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昨日、今日、それから明日

作者: 赤目
掲載日:2026/01/25

 おっきくて、動いてて、煙も出て、唸ったり、涎を垂らしたり、光ったり。そんな生き物が頭の上にいたらどう思う?


 「なんでみんな怖くないんだろう?」と、小学生の頃から不思議だった。


 中学三年生になった今でも、それは変わらない。見下ろしてくる化け物から隠れるように黒色の傘をさした。下校する時はいつもこう。


 暗い世界に包まれて、深い息を一つ、二つ。見慣れたマンホールの溝をなぞるように、ローファーを滑らせた。


 ふいに、後ろからぶつかられて足がもつれる。


「チッ、狭い道で日傘なんか使うなよ」


 私はぶつかった人の顔も見ないまま、また先に進む。彼の頭の上には、いないのだろう。今もこっちを見てる化け物が。


「聞いてんのかって、邪魔なんだけど」


 どうやら、ここを通りたいみたい。道を開けようにも、一人通るのでギリギリの細道。傘を閉じれば追い越せないこともないんだろうけど、そんなことしたら見つかっちゃう。


「ごめん……」


「いや、ごめんじゃなくてさ……急いでんだけど。一瞬日傘閉じてくれればいいから」


「……いやだ。ごめん」


「は? きしょすぎ」


 もう一度舌を鳴らして、彼は引き返していった。抉られた心臓が吠える。黙れ、黙れ、悪いのは私だ。


 早まる鼓動に負けたくないから、少し早歩き。存在しない笑い声から逃げたくて、少し小走り。


 いつもの道は誰かに見られてる気がして、知らない道に飛び込んだ。心が逃げたい方に深く潜っていく。


 気がつけば、深海のような静かで冷たいところに来ていた。振り返っても、そこにあるのは未知の道。


 洗濯物も干されていない、古びれたアパート。街風に冷やされたコンクリートが、熱った肌から不安を奪っていく。


「高いところから見たら、ここがどこか分かるかも」


 独り言を呟いてみたのは、音がしなくて怖かったから。返事がないまま、階段に足をかける。返事されてもビックリするんだけど。


 傘を閉じたら途端に怖くなる。いつでも開けるよう準備をして、最上階に上がっていった。


 しばらくすると、扉にぶつかる。俯いたまま一息吸って、その空気を吐きながら扉を開けた。


 涼しい風が髪を靡かせた。どうやら屋上についたみたい。傘を広げて、貯水槽の土台に腰掛ける。


「……あー、私、何してるんだろ」


「屋上って、何もしなくていい場所なんだよ」


 奥の方から声が聞こえてきて、驚きにあまり、浮かせていた腰を下ろしてしまう。最悪、絶対スカート汚れた。


「だ、誰……?」


「僕は小波(こなみ)。ここの屋上を巣にしてる飛べない雛鳥。君は?」


「私は……鈴宮(すずみや)心羽(こはね)、です。えーっと……この傘を巣にしてる臆病な海月(クラゲ)……かな?」


 巣に隠れたまま、ゆっくりと返す。本ばかり読んでいたからか、私の中で100点をあげたい返事をすることができた。


「そっかそっか、僕たち似たもの同士だ。隣座っていい?」


「いいよ」


 顔も分からない彼は、傘半分開けて隣に座る。それからは特に話しかけてこない。小学生か、中学生か、もしかしたら高校生。


 巣の外から覗かせる腕は私と同じぐらい真っ白。こんな男の子、見たことない。


 私は何も悪くないのに、気まずくなってくる。普通、何も喋らないのに隣に座る? いや、こんな傘さしっぱなしの感じ悪い女の子とか、そうするしかないか。


「小波……くんは、さ、その…………いないの? 化け物」


 小さな口から漏れ出た、大きな不安。言葉足らずだけど、全て伝えるには勇気足らず。もっと、楽な伝え方があればよかった。


 絶対、私のこと変な人だと思ってる。


「化け物? どんな?」


「頭の上に、いるでしょ? 青くて、光ってる目玉が一個あって、今も見下ろしてる」


