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おにぎり屋ふくふく

おにぎり屋ふくふく|言えなかった「ごめんね」

作者: 絵宮 芳緒
掲載日:2026/05/06

「ごめんね」

たったそれだけが、言えなかった。


言おうと思えば、言えたはずなのに。


ほんの少しの意地と、ほんの少しのタイミングのずれで――

そのままになってしまった。



帰り道。


今日は、少し風が冷たい。

コートのポケットに手を入れて、ただ歩く。


スマホを見れば、連絡先はまだ残っている。


消していない。

消せなかった。


(今さら、なんて言えばいいんだろう)

考えるだけで、足が止まりそうになる。


あの日のやり取りを、何度も思い出す。


少し強い言い方をしてしまったこと。

相手が黙ってしまったこと。

そのまま、終わってしまったこと。


「……はあ」

小さく息を吐く。


謝るタイミングなんて、いくらでもあったはずなのに。


そのたびに、言葉が出なかった。


今となっては、もう遅い気がして。


ふと、足が止まる。

見慣れない通り。

小さな灯り。


――おにぎり屋「ふくふく」


やわらかな光と、あたたかい香りが流れてくる。


「……」


なぜか、胸が少しだけゆるんだ。


からん、と扉を開ける。


「いらっしゃい」

やさしい声。


カウンターの向こうに、ふくさんがいた。


「えっと……」

言葉がうまく出てこない。


「寒いだろう。あたたかいのにするかい?」


こくり、と小さくうなずく。


そのとき。


「にゃ」

足元で、小さな声。


黒猫が、こちらを見ていた。

静かに、まっすぐに。


「……」

少しだけ、息がゆるむ。


「これにする」


なんとなく選んだおにぎり。

ふくさんは、にっこり笑って包んだ。


「はいよ」


手の中に、あたたかさが広がる。


クロが、足元に座る。

何も言わずに、ただそこにいる。


――ひとくち。


「……あ」


思わず、声がこぼれた。


やさしい味。

強くないのに、まっすぐで。胸の奥に、すっと入ってくる。


もうひとくち。


「あの日さ……」

気づけば、口に出していた。


「ちょっとだけ、言いすぎたんだ」

クロは、静かに聞いている。


「でも、謝ればいいだけだったのに」

指先に、少し力が入る。


「変に意地張って……そのままになって」

笑おうとして、うまくいかない。


「ばかみたいだよね」

クロは、変わらずそこにいる。


それだけなのに。


「……ごめんね、って」


ぽつり。

小さな声。

誰に届くわけでもないのに。


それでも、言葉にした瞬間――

胸の奥が、少しだけ軽くなった。


ふくさんが、静かに言う。

「言葉ってのはねぇ」

ゆっくりとした声。

「遅くても、ちゃんと意味があるもんだよ」


顔を上げる。

ふくさんは、やさしく笑っていた。


「届くかどうかは分からなくてもねぇ」


「言えたことは、ちゃんと残る」


その言葉が、すっと胸に入る。


もうひとくち。

「……そっか」

少しだけ、息が軽くなる。


全部が解決したわけじゃない。

戻れるわけでもない。


でも――

さっきまでより、少しだけ前を向ける。


食べ終わるころには、冷えていた指先もあたたまっていた。


「……ありがとうございました」

自然に、言葉が出る。


ふくさんは、にっこり。

「またおいで」


クロが、こちらを見上げる。


「にゃ」

その声に、少し笑う。


店を出ると、夜の空気。

冷たいはずなのに、さっきよりやわらかい。


スマホを取り出す。


連絡先は、そのまま。

しばらく見つめて――

画面を閉じた。


今すぐじゃなくてもいい。

でも、いつか。

ちゃんと、言えたらいい。


「……ごめんね」

今度は、少しだけ自然に言えた。 


小さな灯りを背に、歩き出す。


その足取りは、ほんの少しだけ軽かった。

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