ねえ神さま、「ふらぐけんちく」ってなんですか?(ぬさ視点)
___「化け物! このような醜いものがわらわの子であるはずがない! それは鬼の子じゃ___!!」
長い黒髪をまき散らして、その瞳に涙と憎悪を込めて母は言う。
声が枯れても止むことのない、向けられる針の筵のような雑言に次第に何も感じなくなった。泣きたくても、泣けない。母の周りの者から送られる冷たい視線が、そんな逃げ道さえも許さないと何時も監視しているから。
だから、母の使用人に引き摺られる様にして屋敷を追い出された時、むしろ安心したのだ。ああ、もう“あの目”に晒されることは無い。誰にも、見られなくてすみ。____この、醜い自分の姿を。
そう思ったのに、現実はそうはならなかった。
帰る場所もなく彷徨っていた身を救う手があったのだ。その人は流離の坊主で、道すがらに経を唱えてはその日の糧を得ているらしい。慎ましやかな生活だが、より多くの出会いとより多くの見聞を得られると、その人は自分の人生を説いた。坊主の名は満海と言った、その人はボロボロの黒布で片目を覆った隻眼だった。
彼に最寄りの村に置いて行かれて暫く、村人は最初こそありがたい坊主の頼みと身の世話を見てくれた。村には古い信仰があり、その恩恵を受けている為か酷く信心深いものがおおかったのだ。村長は古い信仰の神を「岩永の姫」と呼んだ。
学が浅いがその名には覚えがあった。古事記にある古い女神の名だ。正しくは「石長比売」あるいは「磐長姫」「石長姫命」とも言う。天津神の娘で、あの霊峰・富士山に鎮座し、その噴火を鎮め一帯を守護する木花咲耶姫の姉神だ。だが磐長姫は大層醜い女神で、その醜さから嫁ぐ筈であった天津神に拒絶されたという。…あまり、縁起の良い女神ではない。
村が信仰する岩永姫の祠は、今は堂となり祀られている。かつて、村人が岩永姫から神託を受けたと言う深い岩壁の切れ目を神体とし、毎日のように村民はその堂を拝んでいた。最初は信じていなかったが、その不思議な偶然を何度も目の当たりにするにつれて微かな信仰が生まれた。村を代表した村長が「雨が降らない」と言えば、翌日には心地よい雨粒に恵まれた。「害獣が畑を荒らす」と言えば、畑の周りからイノシシやシカの足跡が消えた。単なる偶然かもしれない、だけど偶然では片付けられない何かが、確かにそこにあった。
だがある日、村の祈祷に岩永姫は一切答えなくなる。
村は騒然とした。最初はそれでもそういうこともあると、自分を誤魔化していたが…そんな日が二か月、季節を跨ぎ、一年と続けば…村人は皆口を噤む様になる。そうして時が経つにつれ、周りは誰が面倒をみるかと口論を始めるようになる。時季は夏の終り、日照りが続き農作物の半分以上がダメになった当たりだ。岩永姫の恩恵が消えて以降、与えられる食べ物や人の当たりが痛くなったことは気づいていた。仕方のない事だった、村人が身請けを快諾した根本にある信仰は…今や失われつつある。
だから、村の生贄として選ばれた時、ああやはりと思った。
この村に親無しの孤児は、坊主が置いて行った子だけだった。親のある子は、皆が人柱の役割を拒否した。そうして白羽の矢が立つまで時間はかからなかった。その役を告げられた時、恐怖はなかった。神なんて元より信じていない、村人の凶行だって…想像の域にはあったことだ。
だが、堂の前に連れて行かれ____その神体を目にした瞬間、固い殻の中にあったはずの恐怖が爆発した。
恐ろしい。恐ろしい、恐ろしい…!
磐の切れ目は、まるで黄泉へ誘うかのような暗黒と冷気に包まれていた。その間は深く明かりの届かない暗黒だ。切れ間の向うから、目に視えぬ亡者が精気を求めて干からびた手を伸ばしているように思えてならない。死ぬ。そう思った、そう思った瞬間、逃げ出さずにはいられなかった。
だけど、それは許されなかった。
村人に捕まり、堂の中に押し込められた。大人の力に子どものそれが叶うはずはなかった。叫んで、開けてと許してとありもしない罪を償った。だけど、向うから確りと錠のされた堂の扉は開くことなく______ただただ、涙が枯れて、喉が引き攣り、残った僅かな力も尽き行くのみであった。
夜が明けて、朝が来て、また夜が来た。
助けは無い。動く気力もない。只々ヒタヒタと歩み寄ってくる冥府の鬼の足音に耳を澄ますばかりの日々だ。そうしていると、忘れていた母のことを思い出した。母は何時も「化け物」と言う。「鬼の子」だと打つ。…もしそれが本当なら、この先に待っているのは死ではなく、正しい生ではないか。
そんな世迷い事を思うころ、意識の糸が途切れた。次に目を覚ました時に感じるのは、黄泉平坂に吹き抜ける閻魔の神威に違いない。そう思ってた、
だけど目が覚めて感じたのは、暖かい温度だった。
(…、だれ)
手を、誰かが掴んでいる。大きな手だ、大きくて柔らかい誰かの手が、手を包んでくれている。
誰かにそうして貰うのはいつ以来だろうか。母の屋敷に居た時も、村に居た時も…あの物好きな坊主にでさえ、そうして貰った事はことはないと思う。本来なら最も近くにあるべきはず温度、だけど一番遠いその温度は、酷く虚しい気持ちにさせた。
(だれが、…)
目が覚めたら消えてしまうかもしれない、でもその手が誰のものかどうしても知りたくて起床することを選んだ。身体が暖かい、何か薄くてふわふわした布に包まれている様だった。だけど見れば岩の上に寝かされていて酷くあべこべだと感じた。そうして視線を巡らせていると、漸く目当てのものが見つかった。…粗末な小さい手を握る、白魚のような指先を見つけることができた。
「……、」
亜麻色の髪が、岩の台座に零れている。母とは違う見た事のない色だ、ああでも遠くの地ではこういった髪の色も珍しくないと聞いたことがある。…この身は、今度は遠く異国の流離に拾われたのか。
もっとしっかり見たくて、重い体を引きずるように近づいた。芋虫のようにずるずると体を引きずり、漸く…岩の台座に凭れる様にして眠る彼女を見ることができた。
長い亜麻色の髪に隠れて素顔は見えない。だけどまだあどけないように思う、年上だがそれほど上と言うこともなさそうだ。打掛のない白と赤の上質な袿を重ねており、まるで神職の巫女のようだと思った。だが首や手足に嵌められた金の豪奢な装飾がそうでないと言っている。草花をかたどったそれは瓔珞に良く似ている。臂釧といった鐶釧の類と似ているように思う、
(仏様…?)
まるで仏の似姿のようだ。大輪の牡丹をかたどった宝冠に恐る恐る触れれば、鎖と玉をあやどった杏葉の玉旛がチリリと鳴いた。その彩の音に誘われるかのように、ゆるりと閉じられていた瞼が震えた。そうして現れた瞳に息を呑んだ。髪と同じ変哲のない亜麻色のはずなのに______美しい夜明けの色だ、と、
(ひかりだ、)
纏わりついていた鬼の気配が胸の奥からすうと消えるのを、確かに感じた。
そして俺は後生、この瞬間を忘れることはない。