「……空のこと?」


 「ヒュッ」っと心臓が鳴く。力なく頷いたけど、小波くんは見えるはずない。


「確かに、ちょっと怖いかも」


 また「ドクン」と心臓を鳴らす。共感してくれたのは、彼が初めて。半分は笑った声だけど、バカにはしてないってわかる。


「分かってるんだ。私がおかしいって。でも、怖いんだもん。逃げ場がないみたいに私の身体全部覆って、息がしにくくて、全部が生き苦しい」


「僕も、分かるよ。みんな怖くないものが、自分にだけ怖いって、すごくよく分かる。だから、大丈夫」


 そっと伸びてきた手が、私の左手に乗る。コンクリートみたいに冷たくて、スベスベで、嫌じゃなかった。


 ふと、彼の顔が見てみたいと思った。どんな目をしているのだろう。一重かな、二重かな。どんな髪をしているのだろう。センターパートとかツーブロックとか。


 もどかしくなって、傘をおろした。覗いてくるのは、ソラの大きな眼。どんどん心臓が震えていく。


 ああ、やっぱりやめておけば良かった。


 ソラはずっといるし、いつもより化け物が近いし、小波くんの顔はちっともタイプじゃないし。


 震えた手で傘を広げようとすると、彼の触れていた右手がそっとこちらに伸びてくる。


「大丈夫。ゆっくり、吸って」


 催眠術をかけられたみたいに頭がポワポワして、無意識にソラを深く吸う。


「ゆっくり吐いて」


 子守歌みたいな低い声。小柄な身体。優しい瞳に落ち着いた目尻。男の子の手が頭を撫でる。


 吸ったソラを、ソラに吐く。身体が空っぽになって、浮かび上がっていきそう。


 あーもう、全然タイプじゃないのに。


「もっとゆっくり吸って」


 水色の空気が肺を満たす。真っ白な雲と、煌めく太陽の光。私の身体が、同化していく。


 私の身体が、どうかしていく。


「もう大丈夫だよ。もう怖くない」


「小波……くん。ありがとう。もう怖くなっ––––」


 息が詰まった。心臓が止まった気すらした。ソラへの恐怖じゃなくて、なんて言うんだろう、逃げてたものとは違う何かに捕まったみたいな。


 過呼吸みたいになって、ソラが吸えなくなった。浅い空気に酸素を感じない。吐き出す空気を肺は知らない。


 いける、いける、さっきまで、ついさっきまで大丈夫だったんだ。


 怖くなんか、怖くなんか––––––––


 急に目の前が真っ暗になる。広がるのは私の大好きないつもの傘。彼の世界が優しく私を包み込む。


「お疲れ様、よく頑張った。心羽はえらいよ」


 一つの傘に二人の身体。倒れ込むように、彼の肩に頭を預けた。肺と心臓と心が満たされていく。そして薄暗くなった頃、確信した。


 ここは、小波くんと私の、愛の巣なんだと。


「もうそろそろ帰ろうか」


「小波くんは明日もここにいる?」


「いるよ。だって、ここが僕の居場所だから」


「…………そっか。あっ! 私、家がどっちか分かんない」


 ここにきた理由をすっかり忘れていた。どうやって帰ろう。


 化け物が辺りに毒を吐いて、街を暗く染め上げる。不安がまとわりついてくる。


 彼の手を握りたくなって、巣から手を出してから、寸前でひっこめた。なんか、ズルい気がして。


「心羽は高校生?」


「ううん、中三小波くんは?」


「中一。そうだ、お姉ちゃんなら中学校の場所分かるかも」


 いやいや、いくらなんでも大人すぎないか。小学校卒業して間もないのに、怖いぐらいに大人びている。てか私、二つ年下の子に頭撫で撫でされてたのか。軽く死にたい。


 それから少し話していると、女性の声が聞こえてきた。


(あくた)ー! どこー?」


 小波くんは「来た来た」と悪戯に笑う。その笑顔は年相応に見えて、余計に恥ずかしくなってくる。


 屋上からボロアパートの中に入ると、深い夢から覚めたみたいな、なんだか、少し寂しい気がした。


「いたいた。あー、その制服、西中か。いいよ、着いてきて。私は千莉(ちり)


