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王太子が婚約破棄してきたので着ぐるみマスコットにしました

作者: 百鬼清風
掲載日:2026/02/28

 ラウレンツ王国の王城大広間は、金箔の装飾と絹の旗で昼の光を跳ね返し、貴族たちの香と宝飾のきらめきで目が痛くなるほど派手だったが、そこに集まった連中の顔つきだけは妙に固く、今夜の余興が何であれ「笑っていいのか」を測っている目をしていた。


 公爵家シュトラウスの一人娘にして、王太子の婚約者として十年近く並び立ってきた女、カタリーナ・シュトラウス公爵令嬢が、広間中央の指定された立ち位置に立っているせいだ。


 正面、階段を上がった玉座の前に立つのは、ラウレンツ王国王太子ルーカス・フォン・ヴァイスベルク殿下。王家の紋章である金獅子の刺繍を胸に、やけに煌びやかな外套を羽織り、口角だけを上げたまま、こちらを見下ろしていた。


 国王ハインリヒ・フォン・ヴァイスベルク陛下は玉座の一段下に座し、眉間に皺を刻んだまま、息子の横顔を鋭く観察している。


 この布陣だけで、ろくな話ではない。


「カタリーナ、公爵令嬢」


 ルーカス殿下が、わざとらしく声を響かせた。


「今、この場で宣言する。君との婚約を解消する」


 広間が凍りついた。扇子が止まり、杯を口に運ぶ手が止まり、口を開いたままの令嬢が何人もいる。


 耳が痛いほどの沈黙の中で、殿下の目が泳いだ。泳ぎながら、妙に得意げでもある。嫌な予感が、背中から胃に落ちる。


「殿下」


 私が声を出すと、周囲の視線が一斉に刺さった。泣き叫ぶか、取り乱すか、気絶するか、見世物の見どころを探している顔だ。


「今の言葉、撤回なさるなら、今が最後の機会ですわ」


 ルーカス殿下が喉を鳴らした。


「撤回? いや、撤回は、ううむ……その、だな」


 そこまで言って、殿下は何かを待つように広間を見回し、すぐにこちらへ視線を戻した。


「なんか、フィーリングが合わない」


 やっと言えた、と言いたげな顔をした。


 ……その程度の言葉を、ここまで盛大に言い放つために、王城の大広間を貸し切ったのか。


 私の父、シュトラウス公爵フリードリヒ・シュトラウスが、列の中から一歩出た。軍務にも携わる公爵の声は、よく通る。


「殿下、今の言葉、王家の記録官が書き取っているぞ」


「書き取ってどうする、後で燃やせば」


「燃やすな」


 国王ハインリヒ陛下が、低く言った。言葉は少ないのに、広間の空気が一段冷える。


「ルーカス」


「父上、聞いてくれ。これは計画的な……いや、計画ではないが、たぶん、こう、国民に希望を示す儀式のようなものだ」


「希望を示す儀式で、婚約破棄をする王太子がどこにいる」


「王国の象徴は金獅子だろう? 獅子は目立つ。余も目立つ。つまり、国の象徴にふさわしい」


 殿下が胸を張った。胸の金獅子が、誇らしげに輝いた。


 父が額に手を当てた。母、シュトラウス公爵夫人アーデルハイト・シュトラウスは、口元を引きつらせながら扇子を折り畳んだ。折り畳む音が、怒りの合図みたいに響く。


「殿下」


 私が呼ぶと、殿下はまた得意げに顎を上げた。


「言ってみろ、カタリーナ。余は優しい。異論は受け付ける」


「異論はあります」


「ほう、来たな。では、君の望みは何だ」


 ここで泣いて懇願すると思っている顔だ。社交界の噂好きが、固唾を飲む音まで聞こえそうだった。


 あまりに浅い。浅すぎて、怒る気力すら削がれる。


 だから、別の方向へ蹴り飛ばす。


「殿下が目立ちたいのなら、目立つ格好をなさるとよろしいかと存じます」


 国王陛下の眉が動いた。父の目が細くなる。貴族たちの呼吸が、なぜか揃った。


「目立つ格好?」


 殿下が食いついた。


「我が国の象徴である金獅子の装いです」


「ほう、王家の紋章か。確かに目立つ」


「装い、ではなく、着ぐるみです」


 言い切った瞬間、誰かが咳を飲み込みそこねた音がした。


 ルーカス殿下が瞬きを繰り返し、言葉の意味を脳内で並べ替える顔になった。


「……着ぐるみ?」


「はい。国民が愛する金獅子の着ぐるみをお召しになり、王国の祭りと行事に参加し、民を盛り上げてくださいませ」


 私は淡々と続けた。淡々としながら、殿下の顔色の変化だけは見逃さない。


「殿下は婚約破棄という派手な見世物で注目を集めたいおつもりでしたね。ならば、より健全で、より実利のある形で、注目をお集めになるのが王太子として相応しいかと」


 国王陛下が、椅子の肘掛けに指を置いたまま、こちらを見た。


「カタリーナ・シュトラウス公爵令嬢」


「はい、陛下」


「その提案、誰が考えた」


「私が考えました」


 言い切った直後、背後から父の低い笑い声が漏れた。止めようとして止めきれなかった類の笑いだ。


 ルーカス殿下は、困惑から一転して、目を輝かせた。


「着ぐるみで国中を回る……なるほど、それは確かに目立つな。余の雄姿が、民の記憶に刻まれる」


「雄姿は中からしか見えませんわ」


「ならば、より激しく動けばいい」


 殿下の目が、悪い方向に真っ直ぐだった。


