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何かを追い求めて  作者: 立方体
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とある黒

 真っ黒だった。その世界は、真っ暗でさきほどまでの世界とはまるで違っていた。シルはただその漆黒の中を漂うだけ。何でできない。体が動かない。

「やぁ、ご機嫌いかがかなぁ?」

 いかがもどうもないとシルは思った。何せ体が動かないのだから、どうしようもない。

「君はぁ、自らの立場をわきまえるべきだ。君は家畜だぁ。魔女の餌になるべくしてぇ~生まれてきたぁ、存在に過ぎない」

 シルは驚愕に身を震わせた。いや、そんなはずはないと理性が受け入れを拒んでいた。

「まさか、知らなかったのかぁい? 堕胎種という存在はぁ、魔女の餌になるべくして生まれた、人以下の存在、家畜に過ぎないんだよ?」

 これまでの生活は一体なんだったのいうのか、あの逃亡生活は一体なんだったのか。自分には守られるだけの価値があるのではないのか? そうでなければ、自分のために死んでいった人達は何のために生まれてきたんだ。

「さぁ~て、お仕置きだぁ」

 その一言で、シルは悲鳴をあげかける。別段精神力が強靭で、別段我慢強かった……なんてわけではない。単に声をあげる余裕すらなかっただけだ。体の紋様がシルの体を締め上げる。ペリペリという音が頭の中に響いて、おかしくなってしまいそうだった。決して、そんな気の抜けてしまうような音に釣り合っている痛みではない。どうしようもない痛みで、シルはそんなペリペリと何かが剥がれ落ちていく音を忌々しく思っていても、悲鳴ひとつあげることも許されない。

 あぁ、これは存在が剥がれ落ちる音だと、そんなふうにシルは感じた。エルデの露店で、子供向けに売っている木の皮で作った人形。まさしくあれだ。おもちゃに飽きた子供が無邪気な好奇心から木の皮を剥いでいく、そんな遊び。滑稽だとすら、シルは思った。散々守られてきた自分が何の価値もなくて、そんな自分を守ってくれていた人たちの価値も否定された気分でいたところに、このいたぶるような痛み。これを滑稽と言わずしてなんなのか。

「――――ッ!」

 そして、それすらも飽きたとばかりに木の人形は投げ捨てられて、踏まれて踏まれて、やがて一枚の皮になって土に埋もれる。

 目を覚ましたのはそれからだった。


 部屋には光が差し込んでいた。どれだけそうなっていたかはわからないが、さほど時間は経っていないように感じた。流石にまた目が覚めたら全く別の部屋になっていたということはなく、ガラス窓と鳥籠はきちんとあった。初めてここで意識を取り戻したときは鳥籠の中の少女にばかり意識が向いていて気づかなかったが、随分と落ち着いた雰囲気がある。血と骨と肉と……のようなシルにとっては慣れ親しんだものではなく、動物や人の一枚絵が多く飾られていた。魔女というのは趣味がいいのか悪いのか、わからない奴だと、シルは感じた。

「にゃあ」

 猫の鳴き声。ぐるっと視界を回したときにはいなかった。けれど、それがシルの見間違いである可能性は随分と低いだろう。

「にゃああ」「にゃあ」「にゃあああ」「にゃ」「にゃああ~」「にゃあ」「にゃあにゃあ」

 つぅ、と冷や汗が頬を伝う。背後の光景を決して見ようとは思わない。シルにとっては最悪の光景だろうから。この期に及んでまさか猫が一匹だけなんてこと都合のいい事態を期待するのが間違っていることぐらいシルはよくわかっている。

「おや、おやおやおや? まさか、平気でしたかぁ。あなたのことですからぁ、諦めてしまったのかと思いましたぁ~」

「…………」

 シルは答えない。言葉を交わしてしまえば、飲み込まれてしまうのではないかと、そういう恐ろしい感覚が、あったから。魔女のことをシルは詳しく知っているわけではない。確かに、情報を把握して活かすことは大事であるが、魔女に自分の情報を開示してしまうことのほうがよっぽどシルには避けるべきことのように思った。どう考えても魔女の方が上手だと、この状況を鑑みれば明らかだった。余裕綽々な魔女に、それに怯えている自分。

