おにぎり屋ふくふく|言えなかった「ごめんね」
「ごめんね」
たったそれだけが、言えなかった。
言おうと思えば、言えたはずなのに。
ほんの少しの意地と、ほんの少しのタイミングのずれで――
そのままになってしまった。
帰り道。
今日は、少し風が冷たい。
コートのポケットに手を入れて、ただ歩く。
スマホを見れば、連絡先はまだ残っている。
消していない。
消せなかった。
(今さら、なんて言えばいいんだろう)
考えるだけで、足が止まりそうになる。
あの日のやり取りを、何度も思い出す。
少し強い言い方をしてしまったこと。
相手が黙ってしまったこと。
そのまま、終わってしまったこと。
「……はあ」
小さく息を吐く。
謝るタイミングなんて、いくらでもあったはずなのに。
そのたびに、言葉が出なかった。
今となっては、もう遅い気がして。
ふと、足が止まる。
見慣れない通り。
小さな灯り。
――おにぎり屋「ふくふく」
やわらかな光と、あたたかい香りが流れてくる。
「……」
なぜか、胸が少しだけゆるんだ。
からん、と扉を開ける。
「いらっしゃい」
やさしい声。
カウンターの向こうに、ふくさんがいた。
「えっと……」
言葉がうまく出てこない。
「寒いだろう。あたたかいのにするかい?」
こくり、と小さくうなずく。
そのとき。
「にゃ」
足元で、小さな声。
黒猫が、こちらを見ていた。
静かに、まっすぐに。
「……」
少しだけ、息がゆるむ。
「これにする」
なんとなく選んだおにぎり。
ふくさんは、にっこり笑って包んだ。
「はいよ」
手の中に、あたたかさが広がる。
クロが、足元に座る。
何も言わずに、ただそこにいる。
――ひとくち。
「……あ」
思わず、声がこぼれた。
やさしい味。
強くないのに、まっすぐで。胸の奥に、すっと入ってくる。
もうひとくち。
「あの日さ……」
気づけば、口に出していた。
「ちょっとだけ、言いすぎたんだ」
クロは、静かに聞いている。
「でも、謝ればいいだけだったのに」
指先に、少し力が入る。
「変に意地張って……そのままになって」
笑おうとして、うまくいかない。
「ばかみたいだよね」
クロは、変わらずそこにいる。
それだけなのに。
「……ごめんね、って」
ぽつり。
小さな声。
誰に届くわけでもないのに。
それでも、言葉にした瞬間――
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
ふくさんが、静かに言う。
「言葉ってのはねぇ」
ゆっくりとした声。
「遅くても、ちゃんと意味があるもんだよ」
顔を上げる。
ふくさんは、やさしく笑っていた。
「届くかどうかは分からなくてもねぇ」
「言えたことは、ちゃんと残る」
その言葉が、すっと胸に入る。
もうひとくち。
「……そっか」
少しだけ、息が軽くなる。
全部が解決したわけじゃない。
戻れるわけでもない。
でも――
さっきまでより、少しだけ前を向ける。
食べ終わるころには、冷えていた指先もあたたまっていた。
「……ありがとうございました」
自然に、言葉が出る。
ふくさんは、にっこり。
「またおいで」
クロが、こちらを見上げる。
「にゃ」
その声に、少し笑う。
店を出ると、夜の空気。
冷たいはずなのに、さっきよりやわらかい。
スマホを取り出す。
連絡先は、そのまま。
しばらく見つめて――
画面を閉じた。
今すぐじゃなくてもいい。
でも、いつか。
ちゃんと、言えたらいい。
「……ごめんね」
今度は、少しだけ自然に言えた。
小さな灯りを背に、歩き出す。
その足取りは、ほんの少しだけ軽かった。




