じられない一匹の黒猫は逃避の相手としては最適だったのかもしれない。
あるいは、鳥籠の少女との邂逅はシルにより強い人格の形成を促したのかもしれない。もっとも年下のような格下、と思い込んでいるような相手と交流経験がないシルにはそういう相手にどう振る舞えばいいのか、まるでわかっていない。そのせいで相手との距離感、言葉遣い、ありとあらゆる要素で多分に間違っていた。そして刷り込みのように魔女は悪い存在であり、黒猫の使い魔も同じだ。少女を助ける上での敵対関係だと思い込んでいたことも大きい。だから、次の黒猫の言葉には完全に虚を突かれた。
「あの子を助けてやってほしい」
最初、シルはあの子という固有名詞に関して相互認識が足りていないのではないかと思った。魔女にとって、シルのいうあの子は生贄で助けるべき存在であり、使い魔のいうあの子は死んでも構わない存在ではないのだろうかと。
「どういうことだよ。使い魔」
「簡単なことさ。使い魔には自我が与えられている。だったら彼女の隠された願いを叶えようとするやつが現れたってなんらおかしくないだろう?」
「ちょっと待てよ。隠された願いってどういうことだよ。それじゃあまるであの子が、あの人が表向きはここにいることを望んでいるみたいじゃないか」
「ああ、お前は、そこで止まっているんだな。何にも知らない無垢な存在だったのか。なら、初めに一つ言っておこう。あの子は、自ら望んで鳥籠の中に囚われているんだよ。少なくとも積極的に外に出ていく理由を彼女は持ち合わせていない」
「じゃあ、何だ。意味ないじゃないか。そんなのあの人自身が望んでないと意味が、ないだろ」
「違うよ。要するにあの子は理由を欲しているのさ。ここから逃げるに値する理由を。だから、お前が説得してくれ。できるはずだ。だって堕胎児の辛さは堕胎児にしかわからないだろう? 大丈夫、共感し合うなんて芸当を、お前とあの子はできる存在なんだ」
理解し得ない話にシルは困惑するしかない。そんなことをいきなり言われたところで、はい、そうですかなんてふうには納得できない。
シルはこれまでずっと、ずっと死を積み上げてきた。けれど、積み上げられた死は完全に手を離れ、得体の知れない怪物にまで膨れあがった。その重みに耐えられず、シルはその行いをやめた。
これまでずっと死を積み上げてきて、これからは生を積み上げろなんて言われたところで、シルはどうすればいいのかわからない。
けれど、込められた想いに何も心が動かないわけでも、ない。
何もない空っぽの部屋には、一人と一匹。けれど紛れもなく意思だけはあった。
「ごめん。他の使い魔たちの目を欺くのも、限界みたいだ」
「は?」
シルがまだまだ何かを聞こうとしたときには既に元の部屋に戻っていた。大きな鳥籠のある、あの部屋に。




