表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
暗室の灯と夏の写真――彼女の母の初恋を、彼女の父に返すまで  作者: マルコ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/13

第3話 待ち人、来ず

バス停のベンチに、薄い紙の履歴書がしわを増やしていた。

 青年はうつむいて、紙の角を折っては戻し、折っては戻しを繰り返している。

 自販機の白い光が、疲れた横顔だけをやたら明るく照らした。


「新井さん?」


 肩がびくりと跳ねる。

 目の奥に、負けを言い出せない人の影があった。


「はい。どこかで……お会いしましたっけ」

「さっきの商店街の喫茶店で。奈緒さん、待ってました」


 彼は笑おうとして、うまく笑えない。

「面接、落ちたんで。今日は……行けないかなって」


 言葉が、膝の上でほどけた履歴書みたいに頼りない。

 俺はベンチの端に座り、布ストラップを手首に巻き直す。


「落ちたから、行けない?」

「……はい」

「それは、“自分の価値が下がった気がするから”?」

「かもしれない」


 金網のむこうで、少年野球の掛け声。

 風がひとつ吹いて、蝉の音が少しだけ薄くなる。


「練習、しませんか」


 青年がこちらを見る。

 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

 ウィングマンは、名刺がいらない。


「二回、言ってみる。

 一回目は、今日行けなかった理由を、正直に。

 二回目は、次に会いたい理由を、ひとつだけ」


 新井はうつむき、口の中で言葉の形を確かめた。

 ローズマリーの香りが、指先にまだ残っている。喫茶店の記憶が、背中を押した。


「……一回目」

「うん」

「今日、落ちて。うまく笑えなくて。行けませんでした」

「いい。二回目」

「次は行きます。あなたに会うと、頑張ろうって思えるから」


 最後の一行だけ、少しだけ声が強かった。

 言い終えた彼の喉仏が、すっと上がる。自分の言葉を、自分で信じる瞬間。


「大丈夫」

 俺は立ち上がる。

「来週、夏祭りがある。そこを“会う”場所にしよう。賑やかなほうが、言葉は楽になる」


「……俺、話すのが苦手で」

「だから練習する。今度は“渡すもの”を用意しよう。手紙でも、写真でも」


「写真?」

 新井は意外そうに目を瞬かせた。

「商店街にポスター、出てました。写真コンテスト(フィルム可)。

 奈緒さんは匂いと記憶で世界を覚えてる人だ。たとえば、喫茶店のローズマリー。

 ――“その記憶をあなたと共有したい”って示すのには、写真は強い」


「でも俺、カメラなんて」

「写ルンですでいい。構図も露出も気にしなくていい。

 “自分が見た”という責任が、写真には必ず残るから」


 青年はしばらく黙って、ベンチから立ち上がった。

 背筋が、わずかに伸びる。


「……やってみます」


 金網の向こう、外野の少年が打球を追いついて、グラブに収めた。

 ポン、と小気味よい音がして、ベンチの空気が少しだけ軽くなる。


「それと、もうひとつだけ。伝える順番を決めておいてください」

「順番」

「“事実”を先に、“感情”を後に。

 『今日は行けなかった(事実)。でも、次は会いたい(感情)』。

 この順番が逆だと、相手は不安を先に受け取るから」


 新井は何度か小さくうなずいた。

 自販機の前に立つ。

「……ここで練習していいですか」

「どうぞ」


 自販機を奈緒に見立てて、彼は深呼吸をひとつ。

「今日は行けなかった。次は、会いたい。……あなたに会うと、頑張ろうって思えるから」

 最後の一行でまた、声に芯が入った。


 俺はうっすら笑って、右手を差し出す。

「通行人の、今日だけの練習相手です」

「新井……悠真です」


 手が触れた瞬間、ポケットのスマホがかすかに震えた。

 黒い画面に、白い粒子が滲む。


 〈帰ってきたら、暗室の灯り、つけておくね〉


 今度は、文字が欠けなかった。

 すぐに画面は暗くなる。


《存在ノイズ:莉央 97%(変化なし)》

〈未着信:暗室の灯 2〉


 息が、少しだけ楽になる。

 正面から“返す”方向へ、舵が合っている。


「夏祭りまでに、一度は顔を出して。短くてもいい。

 “来なかった今日”に、言葉で手当てをしておくと、明日が変わります」


「はい」


 新井は履歴書をきちんと二つに折り、胸ポケットに差した。

「ありがとうございます。……あなたは?」

「ただの通行人。役目が終わったら、消えます」


 風が吹いて、風鈴が小さく鳴った。

 俺は会釈して、その場を離れた。


 喫茶店の前。

 鈴の音が、入る前からこちらを見ているみたいに澄んでいた。

 扉を開けると、奈緒がカウンターの中で片づけをしていた。目が合う。


「さっきは、ありがとう」

「いえ。……新井さん、来ます」


 奈緒の目が、わずかに見開かれる。

「どうして、そう言えるの?」

「練習したから」


 彼女はふっと笑って、前髪を耳にかけた。

 ローズマリーの小枝を灰皿から取り上げ、指で転がす。


「じゃあ、私も練習しないと。ちゃんと、待つ練習」

「たぶん、それがいちばん効きます」


 視線をポスターへ向ける。

 写真コンテストの文字。

「奈緒さん、写真は好きですか」

「見るのは。撮るのは下手」

「よかった。上手い下手は、観る側のほうが面白い」


 奈緒は首をかしげて笑う。

 やわらかい笑いだ。似ている。

 その危うさを、きちんと見張る。


「……お代、置いていきます」

「だから、いらないって。転ばないでね」

「気をつけます」


 店を出る。

 階段を降りきったところで、立ち止まって振り返らないまま言う。


「ローズマリー。きっと、目印になります」


 鈴が、ひとつ鳴った。


 夕方。

 俺は商店街のはずれの文具店で、安い便箋と封筒を買った。

 “言葉の練習”が続くなら、手紙はきっと役に立つ。


 路地を抜けると、空はオレンジが濃い。

 布ストラップが手首にやさしく噛んで、心拍を一定に戻してくれる。


 スマホは黒いままだが、未着信の数字だけは増えている。

 灯りをつけて待つと言った彼女の声が、遠くで静かに燃えていた。


 俺は歩幅を少しだけ広げた。

 主役にはならない。

 台本だけを、渡していく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