 国王陛下が、ため息を一つだけ落とした。


「ルーカス」


「父上」


「今、婚約破棄の話は置く」


「置くのか」


「置く。まず更生だ」


 更生という言葉が、妙に似合う。王太子に。


「カタリーナの提案を採用する。王太子は、金獅子の公式マスコットとして巡業し、各地の祭事に参加し、民の前で汗を流せ」


 殿下が、あっさり頷いた。


「分かった。任せろ。余は目立つためなら何でもやる」


 父が即座に言った。


「何でも、はやめろ」


 私は口元だけで笑い、国王陛下へ向き直った。


「陛下、司会が必要でございます。金獅子だけでは事故が起きます」


「事故とは何だ」


「着ぐるみは視界が狭く、階段で転びます」


 広間の隅で、近衛騎士の何人かが一斉に顔を背けた。笑いをこらえる仕草だ。


「よし。カタリーナも同行せよ」


 国王陛下がそう命じた瞬間、殿下がこちらへ身を乗り出した。


「おお、君も来るのか。余の輝きを、近くで見られるぞ」


「汗だくの輝きなら、十分に拝見できそうですわ」


「汗だく……?」


「猛暑の巡業になれば、獅子の中は蒸します」


「蒸す、だと」


 殿下が、初めて怯んだ。遅い。


 父がまた一歩前へ出た。


「陛下、婚約の扱いは」


 国王陛下が、玉座の前で指を組んだ。


「破棄は認めない。今夜の発言は、王太子が軽率に騒ぎを起こした、という事実として残す」


「父上、それは余の名誉が」


「名誉は巡業で取り戻せ」


 殿下が口を尖らせ、私を見た。私の顔を見て、妙に納得した顔に変わった。


「分かった。金獅子になって、国中を沸かせる。余の伝説は始まった」


 伝説というより、事故の予告だ。


 私は静かに一礼した。


「では、準備に入ります。殿下、採寸が必要です」


「採寸?」


「着ぐるみは、殿下の体格に合わせねば動けません」


「動けないのは困る。余は躍動する獅子だ」


「まず、躍動の前に、頭部の重さを支える首の筋肉が必要です」


「首の筋肉」


 殿下の声が少しだけ小さくなった。


 国王陛下が、広間全体へ告げた。


「本日の発表は以上だ。諸君、今夜見聞きしたことは、余の許可なく脚色するな。脚色した者は、金獅子の付き人として巡業に同行させる」


 脚色を禁じる言葉が、最も脚色を誘う。


 貴族たちが一斉に頭を下げ、視線だけで会話を始めた。


 私は、その視線の渦の中で、ルーカス殿下の袖をつまんだ。


「殿下」


「何だ、カタリーナ。余は今、国民的存在になる忙しさが」


「逃げたら、もっと目立ちます」


 殿下が硬直した。


「……逃げない」


「よろしい。では、金獅子の初仕事は三日後、王都の市場祭です」


「三日後?」


「準備期間としては長い方です」


「長い方……」


 殿下が遠い目をした。


 国王陛下が、こちらへ最後に一言だけ落とした。


「カタリーナ」


「はい、陛下」


「息子を頼む」


「任せてくださいませ。金獅子は檻から出しません」


 国王陛下の口元が、ほんの僅かに緩んだ。


 殿下は、その緩みを見て勘違いしたらしい。胸を張り、私へ囁いた。


「見ただろう。父上も、余の目立ち方を認めた」


「認めたのは更生です」


「更生も目立つ」


 この男、救いようがない。


 だから救い方も、普通である必要がない。


 私は、殿下の手を引いて歩き出した。


「殿下、まず汗を拭く布を用意いたします」


「まだ汗は」


「未来の汗です」


「未来の汗……」


 殿下が、妙に感心した顔をした。


「君は変だな」


「殿下ほどではありません」


 広間の扉を出ると、冷たい廊下の空気が頬を撫でた。背後で貴族たちがざわつき、今夜の噂が、金獅子の毛並みみたいに膨らんでいく音がした。


 私は歩みを止めない。殿下も、しぶしぶ付いてくる。



 王都の市場祭は、石畳の通りに屋台の列が溢れ、焼き菓子の甘い匂いと香草肉の脂の匂いが混ざり合い、朝から人の熱だけで空気がもわりと重くなる祭りだった。


 その中心に、金獅子の公式マスコットとして任命されたラウレンツ王国王太子ルーカス・フォン・ヴァイスベルク殿下が出る。


 言い換えるなら、巨大な金獅子の着ぐるみの中に、王太子が入る。


 私は公爵家シュトラウスの一人娘、カタリーナ・シュトラウス公爵令嬢として、仮設舞台の横で司会台本を握りしめ、天幕の影に立っていた。天幕の下ですら暑いのだから、毛皮と厚布と詰め物の塊の中は、たぶん拷問具の一種だ。


 台本の一行目は、国王ハインリヒ・フォン・ヴァイスベルク陛下直筆の追記があった。


 余計な煽りをするな。調子に乗らせるな。倒すな。


 どれも難しい注文だ。


 控えの近衛騎士が、裏方の通路を塞ぐように立っている。彼らは護衛の顔をしているが、視線の端では、今から起きるであろう惨事の芽を片っ端から摘み取る覚悟が見えた。


 その近衛騎士たちの中央から、金色の毛の塊が、よちよちと現れた。


 金獅子の頭部は、想像以上に大きい。鬣はふさふさで、目は丸く、口元は妙に笑っている。王国の象徴としての威厳はあるのに、無言のまま歩くと、なぜか泣きそうな顔に見える。


