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何かを追い求めて  作者: 立方体
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とある檻

「あ、ぁ……あ?」

 シルが目を覚ましたとき、温かな日影が差し込んでいることに気づいた。記憶が正しければ、さきほどの部屋には窓がなかった。しかし、ここではガラス窓から見える太陽の高さが大体の時刻を教えてくれる。窓の向こうの見るだけで気が滅入りそうな暗い森が日影を遮ってくれて、ちょうどいい暖かさである気もした。

「あぁ、あ、あ、あぁぁ……」

 何気なく振り返った先で、シルの体は硬直する。廊下に繋がるドアから幾ばくか離れた場所に、件の鳥籠が置かれていた。瞳孔が開き、口が思うように動かず、ただ間抜け面をシルは晒している。少女も、変わらずそこに佇んでいた。視線の先に何かがあるかのように、どこかをじっと凝視している。けれど、その瞳は虚ろで、ひょっとしたら何も見ていないのかもしれない。

あるいは、諦め。重荷から解放されて楽になる。けれど、それすらもどうでもいい。そんなふうに流されていくことをよしとする虚脱。

 シルは、その少女から不思議と目が離せなかった。視線を剥がそうとしても、どうしても、そちらを向いてしまう。

「あ、あの!」

 少女は呼びかけに反応しない。じっと、虚空を眺めているだけ。まるで、人形みたいだ。シルはそんなふうに思った。

 この少女は、年齢はどう見てもシルより上だが、一体誰なのだろうか。服装は上下一体となっている女性服で、肩口からと膝から白い肌が露出している。

 そして、そこに刻み込まれた紋様。堕胎児であることの証明。そして、ご丁寧に、手首と足首に拘束用と思われる錠までついている。とんだお洒落だと、シルは思った。

 きっとここは魔女の住処だ。そして彼女は、シルと同じ堕胎児だ。刻み込まれた紋様が、何よりの証拠だ。ということは、黙っていれば、シルもこうなることが容易に想像できる。そして彼女もこんな目に遭って何もされません、なんて都合のいいことがあるわけもない。

「あ、あの、こ、ここから逃げましょう。こんなところにいたら――」

 鳥籠の格子を思い切り握りしめて、シルは叫ぶ。けれど、その言葉は、途中で途切れる。彼女が見つめる虚空との間に自分を置いたため、当然目が合った。シルは、ぞっとする悪寒を肌で感じた。体の芯が、凍ってしまったかのように、声を震わす、声帯が固まってしまったかのように黙してしまう。

 彼女と同じ、瞳をシルは数え切れないほど、見てきた。それは諦めという感情だ。自分の力ではどうすることもできず、誰の力も借りることができないという状況に慣れてしまうと、人は容易に諦めてしまう。そして、何事もなすことができないと悟ったとき、彼女のような瞳に変わる。

 絶望的な状況に震えることすらできない。感情の鈍化、麻痺、欠落、そして……死。だけど、シルを守るために庇って死んでいった人々は、こんな顔をしていなかった。彼らは、笑っていた。目の前の彼女との対比でそれははっきりと理解できた。シルの命を救うためというお題目を抱いて、シルという希望を、いや、シルの向こう側に見えている希望を心に抱いて、彼らは絶望という底なし沼に落ちていった。

 自分に関わってくれた人間が、こんな顔をしていなくて良かったと、シルは心の底からそれを再確認した。

 そして、だからこそ目の前の少女のことを許せなかった。自分より年上だとか、魔女に捕まってしまったとか、そういうのは関係なく、そんな表情をしているのが、許せなかった。自分に関わってくれた人間はみんな笑っていただとか、そんなことすらどうでもいい。

ただ、彼女にも笑っていてほしかった。目の前の彼女が笑顔でいてくれさえすれば自分も幸せでいられる。そんな根拠もない妄想。ただ、それだけの子供の感情。シルはこれまでに多くの死を見つめてきた。けれど、まだただの子供でしかない。

「ここから逃げよう。こんなところにいちゃ、ダメになる!」

 シルは叫んだ。彼女の心に届けとばかりに、叫んだ。先の見えない暗闇の中だろうと絶対に連れ出してみせる。

 少女は、ぎこちない動きで、首を傾げる。鉄の大門が鈍い音をたてて開くみたいにゆっくりと。

 彼女が返した初めての反応に、シルは僅かな希望を見つけた。この人は、まだ死んではいない。この人を、ここから救い出すことができる。

「僕、シルって言うんだ。君と一緒で、多分、ここに連れてこられて……堕胎児なのも一緒だ。ここにいたら、大変なことになるから、だから、逃げよう。こんなところにいちゃダメなんだよ」

 格子に腕を通して思い切り手を伸ばす。シルは願った。この手を取ってくれと。そうすれば、自分はなんだってできる。どんなことだってしてやれる。そんな気がした。

 彼女は、差し出された手を見て、シルの顔を見て、やっぱりよくわかっていないふうな表情を浮かべる。自分がいま、どういう状況に置かれていて、シルが伸ばした手を取ることが、何を意味するのかすら、彼女はわかっていないのだろう。

「お願いだ。この手を取ってくれ!」

 シルの必死さが届いたのかどうかはわからない。赤子が差し出された指を反射的に握り締めるように、彼女もまた何も考えずに、シルの差し出す手を握ろうとした。

「にゃあ~」

 水を差すような猫の鳴き声に驚いたのか少女はさっと手を引く。それどころか、瞳の闇はより一層深くなり、たかだか猫一匹を過剰なほどに恐れているようにも見える。

 納得のいかないシルは、邪魔をしてくれた猫を振り返る。

 そして、ようやく彼女の恐れを理解した。

 それは、影。

「ダメだよ。そんなことぉ、しちゃあぁ。たかだか、家畜の分際で、救っちゃうなんて考えはぁおこがましくないかなぁ……?」

 一匹の黒猫の影から這い出る実態がなく、ゆらゆらと揺れる何か。人の形を模して、人の声を模して、まるで人のような意思を持つ、影。

 シルはその正体を一瞬にして察した。

 魔女だと、あれこそが、常闇の森の女王にして、人を喰らう絶対悪。

「お前が、魔女なのか?」

 声は、シルが情けなく思うほどに掠れていた。対峙しただけでわかる。シルには勝てないと。けれど、それだけで決まるほど人生はわかりやすくないと、シルは知っている。どれだけ力を持った絶対的な存在であったとしても、心がしっかりしていれば、たとえ死んだとしても負けていないのだと知っている。どれだけ強大な力に蹂躙されようとも心意気だけはあの世に持っていける。これまでの人生がそれを証明してくれる。

「そうだねぇ……うん、ただの家畜に過ぎない君にだけはぁ、特別にぃ、本当に特別にぃ~教えてあげよぉ、なぁに餞別みたいなものだぁ」

 影は妖しく蠢いて、その姿を大きくする。シルを飲み込まんとする影はじり……じり……と近づいてくる。一歩下がるとかしゃんと鳥籠にぶつかった。影はこれ以上ないほどに、シルに肉薄する。おそらく人ならばその体温を感じ取れるほどに。シルの体はかたかたと震えだす。後ろ手で鉄格子を握りしめてようやく立っていられた。気を抜いたら、そのまま死んでしまいそうで、必死になって自分の心に縋りつく。シルはこれまでの人生で一度たりとも自分の人生を無駄に使ったことはない。それだけは誰にも否定させない誇りだ。たとえ魔女が相手だろうと誇りを汚すわけにはいかない。

「私が、魔女だよぉ」

 そして、影が一息にシルを飲み込んだ。

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