 名前を聞いた途端、小波家の闇が首筋に触れた。彼も彼女も一人なら違和感のない名前。けれど、けれど。


「私は心羽(こはね)です」


 端的に伝えると、彼女は己の心臓を潰したような自虐的な笑みを浮かべた。不自然に引きつられた口から、ため息が漏れ出ているようだと、失礼ながら思った。


 結局、彼女と私との間に会話がないまま知ってる道に出てきた。傘を差しっぱなしなことに対しても、何も言わない。むしろ、そんなこと気にしていないみたい。


「私……ここで大丈夫です。ありがとうございました」


「ん、芥、帰ろ」


「わかった。じゃあ、またね」


 抜かりない笑顔がまた、私の中に入ってくる。彼といると、なんだか鼓動のリズムが狂う。


「うん、また明日」


 黒い傘の下から小さく手を振ったことに、彼は気づいてくれただろうか。脳裏に広がる彼の笑顔が、もう、こびりついて、離れない。


 傘を閉じて、化け物を見上げる。私は何が怖かったのだろう。何に恐れていたのだろう。それももう、分からない。


 《《だから》》私は、もう一度傘を広げた。



 ▲▲▲




 いつも通り傘をさした。いつも通り化け物に怯えた。


 もう化け物が死んでいることに気づいていたのに、私は巣に隠れていた。いつも巣の外から私を馬鹿にしてくるやつと、一緒になりたくなかった。


 ああ、私も馬鹿だ。いつだって化け物は心に《《巣》》くう。


 誰にもバレていないことが嬉しかった。それとともに罪悪感が押し寄せる。夏場のような、まとわりつく不快感。逃げるように昨日の屋上に向かった。


「…………小波くん、いる?」


「いるよ」


 声1つで安堵して、バレないように深く息を吐く。自分の顔が見られたくなくて、靴の汚れを眺めた。


 昨日と同じ場所に座って、心臓が黙るのを待った。


「心羽は『オオカミ少年』って知ってる?」


「うん。羊飼いの男の子が嘘ついて、痛い目にあう童話でしょ?」


「正解。あの話聞いて、どう思った?」


 言葉の裏がありそうだけど、表情を見れないんじゃ感情の表も分からない。みんな知ってるお話しで、結論なんてみんな一緒。


「嘘をついたら、人からの信用がなくなるんだなってことぐらい」


「僕は男の子が悪いって思えない。だって、毎日毎日オオカミが来るか見張るだけ。一人で、ずっと。そんなのしんどいでしょ。かまってほしくもなるよ」


 子供が思い通りにいかなかった時に出す、ムスッとした声。「誰も分かってくれない」と心の中で嘆いた声。


 見えない彼の表情が涙ぐんで見えて、巣の外に覗かせる手に、手を重ねてしまう。


「本当に悪いのはあの子じゃない。年端もいかない子供を愛さない親だ。それを自業自得で片付けるなんて、あんまりだって思わない?」


 私よりも温度の高い彼の手に、愛されない冷たさを感じた。愛の温もりとか恋の微熱とか、それを与えられなかった人は心の温度をどうやって保てばいいのだろう。


「なーんて、捻くれてるから普通に馴染めないんだろうね」


 昨日と同じく、声の半分に笑いを混ぜる。まるで「僕は気にしてないけど誰かには気にしてほしい」と言わんばかりに。


「普通になんか、馴染まなくていいよ」


 傘が必要ってだけでおかしい人扱いしてくる連中になんて、なってほしくない。


「僕らってやっぱり似てるよね」


「どこが?」


「大きな空白に怯えてるところ」


 私は言わずもがな、地球を覆う化け物だ。

 じゃあ––––––––


「小波くんは何に怯えてるの?」


 みんなには怖くないものが、自分には怖い、理解されない。彼もまた、その苦しみを味わっている。だから、似てる。


 でも、私は彼が何に怯えているか、ちっとも分からない。きっと、私の内側に彼はいるけど、彼の内側に私はいない。私はきっと、みんなの一員。


「なんだと思う?」


 悪戯な笑みを浮かべて、巣の外から覗き込んでくる。ニコリと波を描く垂れ目。絵に描いたようなエクボが私の心臓を汚く照らした。


「親……絡みじゃないの?」


 だって、お姉ちゃんの名前が千莉(ちり)で、弟の名前が(あくた)。まともな親が自分の子供に塵芥(ちりあくた)なんて名前をつける?


「半分の半分正解」


「それはもう不正解じゃん」


 無言の空白を埋めるように彼は笑う。「人は空白を埋めたい生物だ」と先生が言っていたのを思い出す。


 そうだと思う。もし本の言葉が一つ抜けてたら、大事な言葉じゃなくても気になってしまう。もし友達との間に人ひとりの隙間があれば、何も考えず詰めてしまう。


 じゃあ、埋まらない空白に怯える私たちを笑える人がどこにいると言うのだろう。


 彼との空白(キョリ)を埋めたいと思うのは、その気持ちは、おかしくなんかないでしょ?


「答えは?」


「心羽に当ててほしい」


 表情が見たくて、つい傘を上げてしまった。泣いてなかった。笑ってた。


 でも、とっても悲しそうな笑顔。


 傘を投げ捨てるしかなくて、私より少し小柄な彼の胸に手を伸ばす。胸に触れても嫌がらなかった。彼と目も合わせられないまま、時間の流れを待った。


 取れかかったボタン。はだけた鎖骨。淡い色の唇。重なった瞳。


「分かった?」


「分からないよ。分かんない」


 なぜか私が半泣きになって、小波くんはいつもみたいに半笑いで、二人でやっと一つみたい。


 でもきっと、小波くんは一人なんだよね。


 分からなくてごめんね。ごめんね。ごめんね。


 泣きそうになる彼の顔を見て、泣いた彼の顔を見たくないって思った。でも、埋める何かを持ってなくて、だから背を向けて逃げた。


 傘を拾おうか迷って、置いていった。

 ソラという化け物は、老いていった。


 泣きじゃくり、既知の基地から逃げ帰る。小波くんが怖がっていた空白ってなに?


 きっとヒントはあって、それは普通じゃなくて、それは埋められなくて、それは屋上で、それはオオカミ少年。


 もう、なによ。全然分かんない。別に私は私から《《空》》が怖いって教えたんだから、教えてくれてもいいじゃん。


 分かってあげられない。正解がわからない。《《空白》》のままの解答欄が埋まらない。


 家に着いて、ベッドに潜って、天井を仰いで、答えを探して、途方に暮れて、星が浮かぶ。


 星を繋ぎ合わせたら、答えに辿りついたりしないだろうか。なんて、都会の星は数が少なくて繋げらんない。


 きっと星も、夜空の暗闇を埋めるように光ってる。じゃあ、私は?


