アウゲイアスの牛小屋
開店直後のバーは、騒がしい酔客がおらず、手間のかかるカクテルが飲めるから好きだ。
というわけで、私は今日も早めにいつものカウンター席に着いた。
マスターがチャームを出してくれた。
「ブルシットをお願いします」
「それを言うならブルショットですね」
「だっけ?」
マスターが声を低める。
「ええ。シットだと、おしっこになっちゃいます。まあ、見た目はそんな感じですけどね」
ブルショットは、ウォッカを冷やしたビーフコンソメで割った変り種カクテルだ。コンソメをブイヤベースにしたり、レモン果汁、ウスターソース、オリーブオイルなどを加えたりと、アレンジも多い。口に塩気がほしい時に頼むカクテルだ。
「ダーツでど真ん中に当ることをブルショットって言うよね。何か関係はあるのかなあ」
「さあ、どうなんでしょうね。あれは牛の目を射ぬく、て意味ですけど、カクテルと関係があるのですかねえ」
なんてことを話していると、AI氏が話に加わってきた。
「関係はないと思いますよ。ダーツの世界でブルショットと言い出したのは、九十年代に入ってからですから」
「へーえ、そうなんだ」
話半分に聴いておく。この人には昔、日本酒の「山廃おろし」を「山の廃屋で見つかった酵母を使ってかもした酒」と大ボラを吹かれて信じ込んでしまった苦い経験があるのだ。
「あ、自分はホットウィスキートゥデーにします」
「それを言うならホットウィスキートディですね。綴りが違うんです」とマスターが訂正する。
「やあ、そうだったんだ……」とAI氏。軽い咳をしている。こういう時、ホットカクテルを頼むのは理にかなっている。
壁のテレビには世界遺産の番組が流れていた。今日は雲南省の麗江古城の話だ。音がしないので字幕で概要を把握する。
麗江古城はナシ族が作った街で、広場にある石の蓋をはずすと水があふれ出して、勾配にそって街中を洗い流す仕組みになっている。昔は一日中水を流していたが、二〇〇三年以降は朝八時から夕方八時までになった。昔は馬糞が多くあり、このシステムで流していたのだとか。
「こりゃ便利だ」
「宋の頃からあったのか。こりゃハイテクだ!」
二人で感嘆する。
「そういえば、ギリシャにも似た話がありましたね」とAI氏。
「ギリシャ?」
そんな世界遺産は聞いたことがない。
「アウゲイアスの牛小屋ですよ」
言われてもピンとこない。というか、ギリシャ関係は全くの門外漢だ。
「ラクレスの『十二の難業』のひとつですよ。アウゲイアス王が飼っていた牛小屋を掃除させられるんです」
「へーえ」
「王は五〇〇頭の牛を飼っていましてね。でも、その牛小屋は三十年間一度も掃除されたことがなかったんですよ。その牛小屋を一日できれいにしたら牛の十分の一をやると言われて挑戦することにしたんです」
「そりゃまた難題だ!」
「けど、普通に掃除していたら絶対に一日じゃ終るわけがない。ヘラクレスは知恵を働かせて近くの川をせき止め、牛小屋に川の水を一気に流し込んだのです」
「それは賢い!」
「まあ、そうやって難行を達成したのはいいのですが、ヘラクレスはエウリュステウスという大王から与えられた課題をこなしていただけだとわかって、アウゲイアス王は牛はやれんと言い出した。すごすごと帰ったヘラクレスに今度は大王が、俺が出した課題で報酬をもらおうとは何事か、と言ってクリアできなかったことになった。とんだ徒労だったというわけです」
「それが麗江古城のシステムに似ている、と」
「ええ。ですがこれ、ヘラクレスが掃除したのは牛小屋ではなくアウゲイアス王の宮廷だったという説があるのですよ。つまり政治改革をして腐敗を一掃したわけです」
「なるほど」
「アウゲイアス王は報酬を払わなかったため、のちにヘラクレスによって攻められ殺されています。つまり政治への参加を約束されていたのを反故にされて怒ったわけです。このエピソードから、英語では『非常に汚れた場所を大掃除する』ことを『cleaning the Augean stables』――アウゲイアスの牛小屋を掃除する、という慣用句になっていて、政治関係でよく使われるんです」
「知らなかった!」
「戦後の日本でも『伏魔殿をアウゲイアスの牛小屋のように大掃除せよ!』という表現が新聞、雑誌、演説で幾度も使われました。松本清張もエッセイで『日本の政界はアウゲイアスの牛小屋、いや伏魔殿だ』と書いているくらいです」
「当時の人にはそれが通じたのですね」
「そうなんです。政治的な『伏魔殿+アウゲイアスの牛小屋』という組み合わせは、実は江戸川乱歩に遡ることかできましてね。『新青年』という雑誌に『伏魔殿』というエッセーを寄せています。昭和の初め頃にすでに、軍部や特高警察の腐敗ぶりを牛小屋の糞にたとえたというわけです」
「また大胆なことを」
「乱歩は特高に睨まれてましたからね。戦後には『戦前の軍部・特高こそ伏魔殿だった』と明言し、GHQによる公職追放・警察改革を『まさにヘラクレスの大掃除だ』と絶賛しました。その本がベストセラーになり、『伏魔殿+アウゲイアスの牛小屋』の組み合わせが一気に全国に広まったのです」
「まったく知らないことばかりです。昔の人は教養が高かったのですね」
AI氏は向こうを向くとうつむいて何度か大きなくしゃみをした。
「大丈夫ですか」とマスター。
「ええ。あと一杯だけ飲んだら帰ります。何かおすすめを」
マスターは養命酒にカンパリを入れたもののお湯割りにシナモンパウダーをかけたカクテルを作るとAI氏に提供した。
「当店オリジナルのカクテル、ディアボリカです」
「おおっ、これは悪魔的だ!」
AI氏は早々にディアボリカを飲み終えるとお勘定をすませて店を出た。
「今日の蘊蓄はなんかまともそうだったな」
「体調が悪かったからかもしれませんね」
そう言うとマスターは、AI氏の坐っていた周囲を念入りにアルコール除菌しはじめたのだった。