 着ぐるみの足元が石畳に擦れ、ぬいぐるみ用の靴底がきゅっきゅっと鳴った。


 私は、喉の奥で笑いを噛み潰し、司会者用の鈴を鳴らした。


「王都の皆さま、本日は市場祭へようこそお越しくださいました、本日より我が国の象徴、金獅子様が皆さまをお迎えいたしますので、どうか拍手でお迎えくださいませ」


 拍手が起きた。子どもが叫び、大人が笑い、屋台の親父が手を叩きながら口笛を吹いた。


 金獅子が、胸を張った。いや、胸を張るように見えた。中の王太子が張っているのだろう。


 そして、金獅子は、片手を上げた。


 上げたまでは良かった。


 次の瞬間、腕が重さに負けたようにぶるりと震え、頭部がぐらりと揺れた。


 私は即座に鈴を鳴らし、声を明るく伸ばした。


「金獅子様、朝から気合い十分でございます、揺れる鬣が豊作の兆しでございますね」


 観客がどっと笑った。


 金獅子が、何か言いたげに首を振った。言えない。口は固定だ。


 控えの通路に戻った瞬間、金獅子が壁に手をつき、肩を上下させた。近衛騎士が二人、左右から支える。


 頭部の口元は笑っているが、その下の王太子は今、たぶん地獄を見ている。


 私は天幕の影へ近づき、頭部の顎下にある小さな開口部へ水筒を差し入れた。


「殿下、飲めますか」


 中から、くぐもった声が返る。


「……水が、神の恵みだ」


「大袈裟です」


「大袈裟ではない、この中は、獅子の腹だ、煮えている」


「煮えている獅子は新鮮ですね」


「新鮮で済ませるな、余は、今、王太子として、威厳を」


「威厳は汗と一緒に出ていきます」


 近衛騎士が咳払いをして、私の方へ目配せをした。公爵令嬢が王太子に何を言っているのか、聞かなかったことにしたい顔だ。


 私は軽く会釈をして、天幕の外へ戻った。


 次は、屋台通りの練り歩き。


 市場祭の主役は食べ物だが、今日だけは金獅子が主役になっている。殿下は目立つのが好きだ。望み通り、全員の視線が一点に集まる。


 金獅子が歩き始めると、子どもが一斉に駆け寄った。


「獅子さまだ、触っていいの」


「尻尾ふわふわ」


「こっち向いて」


 尻尾が、容赦なく引っ張られた。


 金獅子がビクッと跳ね、片足が石畳の段差に引っかかった。


 私は鈴を鳴らしながら、声を張った。


「皆さま、金獅子様の尻尾は王国の誇りでございますので、引き抜くのはご遠慮くださいませ、もし抜けましたら縫い直すのは私でございます」


 大人が笑い、子どもが手を引っ込めた。


 金獅子が、私の方へ頭を向けた。目が合った気がした。実際は中の殿下が、開口部から見える範囲で必死に私を探しただけだろう。


 次の屋台では、肉串を焼く煙がもくもくと上がっていた。


 金獅子が、煙の中へ突っ込んだ。


 もともと視界が悪い上に、頭部の目の位置が高い。前が見えていない。


 煙が鬣に絡み、金色の毛が香草肉の匂いを吸い込んだ。


 屋台の親父が叫んだ。


「獅子さま、火に近い近い、燃える、燃えるぞ」


 金獅子が、慌てて後ろへ下がり、今度は隣の果実屋台の籠に尻から突っ込んだ。


 リンゴが転がり、梨が跳ね、葡萄が潰れた。


 私は鈴を鳴らして、間髪入れずに笑声の調子で畳みかけた。


