コープスの生命力
家奈美邸を後にしてから、私は途方に暮れてしまった。どうやら地形変更が行われたらしい。
この地域では今日が変更の日だったようだ。
これでは駅まで戻ることが出来ない。何時ものように人に聞こうと思っても、流石は田舎。全く人が見当たらない。
仕方ない。家奈美侯爵に聞こう。彼ならばこの辺りの地理にも詳しいはずだ。
私が元来た道を戻ろうと、ほとんど予備動作なしで踵を返すと、家奈美邸の先の森の奥から、男がこちらへと歩いてくるのが見えた。
これは僥倖。私は男へ駆け寄り、駅までの道を教えてくれませんかと尋ねた。
よれよれのワイシャツにくしゃくしゃの髪の毛。チンピラのような身なりをしてはいるが、何処か清潔感のある風に見える。
きっと彼の生気に満ちた顔がそう見せているのだろう。
「あん? おや、さっき駅で燃えてたお姉ちゃんじゃねえか。奇遇だな」
どうやら彼は先ほど私を消火してくれた男だったようだ。記憶力は悪い方ではないが、流石に先刻は気が動転していたのもあって、人の顔を覚える余裕がなかった。と言うかお礼すら言っていなかった。
あまりに無礼が過ぎる。
私は改めてお礼を言うことにした。
「気にすんなって。困った時はお互い様だろ。さっきは浮かねえ顔してたみたいだが、もう大丈夫みてえだな。ご機嫌な顔してるぜ」
私はそんなに晴れやかな顔をしているのだろうか。むしろ家奈美邸に戻ることを考えて少し憂鬱になっていたのだが。
「駅に行きてえんだろ?よっしゃ。着いてこい。途中まで案内してやる。けど途中までだぞ。俺にも都合ってモンがあるからな。とりあえず畑の向こうに見える階段の頂辺まで行ったら、そこから先は自分で行け。道は教えるから」
私は、ありがとうございますと返事をした。意図したつもりはなかったが、元気な声が出た。私はすっかり希望を取り戻している自分に気付いた。
やっとしーちゃんのもとを訪ねることが出来る。しかし家へ帰るまでが遠足と言う格言もある。油断は禁物だ。
私と男は、凶悪なススキの森を抜け、砂鉄に足跡を残し、鉛の稲を見ながら階段を目指す。
見渡す限り金属だ。そろそろ石が恋しくなってきた。早く瓦礫を踏みたい。
期待感もそこそこに、私たちの前には階段の山がそびえ立っていた。
「この階段は三百三十三段ある。まあ三分ぐらいで登り切れるだろ」
三百三十三段とはまた途方もない段数のように思えるが、本当に三分で登り切れるのだろうか。
まあ幾ら時間がかかろうと、今の私には関係ない。瓦礫の街に戻れさえすればこちらのものなのだから。
私たちは足を踏み外さないように注意しながら階段の山を登り始めた。
「出し抜けでワリーんだけどよ、道を教える変わりに、俺の相談に乗ってくれねえか」
男は切り出した。
なんだろう。彼程希望に満ち溢れた顔をした人間を私は見たことがないが、そんな彼にも悩みがあるらしい。
普段は道化ているだけなのだろうか。そうかもしれない。自分の身にある苦痛を表に出さない人間は珍しくない。しーちゃんもそうだし、椿ちゃんもそう言ったタイプだ。
この生気の塊みたいな顔や態度はポーズなのかもしれない。
相談に乗るべきだろう。助けを求めている人間は例外なく助けなければ、世間が成り立たない。私は話を促した。
「実はよ、俺、死に過ぎってくらい死ぬんだよ。自殺じゃねえぞ。俺は自殺する程不機嫌になったことはないんだ。じゃあ何で死ぬかってえと、事故とか病気とか不運とかで死んじまうんだ。俺は普通に生きてるつもりなんだがな。普通に飯喰って、普通に仕事して、普通に遊んで、普通に女を抱いて、普通に風呂入って、普通に寝る。でも死んじまうんだ。おまけに、一度死ぬと生き返り方を忘れちまうんだよ。こいつは厄介だぜ。最近は三日に一度は死んでる。何が原因だかとんと判りゃあしねえ。どうにかならねえもんかな?」
なるほど。確かに死ぬこと自体は当たり前のことだが、三日に一度は流石に死に過ぎだ。
しかしまあ、今の話で大体判った。本人には判りづらいことだが、人から聞けば、なあんだと思うような簡単なことだ。
女を抱く、という表現を使うあたり、彼には遊郭通いの癖があるに違いない。
私は女を抱く頻度を尋ねる。
「むう。そうだな……三十時間に一度くらいだな」
当たりだ。
そこまで普通の頻度で女性と寝ていては、あまりに不摂生だ。事故死した所で何の不思議もない。
恐らく病死は彼があんまりにも規則正しい生活をしているせいだろう。死後の記憶障害もきっとそのせいだ。体の中の様々な液体が何の滞りもなく流れていれば、病気をするのは必至と言える。つまり必死なのだ。
同時に、彼の持つ生気に満ちた顔の正体も判った。
過剰に普通を求める精神は気高く、美しいものだ。そして気高く美しいものは儚い。彼には死相が出ていたのだ。
私は、遊郭で女を抱くならばもっと頻度に変化を付けた方が良いとアドバイスをした。
恋をすれば肉体関係の有無は問わないから、本当は恋愛を勧める方が良いのだが、空前絶後の普通人である彼にいきなり、人を好きになれと言ったところで到底無理な話だろう。
「なるほどなあ。普通じゃない生活ねえ。とりあえず夜型人間になるとこから始めるわ。ありがとな、お姉ちゃん。助かったよ」
方針は定まったようだ。役に立てて何より。
彼は腕時計を見て、そろそろ頂上だと言った。
「良いか? 頂上まで登ったら、お姉ちゃんは真っ直ぐ飛び降りろ。俺は左に用があるから一緒には行けねえ。一歩も降りちゃ駄目だぜ。頂上から一気に真正面に飛び降りるんだ。そしたらトランポリンの上に出るからよ、そのまま真っ直ぐトランポリンの上を三十歩分移動すれば駅に出る。駅の構内は地形変更の影響は受けてねえから普通に電車に乗れば良い。じゃ、世話になったな。あばよ」
彼は無邪気に笑って階段を左に飛び降りた。結構な高さだが本当に大丈夫なのだろうか。
とは言え、死に慣れている彼のことだからあまり心配はいらないだろう。それはそれで皮肉な話だが。
私は出来るだけ下を見ないようにして呼吸を整え、頂上から真っ直ぐ飛び降りた。