 彼のために何かしてたくて、隠れるように家を出た。二軍の傘を広げて、夜道を歩いた。見つかったら絶対補導される。


 人通りの少ない道を選んでいたら、偶然あのマンションに出た。って、誰にそんなバレバレの嘘ついてるんだ。


 階段を上がるたび、彼との日々を思い出す。バカだ、私。今日で彼と出会って二日目だった。二段しか登れない。とか、ふざけてみて。


 屋上に着くと夜風が吹いて、傘がひっくりかえる。強く握ったはずの傘の持ち手が溢れ落ちたのは、そこに彼がいたから。


 フェンスを乗り越えた外側。彼の巣の外。


 ほんの一瞬、こっちを見て––––––––



 小波くんは落ちた––––––––




 声にならない叫び声が、夜空に、遠く、響く、響く。



 ▲▲▲



 結局、彼は死ななかった。急いで救急車を呼んで、そのまま病院に行った。すぐ小波くんのお姉ちゃんも来て、今は隣に座ってる。


 もろもろ話を聞かされて、お姉ちゃんも私も疲れ果てたとこ。山場はすぎて、命に別状はないらしい。


 けれど、意識は無く、出血も多い。意識を取り戻すには時間がかかり、後遺症が残る可能性もあるって、そんなことを言っていた気がする。


「こんな深夜に大丈夫? 嫌なの見せちゃったよね」


 さっきまで声を荒げて泣いていたお姉ちゃんは、落ち着いたのか泣き疲れたのか、水を差し出してくれる。


「いえ…………」


 親にバレなかったら、大事になることはないし、大丈夫。バレたら絶対、怒鳴られるけど。


「あのっ、小波くんってその……どんな子なんですか?」


 さっきからうるさい心臓が、バクバクと身体全体を揺らす。小刻みに震える手でペットボトルを強く握った。


 静かすぎるぐらいの病院。お化けの一人や二人、出てきてもおかしくない。お化けの数え方って一人二人で合ってるのかな……なんて。


「変わってるんだよ、あの子。ずーっと、勉強してるの。家でぼーっとしてるとこなんか見たことない。うち、スマホとか持たされないからさ。暇つぶし……とはちょっと違うんだけど」


 込み上げる涙を抑え込むみたいに笑顔を作る。ああ、似てる。小波くんと、私の好きな人と、似てる。


 小波くんがお姉ちゃんに似てるのかな?


