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暗室の灯と夏の写真――彼女の母の初恋を、彼女の父に返すまで  作者: マルコ


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第2話 目覚めた夏

熱い。

 アスファルトが、掌の擦り傷から体温を吸っていく。耳の奥では蝉が水平線みたいに鳴き続け、空は、思い出のなかでしか見たことのない薄い青をしていた。


 ゆっくり起き上がる。

 スマホは黒いまま、鏡みたいに空を映している。電源を押しても、振動ひとつ返ってこない。


「大丈夫? 血、出てるよ」


 影が差して、顔を上げた。

 白いシャツ、涼しい目。目尻の形が、胸の奥に既視感を走らせる。


「救急箱、店にあるの。立てる?」

「……はい。すみません」


 肩を貸され、古い商店街の鉄階段を上がる。二階の喫茶店。扉の上で、鈴がやさしく鳴った。


「マスター、救急箱借ります」

「おう、奈緒ちゃん。……お客さん、転んだのか」


 奈緒。

 音の並びが、心臓をつまむ。宮本 奈緒。

 玄関で一度だけ会ったことがある。未来で――彼女の母として。


 消毒がしみる。

「ごめん、ちょっと痛いかも」

「大丈夫です。ありがとうございます」


 テーブルの片隅、ガラスの灰皿にローズマリーの小枝が置かれている。

 匂いが立つ。暗室帰りの指先から抜けるまで残る、あのハンドソープと同じ香り。


「観光?」

「……迷子みたいなものです」

「この辺、目印少ないからね」


 奈緒が笑って、前髪を耳にかけた。

 その仕草に、別の時間が揺れる。

 応じない。

 胸の中で、短く言い直す。


 包帯をとめる奈緒の指先が、ふと止まる。

「名前、聞いてもいい?」

「藤川……湊です」

「湊くん。いい名前」


 その瞬間、ポケットの中でスマホがかすかに震えた。

 黒い画面に、白い粒子がざわめき、欠けた文字が一行だけ浮かぶ。


 〈帰ってきたら、暗室の灯り、つけてお……〉


 ノイズが走り、文字は霧みたいに消えた。


《存在ノイズ:莉央 99% → 98%》

〈未着信:暗室の灯 1〉


 喉の奥がきゅっと狭くなる。

 今の一瞬は、選択の誤差に対する警告だ。


「……顔色、悪い?」

「少し、立ちくらみが」

 言い訳の角度を最低限に保ち、俺は深呼吸をひとつ。

 奈緒の手が、包帯の端を整える。ほんの少し、頬が赤い。


 誤解をほどく言葉は、早いほどやさしい。

「助けていただいて、ありがとうございました。――誰か、待ってるんですか」

「え?」

「さっきから、扉のほうを見ていたので」


 奈緒は一瞬、驚いた顔をしてから、笑ってうなずいた。

「……うん。午後に。就活、うまくいってない人でね。顔、見たら元気出るかなって」

「きっと、出ます」


 俺は立ち上がり、深く頭を下げる。

「長居するとご迷惑なので。お代、置いていきます」

「いらないよ。転ばないでね」


 その言い方が、未来の彼女と同じ方向から降ってくる。

 似ていることが、こんなにも危うい。


 扉を開ける。鈴がひとつ。


 階段を降りかけて、振り返らないまま言う。

「ローズマリー、いい香りですね。記憶に残ります」

「え?」

「きっと――誰かの、目印になる」


 階下の路地に夏の匂いが濃くて、蝉の声が近い。

 ポケットのスマホは、もう何も映さない。


 商店街の角の掲示板に、夏祭りのポスターが貼ってある。

 大きな丸文字で日付、下段に小さく写真コンテスト(フィルム可)。


 呼吸が整うまで、ポスターの端を指でなぞる。

 未来で交わした約束が、遠くで灯っているのを感じる。


 まずは、状況を確かめる。

 ここが2004年前後であること。奈緒が宮本姓であること。昼過ぎに**“誰か”**を待っていること。

 そして、俺がここでやるべきことは、ただひとつだということ。


 応じない。

 返す。

 好きの行き先を、正しい人へ。


 風鈴が、風に細く鳴った。

 顔を上げる。通りの向こう、バス停に腰を下ろした青年が、履歴書の紙の角をいじっているのが見えた。

 前髪が目にかかり、姿勢は少し猫背。自販機の明かりが、白く反射する。


 ――待ち人、かもしれない。

 俺は布ストラップを手首に巻き直し、ゆっくり歩き出した。

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