「豊穣の獅子様でございます、本日触れた果実は、運が良ければ甘くなると伝承にございますので、今潰れた葡萄は割引でございます」


 親父たちがどっと笑い、客が買いに集まった。潰れた葡萄が飛ぶように売れる。


 近衛騎士の一人が、私へ小声で言った。


「公爵令嬢、火消しが上手すぎます」


「火種が大きすぎます」


 金獅子が、ようやく屋台通りの端へ辿り着いた頃には、頭部の口元が最初よりも優しく見えた。いや、そう見えるだけかもしれない。


 広場へ戻る。次は舞台で踊り子たちと一緒に踊る演目だ。


 踊り子たちが並ぶと、金獅子も中央へ出た。


 太鼓が鳴り、笛が鳴る。


 踊り子が軽やかに回り、袖がひらりと舞い、観客が手拍子を重ねる。


 金獅子も回ろうとした。


 回る前に、頭部が遅れて揺れ、鬣が遠心力でぶわっと広がった。


 中から、くぐもった叫びが漏れた。


「うおおおおお」


 私は鈴を鳴らし、声を高くした。


「金獅子様の雄叫びでございます、笛の音が負けておりますので、皆さま手拍子を倍にしてくださいませ」


 手拍子が倍になった。


 金獅子は、倒れなかった。踊り子の一人が、金獅子の肘にそっと手を添え、重心を戻す。


 演目が終わると、観客から拍手が降った。


 金獅子が、胸を叩く仕草をした。叩くたびに、内部の空気が抜けるような音がする。


 控えの天幕へ戻った瞬間、金獅子がその場に座り込んだ。近衛騎士が慌てて支え、私は頭部の開口部へ顔を近づけた。


「殿下、まだ生きていますか」


「……生きている、だが、余は、二度と、果実屋台を見たくない」


「果実屋台は殿下を見たくないでしょうね」


「やめろ、余は、民に愛される獅子だ」


「今日は、愛されました」


 中から、短い沈黙。


「……拍手が、聞こえた」


「聞こえましたね」


「余が、倒れると思っていた者もいただろう」


「全員です」


「……それでも、倒れなかった」


 くぐもった声が、少しだけ張りを取り戻した。私は水筒を渡し、汗で湿った布を差し入れた。


「殿下、次は子ども向けの握手会です」


「握手会」


「尻尾を守ってくださいませ」


「……尻尾を守る王太子とは、何だ」


「王国の象徴を守るのは、お仕事です」


 金獅子が、ゆっくり立ち上がった。膝が笑っているような揺れ方だが、立った。


 私は天幕の外へ戻り、鈴を鳴らし直した。


 観客の前へ出る金獅子の背を見ながら、胸の奥に妙な引っかかりが残った。浅はかな発言で始まったこの騒ぎの中心にいるのに、殿下は逃げずに前へ出ていく。あの男は、格好をつけるためなら何でもやる。けれど今日の踏ん張りは、格好だけでは説明がつかない。


 私の声は、いつも通り明るく響いた。


「皆さま、金獅子様が戻ってまいりました、次は握手会でございますので、指を噛まれない距離でお並びくださいませ」


 笑いが起き、列ができ、金獅子がまた手を振った。



 夏が本気を出したのは、王都を離れて三つ目の町、港町ブレッシアへ入った日だった。石畳は陽に焼かれて白く光り、海風はあるのに湿り気を含み、屋根瓦の上で鳴く海鳥の声まで熱を帯びているように聞こえる。