 なんだか、ちょっと可愛らしい。


「芥、何かしてないとおかしくなるんだ。酷い時は過呼吸みたいになっちゃうの。私には分かってあげられなかった」


 そっか、そうだったんだ。彼の怯えていた空白って、時間だったんだ。


 だから、羊を見ているだけのオオカミ少年を憐れんだ。だから、初めて屋上に来た時に「屋上って何もしなくていい場所」って言ったんだ。だから、彼の巣は屋上なんだ。


 何かしなくちゃいけないって焦燥感は誰にでもあって、それが彼には大きすぎたんだ。


「私たちの親ね、離婚するんだ。本当は芥が高校卒業してからって話だったんだけど、急遽、もう限界だって。昨日決まった」


 ずっと前からボロボロだったんだ。今に始まった話じゃなかった。そんな、最後の最後に少し出てきただけの私が、ハッピーエンドにする解決法なんて持ってない。


「ごめんね。巻き込んで」


「そんな、巻き込まれたなんて思ってないです」


 彼女の肩は震えていた。今までの恐怖と、これからの不安。病院はやっぱり、外より寒い。


「私が飛び降りさせちゃった。あんなこと、言っちゃいけなかった」


 小波くんのお姉ちゃんは立ち上がって、一言続ける。


「芥は起きないし、場所変えよっか」


 手術室前のソファから立ち上がる。重い腰を上げたからか、気持ち悪い柄の上に、座った跡だけが残っていた。


 自動ドアを抜けると、強い夜風が髪を煽った。病院前の公園のベンチに座って、身を寄せ合う。


「昨日の帰り道、離婚するって芥に伝えたの。なんか芥、なんにも傷ついてないみたいな顔して、私だけが一人納得できてないみたいな感じになって……なんかもう、やだ」


 傷を舐めるように、彼女の背を撫でた。触れたところが熱いのは、きっとそこが傷口だから。


 懺悔とか贖罪とか、言い表わせる言葉はあるんだけど、血反吐って言葉が一番似合う気がした。


「芥が生まれてから家族が壊れたって言っちゃった。お前のせいだって。もとから壊れるようなものなんか、何もなかったのに」


「それ、言うの私じゃないですよ」


 白い声。震えた息。飲んだ唾は吐き出したい味がする。


「だよね、ごめん」


 そう言って、千莉さんは笑った。


「芥を助けてくれて、ありがとう。家まで送ってくよ」


 いろんな話を聞いたけど、こんなお姉ちゃんが欲しかった。小波くんは千莉さんのこと好きだったから。そんなの、会って一日で分かってた。あの笑顔は、しっかり家族に向ける笑顔だったから。