「まぁ、彼女を逃がそうなんてしない限り、歓待しますぅ。だってあなたはぁ、大切な――魔女の餌ですものぉ」

「にゃああ」

 また、猫が鳴く。あぁ、あれによく似ていると、シルは思った。帰ってくるはずのない親を健気に待つ子供みたいな感じ。応えられるはずのない期待を、無邪気に押しつけている子供みたいだ。けれど、その降って湧いた感覚を、改めてよく考えてみると、その論理は不自然なほどに穴だらけだった。ふっと、重圧が消える。ゆっくりと振り返れば、猫がたった一匹で佇んでいるだけ。

「みゃあ」

 もう一度鳴く。やっぱり、その感覚はおかしい。けれど、なぜかしっかりと納得できる。理知的に考えるとおかしなことしかない。魔女の使い魔である黒猫。シルとは敵対関係にあるはずの存在。そんな存在がシルに、あるいは鳥籠の中の少女に親しみを込めた鳴き声を出すだろうか。所詮、猫だなんてことはありえない。黒猫は、魔女の意思を汲んで動く、きちんとした使い魔だ。

 ここには黒猫が忠誠を誓うような存在はどこにもいない。いるのは堕胎児という魔女の餌になる予定の二人だけ。

「にゃあ」

 猫はもう一度鳴く。薄気味悪く光る瞳で、シルの方を見た。思わずたじろいでしまったシルを尻目に猫は歩き出す。向かった先のドアは開いていて、悠然と通り過ぎていく。

「おい、ちょっと――」

 手がかりを得るために、シルはドアを開けた。部屋から見えたドアの先は、ガラス窓のない廊下。特に注目もせず部屋を出ると、部屋があった。廊下に一歩踏み出せば、そこは部屋になっていた。見渡せば鳥籠、ガラス窓はなく、四方に置かれた燭台の炎が、妖しく蠢いている。

 シルはここに来て、初めて途方に暮れた。恐怖などではなく、どうすればいいのか、わからなくなっていた。


「はぁ、どうしようか、これから」

 愚痴を漏らしたところで、返事はない。鳥籠の少女はぽけー、と何か別のものを見ているふうに見える。それは多分、シルには見えていないものだ。あるいは本当に何も見ていないのか。

 もしかしたら、両方なのかもしれない。彼女は、シルには見えていないものが見えているのかもしれないけれど、だからといってそれを見ているとは限らない。まさしく我が道を行く人。そういうのが、羨ましいと思った。

 こんな状況においても、平然としていることが。確立した自我を持っていることが、素直に羨ましい。

「君は、どうしてそんなに平気そうな顔をしてるの?」

 シルのつぶやきは誰に聞かせるものでもなかった、ただの独り言。けれど、少女は音のする方を向いて、わからないとばかりに首を傾ける。

「ちょっとだけ羨ましいんだ。そうして平然としていられることが」

 すると少女は首を振る。長髪がさらさらと流れ燭台の光で煌びやかに照らされる。通じたのだろうか、けれどシルにはわからないことだった。その少女はよくよく見れば、シルと変わらずやせ細っていて不健康そうな表情をしている。

 視線を惹きつける魅力だけは、なぜかそこにはある。シルにとっては初めての感覚だった。これまでの人生の中で、誰かに惹かれるなんてことは全く経験したためしがない。腫れ物、壊れ物扱いの厚遇だけが記憶に残っていた。

「もしかして、君も辛かったりするの?」

 少女は半瞬、シルと目を合わせると、伏せ目がちに頷く。意志が通じているのかもしれないと、シルは嬉しくなった。

 そして、少女の瞳に吸い込まれていく。決して綺麗な瞳ではなかった。透き通るような純粋さも、焼け焦げるような苛烈さも、そこにはない。汚泥が溜まったドブ沼のような瞳。表層的な汚さと内に潜む何か。シルはきっと自分も同じ目をしていると思った。だから、きっと彼女と共感してしまったのだと、そう結論づけた。

 だからというわけではないが、シルは饒舌だった。

「八百七十二人なんだ」

 シルは溢した。

「それだけの人数を殺してしまった。僕を守らせるために、僕が殺してしまった。言い訳のしようがない僕の罪だ」

 少女は、聞いてくれていた。鳥籠の端に移動して、格子の隙間から、手を伸ばしてくれた。

「隠れていると、やっぱり聞こえてくるんだ。悲鳴と怒号が」

 シルもそれに甘えるように、許しを請うように少女に近づいていく。けれど、それでも許されるべきでないと思ったのか、格子をただ強く握りしめる。

「殺せ、守れ、殺せ、殺せって怒号が左耳にこびりついて、いつまでも追いかけてくる。右耳には悲鳴が。助けて痛い痛い助けてって。僕を引っ張るんだ。何処へ行くんだ、逃げるなって。捕まってしまった僕を許してくれないんだ」

