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暗室の灯と夏の写真――彼女の母の初恋を、彼女の父に返すまで  作者: マルコ


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第5話 言葉の練習

夕方の川沿い。

 ベンチの上に、便箋と封筒と、写ルンです。紙袋から出して並べると、風が一度だけ地面を撫でた。


「来てくれて、ありがとうございます」

 新井――悠真は、昨日より背筋が伸びていた。

「……預かっているって聞いて。これ、俺に?」

「はい。道具は単純なほうが、言葉の邪魔をしません」


 便箋を一枚渡し、ペンを置く。

「今日は“語尾の練習”をします」


「語尾?」

「『と思います』を、『思っています』に。

 『たぶん』は、半分に。二つ続いたら、一つ残す。

 自分の言葉を、最後だけ自分のものにする練習です」


 悠真は苦笑して、便箋に向き直った。

 蝉の声が遠のく。川面の反射が、手元の白をわずかに揺らす。


「まず一枚。“来られなかった今日”の手当て」

「……はい」


 さらさら、とペン先が走る。

 “今日は行けませんでした。落ちて、情けなくて、顔を合わせられませんでした。”

 そこで一度、筆が止まる。

 “でも次は、行きます。あなたに会うと、頑張ろうと思っています。”

 語尾を見直し、線で引いて、書き直す。

 “頑張ろうと、思っています”が“頑張ろうと、思っています。”――同じに見えるが、彼の顔つきが少し変わった。


「もう一枚。“次に会いたい理由をひとつだけ”。長くしない」

「ひとつだけ……」

「はい。欲張ると、伝わらない」


 便箋に短い行が増える。

 “あなたが笑うと、胸が広くなるから。”


 書き終えると、悠真はペンを置いた。

 自分の手元を、まるで他人のものみたいに見て、ふっと笑う。


「手紙って、重いですね」

「重いです。だから、短いほど届く」


 封筒を閉じ、宛名は書かない。

 昨日と同じ。俺は主役にならない。


「次は、写真です」

「撮ったこと、ほとんどなくて」

「構図は気にしない。目印を撮ってください」

「目印」

「喫茶店のローズマリー。風鈴。階段の影。――奈緒さんが“覚えているもの”。

 上手い写真じゃなくて、奈緒さんと同じ方向を向いている写真」


 悠真はうなずき、使い捨てカメラの巻き上げを回す。かち、かち、と軽い音が続く。

 ふいに顔を上げて言った。


「あなたは、どうしてここまで」

「返す側だからです」


 返す――その言葉だけで、胸の奥の布がきゅっと締まる。

 暗室の灯の赤。タグの“MINATO”。未着信の数字。


 悠真はそれ以上は聞かなかった。

 静かに頷き、封筒を胸ポケットにしまう。


 その足で喫茶店へ向かった。

 階段の踊り場に、折られたローズマリーの枝が一本。

 奈緒はカウンターの奥で、コースターを拭いていた。目が合うと、彼女はほっとした顔をする。


「来たんだね」

「練習の成果です」


 封筒を、マスター経由で渡す。

 奈緒は席に座り、ゆっくりと封を切った。

 便箋の紙が空気を吸って、かすかな音を立てる。


 読み終えるまで、俺は何も言わない。

 風鈴の音が、二度鳴った。氷の割れる音が、ひとつ。


 奈緒は目を伏せ、指で一度、文字をなぞる。

 それから顔を上げ、笑った。


「……短いのに、ずるい」

「短いほど、ずるいです」

「でも、いい。捨てるための目印も、ちゃんと置いてあった」


 灰皿の隣の小枝を見る。

 奈緒はそれを指先で持ち上げ、俺のほうに見せる。


「これ、次に来たら一緒に捨てる。来られなかった今日は、今日で終わり」


「はい」


 奈緒は立ち上がり、ポスターに目をやる。

 写真コンテスト(フィルム可)。

「ねえ、私もなにか撮ってみようかな」

「ぜひ。上手い下手より、見たという責任が残ります」


「難しいこと言う」

「簡単です。好きの行き先を、写真に預ければいい」


 その言い方が、危うい。

 奈緒は少しだけ頬を赤くし、すぐに表情を整えた。

 間に割って入るみたいに、扉が開いて鈴が鳴る。


「やっほー。賑わってる?」

 さくらが顔を出す。

 俺と奈緒を見比べ、カウンターの端に座った。


「奈緒、今日の合図は置かれてた?」

「うん。あと、手紙」

「読んだ顔だ。短いのに効くやつでしょ」

「うん」


 さくらは水を飲み、俺の手首へ視線を落とした。

 布の結び目。彼女は何も言わず、口角だけで笑う。


「通行人さん。今夜、ちょっとだけ祭りの予行がある。提灯の点検。来る?」

「手が要るなら」

「要る。あと、停電があるかも」

「停電?」

「町内会の配線、古いから。暗いときほど、言葉は見えるよ」


 彼女があっさり言う言葉は、いつも写真の解説みたいだ。


 夜。

 提灯が線のまま空に伸び、オレンジの玉が順番に灯る。

 人はまばら。屋台の板だけが組まれ、試しに焼いたイカの匂いが夜気に細く混ざる。


 悠真が、約束通りにやってきた。

 シャツは皺が少なく、髪は短く整えられている。

 奈緒は遠くから気づき、立ち上がりかけて、待つ練習を思い出したみたいに手を握り直した。


 俺は距離を取り、風鈴の下へ移動する。

 主役にならない。

 そのとき、電灯が一瞬だけ、低く唸った。


「落ちるよー! いったん切る!」

 町内会の人の声。

 ふっと、提灯の列が丸ごと消える。

 闇が、会話の輪郭を浮き上がらせる。


「こんばんは」

 暗がりの向こうで、悠真の声がした。

 事実が先に、出る。

「今日は、来られませんでした。……でも、次は会いたい。あなたに会うと、頑張ろうって思えるから」


 奈緒の息の音が小さく上がる。

 暗闇は、言葉の露光量をちょうどにしてくれる。

 語尾は崩れなかった。


「うん。私も、待つ練習する」

 奈緒の声も、短い。

 いい。二人とも、短いほど届く。


 そこで、ふっと電気が戻る。

 オレンジの光が一斉に膨らみ、彼らの輪郭をやさしく包む。

 さくらがこちらを見て、親指を少しだけ立てた。


 俺は目を伏せ、風鈴の糸を指で軽くはじく。

 音がひとつ。

 ポケットのスマホが、わずかに震えた。


 黒い画面に、暗室の赤が一瞬だけ滲む。

 “ただいま”という吹き出しが、輪郭だけ現れて、消えた。


《存在ノイズ:莉央 96%(維持)》

〈未着信:暗室の灯 6〉


 解散後、提灯の下でさくらが言う。

「通行人さん。今の“停電”、神様の編集みたいだったね」

「編集者は、あなたです」

「いやいや、私は観客。

 ――でも、奈緒の目印をもう一つ増やすといい。音とか」

「音」

「うん。風鈴はあなたに似合う」


 さくらは意味ありげに笑って手を振った。

 俺は風鈴を見上げる。

 音は、写真より早く届き、匂いより長く残る。


 好きの行き先を、言葉だけでなく、音でも導けるかもしれない。

 そう思いながら、布をきゅっと締め直した。

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