 帰り道に言葉は無くて、一つ、いや二つ、考え事をしていた。昨日、千莉さんは離婚のことでいっぱいだったから、私が傘をさしたままなことに何も言わなかったんだってこと。


 それと……もし、傘を持たずに家を出ていたら、飛び降りようとする前に小波くんに気づけたんじゃないかって。死のうとする前に助けられたんじゃないかって。


 何かしたいって、何かしてあげたいって家を出て。でも、自分を守るのが一番最初で、結果このザマ。


 親に気づかれないように自分の部屋に帰った、深夜二時過ぎ。色々あったから、体が疲れてて瞼は重い。


 なんか、心臓が痛い。夜が心臓を取り込んでいく。蝕んでいく。罪悪感の種が育って、咲いた花が心臓を栄養にしてるみたい。


 小波くんが飛んだのは、絶対私も関係してる。分かってあげられないって、分かってくれないことよりずっとずっとしんどい。


 気づけば枕が濡れていた。寝ようと目を閉じても、涙って溢れ出てくるんだ。知らなかった。


 恋がこんなに辛いなんて。失恋がこんなにも痛いなんて。知らなかった。知りたくなかった。知らなきゃよかった。


 もう雛鳥のいない屋上にはいけない。



 おやすみ、私の恋心––––––––––––



 ▲▲▲



 あれから五日が経った。学校終わりに突然千莉さんが来て、小波くんの病室に連れて行かれた。


 目覚めたのは自殺を図った日の二日後だったらしい。今日が退院で、明日にここから引っ越すとのこと。


 つまり、これが彼との最後。


 かけなきゃいけない言葉も言いたい言葉もごちゃ混ぜで心の箱に入ってる。どれを取り出しても納得できなくて、重い足取りのまま病室を跨いだ。


「久しぶり……だね、心羽」


 少し細くなった彼の声。ベッドから上半身を起こしてこちらを見つめた。顔には左の目元から首元まで縫い跡が残ってる。


「うん。久しぶり……」


「最後に、どうしても会いたかったから」


 いつもは、彼の笑っている半分に目がいくのに、今日は泣いている半分の方が大きく見えた。


「最後って……死んじゃったら、最後とか、今の会話とか、全部なかったんだよ?」


 自殺がダメとか悪いとか、安い言葉を吐くつもりはなかった。けど、何か言ってやりたくて、そう言った。


「ごめん……実は怒られまくってさ。これでもだいぶ反省してるんだよ?」


 ここ数日で見慣れてしまった笑顔が恋しくて、許してしまいそうになる。


「絶対許さないから」


 溢れ出そうな涙を…………溢れ出た涙を、隠すように床に目を逸らした。飛び降りた瞬間から断ち切れていた彼の記憶が、繋がっていく。


 じんわりと温かくて、陽だまりのような温もりが涙に温度を与える。


 なに泣いてんのよ、恥ずかしい。やだもう。全然っ、全然止まんない。


「ありがとう。許さないでいてくれて」


 いつのまにか目の前に来てた小波くんに、頭を撫でられる。お姉ちゃんの前じゃん。そーゆうの、ほんっと、生意気。


「やめてよ。撫でなくていいから」


「僕が撫でたいんだよ」


「ずるい、ずるいよ」


 ずるすぎる。「撫でたい」なんて、カッコつけて言う言葉でしょ。泣かれながら言われても、カッコよくないよ。


「ねぇ、小波くん。私、小波くんのこと好き。好きだった。ちょっと優しくされただけで馬鹿かも知れないけどっ、でもっ、好きだった」


 行かないでなんて言えなくて。付き合ってなんて箱の中になくて。存在しない言葉が喉に引っかかって、熱い。