 ラウレンツ王国王太子ルーカス・フォン・ヴァイスベルク殿下は、金獅子の着ぐるみの中で、その熱を全身で受け止めていた。


 私は公爵家シュトラウスの一人娘、カタリーナ・シュトラウス公爵令嬢として、港の特設舞台の横に立ち、海風でめくれる台本を押さえながら鈴を鳴らす。


「本日は港町ブレッシアの海神祭に、金獅子様がお越しくださいました、波より高く、帆より大きく、鬣は潮風にも負けません」


 観客の歓声が上がる。漁師たちが腕を組み、子どもが肩車され、商人が笑いながら杯を掲げる。


 金獅子が、ゆっくりと腕を上げた。


 前回より動きが滑らかだ。ぎこちなさが減り、重心の取り方を覚えている。内部で殿下が、必死に工夫しているのが伝わる。


 舞台袖で近衛騎士が小声で報告する。


「公爵令嬢、頭部の内部温度が上がっています、予定より演目を短縮しますか」


「短縮はいたしません」


「しかし」


「殿下が自分で言わない限り、私が止める理由はございません」


 騎士が一瞬、困った顔をした。だが引き下がる。


 舞台中央で、金獅子が港の子どもたちと踊り始めた。漁網を模した布を振り回す演目だ。布が絡まり、鬣に引っかかり、視界が遮られる。


 金獅子が一瞬止まった。


 私は鈴を鳴らす。


「潮風に遊ばれております、海の祝福でございますのでご安心ください」


 子どもたちが笑い、布をほどくのを手伝う。


 金獅子が、ゆっくりと頭を下げた。


 終演後、舞台裏へ戻ると、着ぐるみの背中から蒸気のような熱気が立ち上っている。


 私は近づき、顎下の開口部へ声を落とす。


「殿下、やめますか」


 中から、くぐもった息が返る。


「……やめる、とは」


「今日は港の子どもが多い、転べば押し潰します」


「余は、転ばない」


「根拠を」


「……今まで、転ばなかった」


 その返答に、私は一瞬言葉を失う。


 確かに、果実屋台でも、踊りの回転でも、最後は踏みとどまった。


「では、握手会も予定通りです」


「当然だ」


 握手会が始まる。


 漁師の荒れた手が、金獅子のふわふわの手を握る。


「獅子さま、暑いだろう」


 金獅子が、親指を立てた。


 子どもが、鬣に顔を埋める。


「いい匂い」


 香草肉の煙と海風が混じった匂いだろう。


 列が途切れた頃、私は金獅子の横へ立った。


「殿下、港町は評判にうるさいです、手を抜けばすぐに広まります」


「余は抜いていない」


「抜く余裕もなさそうですね」


「……カタリーナ」


 名前を呼ばれ、私は顔を上げた。


「何ですか」


「余は、目立ちたかった」


「存じています」


「だが、今は……違う」


 くぐもった声が、少しだけ低くなる。


「違うとは」


「……誰も、余を笑っていない」


 私は、観客の方を見る。


 確かに笑いはあるが、それは嘲りではない。拍手も、声援も、子どもの歓声も、純粋だ。


「殿下が逃げないからです」


「逃げれば、どうなる」


「私が、舞台で全部ばらします」


「やめろ」


 金獅子の頭が、慌ててこちらへ向く。


「中身がへろへろだと」


「やめろ」


 私は小さく笑う。


「安心してください、ばらしません」


「なぜだ」


「今は、殿下が立っているからです」


 沈黙。


 潮風が鬣を揺らす。


 その日の夜、巡業団は港の宿へ入った。


 着ぐるみの頭部が外される瞬間、私は立ち会う。


 金色の鬣が持ち上がり、内部から汗に濡れたルーカス・フォン・ヴァイスベルク王太子の顔が現れる。髪は額に張り付き、頬は赤く、息は荒い。


「……余は、生きている」


「かろうじて」