 泣き言のように、懺悔のように、ぽつぽつと言葉が漏れていく。シルはどうしてこんなことを喋っているのだろうかと、ふと疑問に思った。見知らぬ場所で心が折れた? 拠り所を必要とした? 納得できるような理由を見つけられず、けれど、いまさら引っ込めることもできず、滔々と語り続ける。

「僕の振る舞いが、僕の行為が、僕の心から剥がれ落ちてしまったみたいなんだ。僕が生き残ろうとするのは僕の意思なのか、借りただけの偽物なのか、判断がつかないんだ。諦めてしまったのも気持ちに応えるのが辛かっただけなのかもしれない。僕のことが、僕のことなのにわからないんだ」

 そして、ふっと体が温かく包まれた。格子越しの抱擁はお世辞でもいいものだなんて言えない。けれど、その気持ちは確かに伝わる。

体だけではなく、柔らかな感触がボロボロの心にも染み渡っていく。言葉はなかった。生きてくれとも、大丈夫だよとも言われなかった。冷たくなった体ではなく、温かいままの肉感がそこにはあった。それがシルにとって何よりありがたいことだった。

「ぅわぁ……あ、あ……うわあああ!」

 シルは涙を流した。これまでもずっと涙を流してきていた。けれど、いつの日かそれは止まってしまっていた。

 単純に慣れたからだ。

 戦火に飲まれ、皮膚が焼け爛れ、体が千々に分かれてしまった物言わぬ肉塊がかつては温かみを持つ人間であったことに、シルは涙を流していた。血の匂い、あるいは肉が焼けた匂いは、人を酔わせる。異常を平常だと徐々に洗脳していく。死んだ人数に想いを馳せながら、数だけを蓄積して、思い出だけを風化させて、人は――いや、シルはそうやって心の均衡を保たせていた。

 そうでもしないと、おかしくなってしまいそうだから。人の死が怖いのではない。人の死に慣れてしまって、そのことに気づくことが、一番怖いのだ。

 シルの行為は、死を忘れないという意味においては十分な役割を果たしていた。けれど、そのやり方は思い出をただの数字にしてしまうやり方でもあった。

 死はゴミのようなもの。どこにでも落ちているし、多くの人はそのことに気づかないか見て見ぬふりをしている。

 ――あるいは、綺麗な場所に落ちているゴミは目立つかもしれないが、汚い場所に捨てられたゴミには誰も見向きもしない。やがて、異常は正常になり、日常になり、文化になり、常識になり、死が死でなくなる。

 つまり、死を積み重ねれば一つ一つが矮小化してしまう。シルが陥っているのは、そういう心理状況だ。シルが欲しがったものは、俺は死なないなどと宣ってどこかへ行ってしまう輩ではなく、私はここにいると抱きしめてくれる温かみなのだ。

 死ににいくときだけわざとらしく演出したところで、シルのためになんかまるでならない。それはむしろ、逆にシルの人生において大きな枷となり、棘となり、死ぬまでついて回る。

 泣きじゃくるシルを抱きしめても少女はどうこう言わなかった。それどころか慈しみと優しさと愛おしさを綯い交ぜにした複雑な表情をしている。しかし、少女というのは少々低く見積りすぎていたかもしれない。かといって大人の女性かといえばそうとも言えない。要するに移行期。少女といわれる時期はとっくに過ぎていて、大人といわれる時期にはまだ達していない。だが、今このときに限って言えば、彼女は間違いなく女性と呼ぶべき大人だと言えた。

 それは少年を抱きしめるその所作がまるで母親のようだから……というわけではなく、諦めることを覚えていながら、諦めていない少年に優しくできる。ただそれだけのこと。できない自分を外に置いて、できる人間に優しくできる。そういう大人だ。

 その、大人っぽい少女にできることはさしてない。けれど、抱きしめるくらいはしてあげられる。シルはその優しさに甘えて身を委ねる。感じたことのない温かみに、意識は溶けていった。

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