都合の悪いことは忘れてしまえ
翌日。外守邸から昨日より早めに出た烈は、閃と共に吉原大門の近くを潜んでいた。
閃は縁を、烈は九蔵を手引きし、江戸はずれで合わせる計画だった。空が茜色に染まる。烈は空を見上げた。
果たして、これで良いのか。
二人は、幸せになれるのか。
恋愛なぞ、経験した事のない疎い俺には分からない。
理論的に考えれば幸せにはなれないだろう。
彼女居ない歴=年齢の俺には、まだ分からないけれど、きっと、それは、
「神のみぞ知る、か。」
ぼそり、と呟く。
閃は聞いてか聞かずか、空を見上げ、目を瞑った。そして口布を引き上げる。少し息がしずらい。酸素も制限される。だが致し方ない。
「そろそろ行くぞ。準備をする。」
満月らしい。月明かりが二人を照らした。
* * * *
志摩九蔵はもうじき太夫になる振袖新造、縁の部屋の向かいに居た。
『あ・・・こんにちは。七緒・・じゃなかった。禿の縁です。初めまして。』
そんな丁寧なあいさつをしてきた禿は初めてで、吃驚した覚えがある。
『新しく入った禿の子でありんす。よろしく頼みます。・・まだ慣れていないようで・・』
苦笑する千晴の後ろに隠れる縁の頬には、涙の跡がある。
どうやら親に借金の形にでもされたのだろう。
不安げな少女と、養子に出された頃の自分が重なった。
『・・七緒、か。いい名だ。志摩 九蔵。・・・俺にも名前が二つある。』
頭を撫でてやると、少女は興味深そうに頭を上げた。
なぜこんなことを口走ったかは分からない。だがそれで彼女が頑張れるなら。
先の言葉を促す視線に、苦笑いする。
『これは誰にも教えていない秘密だからなあ・・・教えたら、縁として、これからどんなつらい事も、悲しいことも耐えられるか?』
少女は無邪気に顔を綻ばせ、大きく頷いた。
九蔵もつられて顔を綻ばす。
はやく、と請う視線に、九蔵は少女の耳に口を寄せた。
そして、もう誰にも呼ばれる事のない名を紡ぐ。
『・・字利。古知字利だ。』
「・・・九蔵さん。」
自分の名を呼ぶ声に意識を覚醒させる。
「・・・・!」
しまった。あろうことか、背後を取られた。
視界に見えるのは赤塗りの狐の面。
首元には仕込み刀。
狐は静かに続ける。
「騒がないで聞いてください・・ある人に依頼されて参りました。このままあなたを誘拐します。」
「・・そんな事をしても何も得られないぞ。」
「・・・・遊郭に売られた健気な少女を、想い人と駆け落ちさせようと思いまして。」
狐の言葉に、九蔵は眼を見開いた。
「・・昨晩はどうも。八ヶ代さんのお連れさんですね・・大方千晴太夫の計らいか・・・。
せっかくですが、お断りさせて頂きます。」
そう、しっかりと九蔵は言い放った。
「・・・。」
その言葉に狐ーーー烈は、黙る。
人の心は分からない。なんでだ。あんな美女と駆け落ちできるんだぞ?
俺が百人集まっても---もちろんだけど。一生ねえぞ、そんな経験。
「・・・もう、ほっといてくれませんか。
俺は、苦しいんだ。七緒が居るとーーー縁が居ると、苦しくて苦しくてたまらない。それがーーーーーようやく、解放されるんだ。俺がどんなに苦しんだかーーどんなに悲しんだか、分かりますか。」
泣いていた。九蔵は泣いていた。
きらきらと頬を伝う涙が、首筋に落ちて消える。
笑いながら、苦しそうに笑いながらーー泣いていた。
「縁にはきちんと別れを告げた。清いまま、夫と幸せになれ、と。互いを忘れて、明日を生きよ、と。だから、今日は、新しい門出の日なんだ。」
九蔵の心を代弁するかのように、行灯の火が激しく揺れ、二人の影を揺らめかせた。
苦しいんだ
愛しすぎて
幸せで
哀しくて
急に九蔵の頬に痛みが走った。
脳天を揺らすような衝撃。殴られたと認識するのに時間がかかった。
「・・・かるか、本当に人から忘れられる寂しさが分かるか!?
忘れるってどういう事か分かるか?もう言葉を交わせない、思い出して貰わなきゃもう永遠に互いの中から消えるんだぞ!?ここでお前が苦しいからって放棄したら、本当に終わりだぞ。誰も助けてなんてくれねえんだぞ?
縁は戦う事を選んだ。誰に迷惑をかけて、全てを捨てることになっても、責任を追うとしても、苦しむとしても、お前と一緒に居ることを選んだんだ!!
忘れるってな、死ぬよりも悲しくて、怖くて、辛いんだ。
忘れられるってな、孤独なんだ。
お前はなんも分かってねえんだよ!」
烈がフー、フーと生きを荒くして九蔵をまくし立てる。
その表情は、憤怒と、それから恐怖、だった。
九蔵はなにかが込み上げてきて、下を向く。
体を震わせ、少女の事を思った。
「・・・・たい。」
蚊の泣くような小さな声に、烈は動きを止める。
「・・・・縁と、生きたい。」
涙でぐちゃぐちゃの顔には、迷いはなく、切実な願いが込められていた。