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今だけは英雄で

作者: 久代 羽稀

 ――また一人、人が死んでいく。

 ――そう、私のせいで。

 ――嗚呼、儚い。


 私よ、償うのだ。それが私にできる最後の一手。

 死者を弔い、死者のために償う方法を、私は一つしか知らない。命に代えられる価値など、それ自体を置いて他にはない。だから今私はここにいるのだ。

 一歩前進するだけでいい。それだけで、命を奪い続ける私という存在は、波に揉まれて消え去ってくれる。

 ……どれだけ急かしても、足が動かない。ほら動け、さあ動け、早く、早く、早く、

「動いてよッ!」






 世界を死がつつんでいく。

 ごく抽象的だが、それが私の見たすべてを最も端的に表している。見上げた空には、星も、月も、太陽も、無い。見下ろした大地には、黒ずんだ土くれが無益に転がっている。見回す周囲には、絶望の遺骸のように崩れた家の木材が佇む。命が、見えない。

 視界を幾度も縦に裂く雨粒を腕で振り払い、今一度、私は前へ一歩、踏み出した。土くれが潰れる。

 今、私の視界の消失点にある物――者こそが、世界の中心だった。膝をつき、天を仰ぎ、両手を掲げ、掌を睨む。彼女が手中に何かを幻視しているような。手にしたそれを嫌悪するような。

 大粒の涙を天から榴弾のように降らせながら、ひたすらに大声で笑う。

「そうだ! これが! 私の知りたかった世界だ!」

 大声で笑いながら、気でも違ったように喚く。

「思った通りだ! 私の知らない連中は皆偽物!」

 喚きながら、死という糧を世界に散布し続ける。

「これが! 本当の世界だ! 神の箱庭だ!」

 散布し続けながら、生の炎を自らの膜の内に閉じ込める。

 それが、世界の中心だった。美徳を虚仮にし、神を冒涜し、邪悪を払いのけて停滞を続ける、その少女は――かつての英雄。

 ――目も当てられない。頬を伝う雨の雫は、拭っても拭っても髪から滴る。視線を、やや下に向けた。雨は目に入れば痛い、ただそれだけだ。

 残り十歩ほどのところまで歩み寄って、私は初めてあることに気が付いた。彼女の――英雄の髪も、服も、顔も、僅かも湿ってはいないのだ。この散弾が如き雨の中でも、彼女が濡れることは無かった。

 彼女が今こうして絶望の淵にあって生き続けるという地獄に入り込んだのは、紛れもなく彼女自身の問題だった。確かに、英雄が私との戦いの果てに触れた邪法が、今この瞬間、この状況を引き起こした。だが、その邪法の根幹は、術者の邪悪な魂に依る。だから、罪を問うのならそれは断じて彼女自身に対してだ。

 そうとわかっていても、私は行動せずにはいられない。今私ができることは、英雄に代わって世界を守ることだろう。皮肉めいた因果に、笑うこともできずに、私は右手を真っ直ぐ横へ突き出す。指二本を揃えて、念を込める。ごく気軽に放たれた一条の昏い光線が、長さ二メートルほどの木の板に衝突した。巨大な熱量によって膨張した空気が、木を粉砕しながら破裂音を奏でた。――その音に、英雄の少女が反応する。

 肩を揺らし、こちらへ顔を向けた。鼻も頬も額も唇も顎も清潔で白く澄み美しいのに、その瞳だけが、眼だけが異様に汚く、濁った色を湛えていた。

 初めて、少女が微笑んだ。何かを超越したようにも見えたし、まだ悲しみにとらわれているようにも見えた。ただ、痛みだけは消え去っていた。ただ、底の抜けた桶に残る水滴、そんな儚さだけが覗いている。

