とある少女
少女は言葉を話すことができなかった。それは単に声帯を潰されたからではなく心因的なものから来ていた。ひょっとしたら少女は言葉なんて話さなくてもいいと思っていたのかもしれない。それほどまでに少女の心は荒んでいたと言えるし、それほどまでにあの場所は過酷だったというべきだろう。
少女はふらふらと彷徨い歩いていた。進む宛などなく、目的もなく、それでも何かに導かれるように。少女の身なりはぼろぼろだった。服とも言えないような布を一枚身につけただけで、普通の人なら思わず目を背けて関わらないようにしたくなる見た目だ。そして、その少女の首下から鎖骨にかけて黒く不気味な紋様が刻まれている。それも、普通の人が見れば足早に立ち去ろうとするものだ。
少女は堕胎児と呼ばれるエルデ王国における被差別層の人間だ。けれど、何らかの歴史的な背景があるわけでもなく、文化的な対立があるわけでもない。エルデ王国における堕胎児というのは穢れを背負った存在だと言われている。穢れを背負っているから、不幸を招くに違いない。そんな妄想が理由の半分だ。
そして、もう半分が至極単純な理由で、そんな模様をしている人間は不気味だ。というものだ。
といっても、少女自身が苛烈な差別によって排斥されたわけではなく、少女はその生まれが悪かったに過ぎない。エルデ王国の北部の貧民街……いや、街ですらないような場所で少女は生まれた。
そこでは、最低限度の社会的生活すら営まれておらず、ゴミの掃きだめみたいな場所だ。少女はそこに住むのに嫌気が差して――というわけでなく、何かに導かれるようにしてそこを去ったのだ。
黙々と足を進める少女は、気づけば森の中に入っていた。そこは日影が差し込まず何とか足下くらいは見えるくらいで、注意して進まないと枝やら葉やらで肌を切ってしまいそうな森だった。少女はそういうものに頓着がないようで、その磨けば綺麗になりそうな肌に切り傷がつくのも構わず、その何かに導かれるように先を急いだ。本来ならば日の光が当たらなくなって時点で気づきそうものだが、やはり少女は構わず進んでいた。
森は闇に包まれており、少女が聞いたことのない動物の鳴き声が木霊しているのだが、それすら少女は意に介さない。結局、少女にとって、外界は興味を示す対象ではないのかもしれない。だからこそ、明確ではない何かに導かれるままここまでやってきた。それは少女にとっては現状唯一の関心事であったから。
どれだけ少女は歩いただろうか。突然座り込んで、そこら辺に生えている草を毟ってそのまま口に放り込んだ。そのまま歯で磨り潰して喉に押し込む。ちなみに少女が食べた草は鎖草という種類であり、戦場でよく見られるとされる食用草だ。由来は、命をつなぎ止めるから。水分量の少ない荒野などに多く群生しており、通行人が食べる文字通り、最後の命綱というわけだ。雨に当たられるとすぐに根腐りを起こして異臭を放つことから腐り草でもあるわけだが、当然のように少女はそのことを知らない。
本来であれば、鎖草がこのような森に群生していることはまずありえない。鬱蒼とした樹木は葉を落とし、地面に落ちた葉は土に還り豊かな土壌を形成する。豊かな土はより多くの樹木を生み、森を発展させる。そういう、木々が数多く生えた場所では雨が流れにくい。水捌けが悪く、土が豊富に水を含むため、鎖草は生えない。
きっと、植物学の権威が訪れればその異常さに気づくのだろうが、やはり少女には関係のないことで、少女は気にも止めない。
少女はそこら中に生えている鎖草を片っ端から引っこ抜いて強引に胃の中に押し込む。食欲や睡眠欲はあるようで、ひとしきり食べ終わったあと、すやすやと眠りについた。その姿は無防備そのものであったが、少女にとってはごくありふれた行為だ。
少女の生まれ育った場所では、よほどの美人でなければ裸に布一枚で寝ていたところで性的には襲われないだろう。もっとも、そのよっぽどの美人は中央の方に売られるだろうから、その仮定は無意味なのだが。
ともかく、そういうことが成り立つ場所ではあった。理由としては性的欲求を満たしている暇があれば、食欲や睡眠欲を満たす方を優先すべきほど生きていくには過酷な場所だからだ。食欲を満たすために物理的に襲われることはあったが、相手も同じやせ細った相手であるし、人肉は硬く食べるには手間がかかるということでさほど多用された手段ではなかった。
少女は堕胎児であったが故に若干複雑な立場だった。黒い紋様が広がって目立つようになるまでは性的に襲われたりもしたが、堕胎児であることがわかると二度と襲われなくなった。性的に襲われるということはよほどの見た目をしていたのだが、これまた堕胎児だからと中央へ売り飛ばされることはなかった。
物理的に襲われる経験も同じようなものだ。
ある程度成長してからはそういう襲撃はぱたんと止んだ。だからこそ、無防備な姿をそのままに晒すことができる。加えて、自分のことに頓着がないという少女自身の性質もあったかもしれない。
一時間ほど経つと少女はぱっと目を覚ます。その瞳は幼い子供にありがちな中途半端な覚醒のそれではなく、非常にはっきりした瞳であった。少女は立ち上がると自分の体についた草なんかにまったく気にかけることなく歩き出した。自らの内なるところから湧き上がる何かに従って。
腹が空いたらその辺の草を毟り、眠くなったらその辺で眠る。そんな極めて原始的な時間を何度か繰り返して、少女は足を止めた。疲れたからではなく、着いたから。
少女の目の前には見たこともない豪華な館が建っていた。少女は威圧感すらある館に全く興味を示す素振りも見せず、森を歩いてきたのと同じように入り口へと向かっていく。
大きめの玄関扉に、少女は手をかけようとして――
「あら……あらあらあら」
少女とさほど身長の変わらない、それどころかちょっと低い、耳の尖った女性が先んじて扉を開けた。
その女性を、少女は思わず見つめてしまう。その女性の全身には黒い紋様が刻まれていた。少女は初めて、自分と同じ存在を見つけて体を硬直させる。そして少女は思わず見ず知らずの女性に抱きついてしまっていた。
それまで生気のない瞳をしていた少女の突然の行動にも、女性は落ち着いて対応する。生まれたての赤ん坊をあやすように優しい手つきでその背中を撫でてあげる。
少女は、そのとき初めて涙を流した。安心した表情と、抱きついていいのだろうかという不安、そしてこんなことをしている自分に対する戸惑いが綯い交ぜになって少女は泣き続ける。女性は何も言わずに抱きしめる。しばらくすると緊張の糸が切れたかのようにすやすやと寝息をたてはじめる。女性はそれを確認したあと、優しく微笑みながら少女を館の中に運び込んだ。