 侍医が脈を取り、近衛騎士が水を運ぶ。


 殿下は椅子に座り、私を見上げた。


「君は、倒れると思っているか」


「思っていました」


「今は」


「思っていません」


 殿下の口元が、わずかに緩む。


「なぜだ」


「殿下が、誰よりも目立っているからです」


「それは最初からだ」


「違います、今は、悪目立ちではありません」


 殿下が黙る。


 窓の外で、港の夜風が帆を鳴らす音がした。


「カタリーナ」


「何ですか」


「余は、あの日、婚約を解消すると言った」


「言いました」


「君は、怒らなかった」


「怒っています」


「見えない」


「見せる必要がありません」


 殿下が、少しだけ視線を落とす。


「余は、君が泣くと思った」


「泣く場面ではありませんでした」


「では、どんな場面なら泣く」


「殿下が逃げた時です」


 言い切ると、部屋が静かになる。


 殿下は、しばらく私を見ていたが、やがて肩を落とした。


「逃げない」


「ええ」


「余は、逃げない」


「では、巡業は続きます」


「続くのか」


「当然です」


 私は立ち上がる。


「明日は内陸の丘陵祭です、坂が多いので、足元に気を付けてください」


「坂……」


 殿下の顔が青ざめる。


「獅子は、山を登る生き物です」


「本当にそうか」


「今日からそうです」


 私は扉へ向かう。


「カタリーナ」


 再び呼ばれる。


「何ですか」


「君は、余を罰しているのか」


「はい」


「……だが」


「だが?」


「君は、余を助けている」


 私は少しだけ振り返る。


「罰は、終わらせるためにあります」


「終わらせる?」


「殿下が、自分で立てるようになるまでです」


 殿下が、ゆっくりと頷いた。


「ならば、立つ」


「もう立っています」


 私は扉を開け、廊下へ出る。


 背後で、椅子が軋む音がした。


 金獅子は、ただの着ぐるみだ。


 だがその中で汗を流す男は、最初に大広間で見せた軽薄な顔とは、少しだけ違う。


 港町ブレッシアの夜は静かで、波音が遠く続く。


 巡業はまだ終わらない。


 そして、私の怒りも、まだ終わらない。



 内陸の丘陵地帯、葡萄畑と風車が並ぶエルンハイムの収穫祭は、坂と階段と石段の町だった。道は平らな場所の方が珍しく、広場へ向かうだけで息が上がる。


 その坂の下に、金色の鬣が朝日を受けて立っていた。


 ラウレンツ王国王太子ルーカス・フォン・ヴァイスベルク殿下は、今日も金獅子の着ぐるみの中である。


 私は公爵家シュトラウスの一人娘、カタリーナ・シュトラウス公爵令嬢として、坂の上の特設舞台から下を見下ろし、鈴を軽く鳴らした。


「本日はエルンハイム収穫祭へ、金獅子様が自ら葡萄の出来を見守りにお越しくださいました、坂の町に獅子が挑みます」


 観客の視線が一斉に坂へ向く。


 金獅子が、ゆっくりと一歩踏み出した。


 石段の一段目で、足裏が滑る。


 私は即座に声を張る。


「獅子は山を制す生き物でございます、皆さま、応援の声を」


 歓声が上がる。


 金獅子が体勢を立て直し、両腕を広げ、よちよちと階段を上る。


 段差は想像以上に高い。着ぐるみの膝は曲がりにくい。鬣が前に垂れ、視界を遮る。


 それでも止まらない。


 近衛騎士が後ろから支えようとすると、金獅子が手を振って拒んだ。


 自力で上る気らしい。


 五段、十段、二十段。


 途中で子どもが横から抱きつく。


「獅子さま、がんばれ」


 金獅子が一瞬ぐらつく。


 私は鈴を鳴らし、声を少し落として言う。