「お前は、本物なのね」

 少女が、口を開く。

「残念ながらね」

 私は、思いついたままを口にする。訝るような視線とともに、少女が

「なんで?」

 と私に問うた。

「いえ、私があなたなら、きっと残念に思うだろうなと、そう思った。ただそれだけよ」

「もし残念に思うとしたら、理由は一つだけよ」

 ――今一度、倒さなければいけないから。そんな事を、音にするでもなく彼女は言った。

 少女は無造作に立ち上がる。男物にも見えるズボンの膝から土の欠片がパラ、と落ちた。

 その時不意に、私の口が動いた。半分以上、無意識だった。

「ねえ、少し小咄をしていいかしら」

「何、かしら?」

 引き抜きかけた剣の柄から手を離さずに、少女が返す。明確な警戒の色は、なお見えない。

「確か、百年前――私は、幼かったわ。今でも見かけは幼いけれど、そのころは心も幼かった」

 私は、右の人差指を立てる。その先端を切り裂いて、自ずから血がゆっくり、流れ出す。

「どうしてだか、両親が死んでも大して悲しみは感じなかったわ。けれど――」

 鋭く懐へ駆け込んでくる英雄の剣を、胸の前に翳した左手で止める。骨が粉砕される音に顔を顰める。

「――それこそどうしてという話だけれど、いつの間にか私の足は動かなくなっていたわ。踏み出すのが怖かった。わけもなく」

「何が言いたいッ」

「その理由が、あるとしたなら、それは今のあなたに通じるものだわ」

 歯を食いしばり、飢えた獣と化してひたすら剣を振り抜こうと力を込める少女。その喉は、震えない。

「きっと何かを奪うのが、誰かがそれを失うのが、――私が大事なものを喪うのが、怖かった」

 グイと腕力で以て剣を押し返す。少女の顔は、歪んだまま動くことは無い。

「あの時無理に一歩を踏み出していたなら――私は私を喪ったわ」

 私の身の回りで死んだのは両親だけだけれど。

「当然知っているだろうけど、私は数えきれない命をこの手で奪ってきたわ。なのに、奪った瞬間がどの時なのか、一度として気づけたことは無い」

 私が殺したと思っていたかつての英雄も、そのほとんどは失血死だったという。そして、私に挑む英雄たちが無傷のまま私に挑んだことは、一度としてない。

「私の知らないところでいくつもの命が喪われていく。生きている人間が奪うのよ、生者の知らないところで」

 私たちは、奪うものも選べない。

「奪いたくも無い物ばかり奪って自分の糧にするその行為とも呼べない行為、の、果てに、――最後には私は私の知らない誰かに奪われる。だけどね」

 逡巡。

 続く言葉は――。

 ――自分の命をいつ喪うのか、選ぶのは必ずしも不可能ではないわ。

 ――自分自身を責めたところで幸福になる者はいないわ。

「――結局のところ、私が追い込まれたことに理由なんてないわ。今のは全部こじ付け。それ自体が、あなたに通じるものよ」

 無意味な言葉はすべて飲み込んだ。今彼女を中心に回っているこの世界を救う、最良の言葉だけを吐き出した。

「ごめんなさい、少し長引いたわ。与太話とでも思って頂戴。さっさとどちらかを倒しましょう」

 治癒した左手で英雄の剣を握り砕いて、私は最後の言葉を――彼女のための言葉を吐く。――これが私の最期の言葉であれという祈りとともに。

「あなたは、この魔王を倒すに相応しい英雄かしら?」

 ――いつかあなたは気づく。正義が偽物ならば、悪もまた偽物であることに。

 ――あなただけが、本物の英雄であることに。






 もし本当に『正義を助け悪を挫く神』がいるのなら、今の世界をどう思うのだろう。――いや、全ての『偽物』は私が打ち砕いたのだったか。

 邪悪を砕く神授の剣さえも、魔王は砕いた。正義は打ち砕かれた。

 英雄の私にできることなど、もはや無いと思われた。それでも。

 今彼女は、私を明確に、挑戦へ追い立てた。贖罪や安易な慰めではなく、挑戦へ。

 真実の光が世界を照らす、その理想を太刀と為して、祈りを命と為して、私は最期へ一歩近づいた。






 ――また一人、人が死んでいく。

 ――そう、私のせいで。

 ――嗚呼、儚い。


 私よ、償うのだ。それが私にできる最後の一手。

 死者を弔い、死者のために償う方法を、私は一つしか知らない。命に代えられる価値など、それ自体を置いて他にはない。だから今私はここにいるのだ。

 一歩前進するだけでいい。それだけで、命を奪い続ける私という存在は、波に揉まれて消え去ってくれる。

 ……どれだけ急かしても、足が動かない。ほら動け、さあ動け、早く、早く、早く、

「動いてよッ!」


 気づいた。

 私の心に刺さっていたその棘は、その楔は。

 いつから私は彼女と同じ轍の上を進んでいたのだろう。

 きっと彼女も、ここで踏み出しはしなかったろう。彼女が唯一無二だとわかっていたから。無自覚に、自らを偽物だと断じてしまわなかったから。

 自分の信じる『本物』を、自分が失ってはならない。それが、彼女が魔王となった本当の理由。

 今私が死ねば、本物は何もなくなる。

 青空を見上げると、涙が一筋だけ頬を伝った。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 善と悪、そしてそれを超える俯瞰的な視点や考え。勇者物が太古の昔より題材にされるのには訳がありますよね(≧ε≦)! 面白かったです(^_^)v
2015/02/02 09:54 退会済み
管理
[一言] 久代さん独特の世界観を感じました。 英雄と魔王の最後の戦い、じっくりと読ませて頂きました。
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