「私が分かってあげられたら、傘なんかしてなかったらって。ごめん、自分ばっかりで、ごめん」


 いいよも許さないも言わなかった。けれど、その代わりに。


「心羽さ、もう傘いらないんでしょ?」


 慰めるような声で、核心を突かれた。一足先に泣き止んだ彼に置いていかれる。


「なんで、それ知って……」


「ふふっ、分かるよ。初日に克服してからずっと怯えてるフリしてた」


 彼の言う通りだった。克服したけど、今度は罪悪感に潰される気がしたのだ。親にも先生にも、普通にできなくて迷惑をかけてきた。


 そしたら、普通にできたことが途端に怖くなった。ダメな自分を受け入れてくれた優しさを踏み躙ってしまう気がした。裏切る気がした。


 そんな、自分勝手な思いで、私は普通に蓋をした。


 それを分かってもらえてた嬉しさと、分かり合えない悲しさが心臓の中で共存する。まるで、混じり合うことのない青空と雲。


「もう空白はないんだから、似たもの同士なんかじゃない」


 突き放す物言いは、きっと彼のためでもあるのだろう。でも、それでも。


 私は涙を枯らして、精一杯の笑顔を咲かす。


「私、小波くんがいなくなったら心に空白ができちゃう」


 なに言ってんだろう私。恥ずかしいとかのレベルじゃない。でもでも、顔を赤くする小波くんが面白くて、ちょっと勝った気分。


 が、何かを決意したように彼は哀しい顔をした。


「僕じゃなくてもきっと埋まるよ。僕だって、埋めていく」


 辛そう顔なしても、目だけはいつもの笑顔だった。彼の空白を埋められるのは、私じゃなかったってだけ。だから、今泣くのはずるになる。


 涙を堪えていると、千莉さんがベッドに腰掛けて言った。


「空白なんか埋めなくていいんだよ」


 私も小波くんもキョトンとして彼女の方を向く。堪えていた涙は引っ込んでしまった。


「空白を許せるようになりな。それが大人になるってことで、その空白が大人の余裕ってやつだからさ」


「見て見て、高校生ごときがなんか言ってるよ」


 千莉さんのありがたいお言葉を笑い飛ばす彼。満天の笑顔を初めて見た気がする。


「入院し足りないらしいなぁ」


「冗談! ごめん、嘘だから!」


 じゃれ合う二人を見て、やっとひと段落ついたと心臓が言う。それに答えるように、私も兄弟喧嘩に参戦しに行った。


 それから少しして、病院を後にした。もう、小波くんと会うこともないのだろう。彼のせいで、私は空の下を歩けてる。誰かさんのせいで、私の心には穴が空いちゃった。


 空を見上げて、ふと思う。この世は空白だらけなんだと。青空も、星空も、おとぎ話も、時間も、未来も、答えも、心も、あの人との距離も。


 視線を下ろして、また感じる。誰だって空白を持ってるって。私も、彼も、彼女も、花屋の店員さんも、疲れ切ったサラリーマンも、羊を見守る少年も、どこかの国の誰かも。もしかしたら、違う星にいる宇宙人にだって。


 そして、きっとあなたにも。


 なーんて、誰に言ってんだろ。でも、もし会えたら言ってあげたいな。



 埋めるものなんてなくていい。

 許す心があればいい。

 怖いものなんか、なにもない。


 恐れず一歩、踏み出そう。



 昨日、今日、それから明日。

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