「殿下、踏ん張ってください」


 中から小さな返事が返る。


「……踏ん張る」


 やがて、最後の段を上りきった。


 広場に出た瞬間、拍手が弾ける。


 金獅子が両腕を高く上げ、ゆっくりと回った。


 鬣が朝日を受けて揺れる。


 その姿は、滑稽で、そして少しだけ堂々としていた。


 舞台へ上がると、私は殿下の横に立つ。


「エルンハイムの皆さま、金獅子様は坂を制しました、葡萄も今年は豊作でございます」


 町長が進み出る。


「獅子さま、こちらが今年最初の葡萄酒でございます」


 大きな樽が運ばれる。


 演目は、金獅子が葡萄酒の仕込みを祝福するというものだ。


 樽の上に立つ。


 立つはずだった。


 金獅子の足が樽の縁で止まる。


 高さを測っている。


 私は静かに囁く。


「殿下、今さら怖気づくのは目立ちません」


「怖気づいていない」


「では上ってください」


 金獅子が、よいしょ、と樽に足をかける。


 重心が後ろへずれる。


 私は即座に前へ出て、樽を押さえる。


「皆さま、獅子様は葡萄酒の出来を足で確かめております、丁寧な仕事でございます」


 観客が笑う。


 金獅子が、何とか樽の上に立った。


 そして、葡萄を踏む真似をする。


 実際には踏まない。葡萄は既に絞られている。


 太鼓が鳴り、笛が響く。


 演目が終わると、また拍手が降る。


 私は殿下の横顔を見る。


 頭部の目は固定されているが、内部の殿下の息遣いが変わっているのが分かる。


 控えの天幕に戻る。


 頭部が外される。


 汗で濡れたルーカス・フォン・ヴァイスベルク王太子の顔が現れる。


「今日も、余は輝いていたか?」


「ええ、輝いていましたとも」


「その、何だ。余が輝けたのは、君の盛りたてのおかげだ。ずっと、余を盛り立ててくれないだろうか」


「どういう意味ですか?」


「婚約破棄を無かった事にしてほしい」


「何を、おっしゃいますやら。元々誰も破棄を認めておりません」


「では、余を認めてくれるのだな?」


「ええ、少しは。頑張っておられる姿は立派でした」


 外へ出ると、夕暮れの光が町を橙に染めている。


 灯籠が一つ、また一つと灯り始める。


 金獅子が、再び頭部を被る。


 私は鈴を鳴らす。


「エルンハイムの皆さま、夜の行列でございます、金獅子様が道を照らします」


 灯籠の列の先頭に、金獅子が立つ。


 坂を下りる。


 昼より危険だ。


 だが、今度は歩幅が安定している。


 子どもが手を振り、老人が頭を下げる。


 金獅子が、ゆっくりと手を振り返す。


 その背中を見ながら、私は思う。


 殿下は、目立ちたがりだ。


 だが今は、誰かの前で立ち続けることを選んでいる。


 行列が広場へ戻る頃、星が一つ、空に浮かんだ。


 金獅子が最後に大きく腕を上げ、観客へ深く頭を下げる。


 拍手が波のように広がる。


 私は鈴を鳴らし、声を響かせる。


「本日の収穫祭、これにて閉幕でございます、金獅子様は明日も巡業を続けます」


 明日も。


 罰は続く。



完。

よろしければ何点でも構いませんので評価頂けると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
某球団のマスコットは、性格が「おうじさま」だそうですが、本作の金獅子は名実ともに王子様なのですね。 司会兼猛獣使いとしてのカタリーナの手腕もあるのでしょうが、王太子は逃げ出さずにマスコットの役割を全…
感想一覧
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