第4話 ローズマリーの記憶
翌日、昼下がり。
商店街の端を歩くと、喫茶店の二階から風鈴が鳴った。階段の踊り場に置かれた植木鉢の間で、ローズマリーの枝が陽を飲んでいる。
扉を開けると、鈴。
奈緒がカウンターの奥で、琥珀色のシロップを瓶に移していた。目が合うと、少し意外そうに笑う。
「転ばないで来られたね」
「今日は慎重に」
マスターが氷を割る音が、店の隅で一定だ。
俺は席に着き、便箋と封筒を紙袋から出した。
「お土産?」
「借り物です。言葉の練習に、紙があったほうがやりやすい人もいるから」
「……練習相手?」
「通行人の、今日だけの仕事です」
奈緒は瓶の蓋を閉め、手を拭きながら近づいてくる。
「ねえ。あなた、昨日、私に目印の話をしたよね」
「ローズマリーのことですか」
「うん。変な話だけど、匂いを嗅いだら、ちょっとだけ気持ちが落ち着いた。……誰かを待つって、心臓が忙しいから」
それは、未来の彼女がよく言う言葉と似ていた。
心臓が忙しい――その比喩の向きで、俺は危うさを測る。
「だったら、ひとつ提案が」
「聞く」
「合図を決めるんです。会えたときの“確認”じゃなくて、会えなかったときの“受け取り”。
たとえば、今日来られないなら、ローズマリーの枝を一本だけ、ここに置いておく。次に来たとき、それを一緒に捨てる。――“来られなかった今日”を、ふたりで片づける合図」
奈緒は目を丸くして、すぐに頷いた。
「いいね、それ。捨てるための目印」
「はい。待つ練習は、捨てる練習でもあるから」
彼女は笑って、灰皿の小枝を指で転がした。
匂いが立つ。過去と未来の両方へ伸びる匂いだ。
そのとき、扉が開いて、鈴が二度鳴った。
ショートボブの女性が入ってくる。
「奈緒ー、いる?」
「さくら。ちょうど暇」
「暇じゃない顔してたけど」
三宅さくら。
涼しい目つきで店内をひと巡りし、すぐに俺で止まった。
「……新人さん?」
「通行人です」
「ふーん」
さくらは奈緒と対面に座り、肘をつく。
「奈緒、待ち合わせは」
「今日は来ない。多分」
「多分、の根拠は?」
「練習したって、この人が」
矢印が俺に刺さる。
さくらの視線は、観察というより、測定に近い。
「どこの人?」
「……遠くから」
「遠くって、どのくらい」
「電車で、数駅ぶんくらい」
「今の時刻表で?」
「……そう、だといい」
さくらは、満足げでも不満でもない、無色の顔を一瞬だけ見せた。
水を一口飲み、奈緒へ戻る。
「奈緒。合図の話、いいじゃん。逃したボールを、後から一緒に取りに行くルール」
「でしょ」
「で、その人は“会いたい理由”を言えそう?」
「練習すると言ってた」
さくらは机を指で二度弾く。
「理由はひとつだけ、にしてもらいな。欲張ると、伝わらないから」
俺は、便箋の封を破りながら頷いた。
「同じことを、さっき話していました」
さくらが、もう一度だけこちらを見る。
今度の視線は、同意に近い。
「奈緒はさ、**いい匂いの“余白”**を作るのがうまいから。そこに、誰かは座りたくなるの。
でも、そこに居続けてはいけない人もいる」
言葉の表面は柔らかいのに、刃がある。
俺はうなずき、「はい」とだけ言った。
夕方。
店を出ようとすると、踊り場の植木鉢から風が匂いを揺らした。
階段の途中で振り返ると、奈緒が扉のところに立っている。指先で、布ストラップを見ていた。
「それ、いいね」
「彼女にもらいました」
「……そっか」
沈黙が、踊り場の幅でたゆたう。
奈緒は一歩、俺のほうへ出る。
もう一歩、出ようとして、止まる。
「手、」と口が動く。
彼女の目の奥に、誤解になりうる温度がかすかに灯った。
俺は手首の布ストラップを、ぎゅっと締めた。
その小さな音だけで、身体の向きが決まる。
「奈緒さん」
「うん」
「好きの行き先を、間違えないようにしたいんです。
だから、僕は“返す側”でいたい」
奈緒はまばたきをひとつ。
風鈴が、上で鳴った。
「……うん。そうだね」
彼女は指先を胸の前で組み直し、笑う。
「変なこと言った。忘れて」
「忘れません。捨てます。さっきの合図みたいに」
「捨てる練習、ね」
奈緒は踊り場の鉢からローズマリーを一枝、そっと折った。
灰皿の小枝の隣に置くところを、俺に見せてから。
「今日は、これ」
俺も軽く頭を下げて、階段を降りる。
扉の向こうで、鈴がひとつ。
胸の中では、別の灯が揺れている。暗室の赤、鍵札の“MINATO”、未着信の数字。
ポケットのスマホが震えた。
黒い画面に、写真が一瞬だけ滲む。
指先に巻いた布ストラップのアップ――撮った覚えのないカット。
すぐに、消える。
《存在ノイズ:莉央 96%(警告閾)》
〈未着信:暗室の灯 4〉
針の位置に、背筋が冷たくなる。
今の一瞬は、線から半歩はみ出しかけた罰だったのかもしれない。
その夜。
文具店で買った便箋に、短い文を三つ書いてみた。
“今日は行けなかった(事実)。次は会いたい(感情)。あなたといると、頑張ろうと思える(理由)。”
言葉の順番は、露光と同じだ。光を先に、影を後に。
封筒を閉じる前、ふと手が止まる。
差出人の欄に、名前を書かないほうがいい。
俺は主役にならない。台本だけを渡す。
翌朝、便箋と一緒に、小さな写ルンですを紙袋に入れた。
新井が受け取れるよう、喫茶店のマスターに預けておく。
「若いのはこれだからな」と笑って、マスターは袋をレジの内側にしまった。
「祭りの前に、一度は来ると思います」
「来なかったら?」
「枝を一本、捨ててもらいます」
マスターは面白そうに眉を上げた。
「奈緒ちゃん、ああ見えて律儀だからね。いいルールだ」
夕暮れ。
店を出ると、向かいの空き地で町内会の準備が始まっていた。
提灯の連なりが、まだ電気の入っていない白い玉のまま風に揺れる。
縄を引く手が足りないらしく、俺も一緒に支柱を押さえた。
汗を拭いたとき、視界の端にさくらの姿が入る。
「手、貸してくれて助かった」
「どういたしまして」
さくらは俺の手首の布を見て、ふっと笑う。
「それ、似合う」
「彼女の手縫いです」
さくらは頷いて、提灯のコードを指で解きながら言う。
「ねえ、通行人さん。あなたの“遠く”は、距離のことじゃないよね」
告発ではない。確認でもない。
観察者の、ただの独り言。
「遠くの人ほど、近くにいることがある」
俺はそれだけ答えた。
「へえ。……奈緒を、ちゃんと近くに連れていける?」
「俺じゃない誰かに、連れていってもらいます」
さくらは満足そうに笑い、肩で提灯の棒を支え直した。
「じゃあ、通行人は通行人のままで。奈緒、そういう人のほうが、好きだから」
提灯が一本、灯る。
白い玉が、オレンジに変わる瞬間。
風鈴が遠くで鳴り、夏の匂いが濃くなった。
――光が余る夜まで、あと少し。




