第13話 さよならの朝/暗室の灯
祭りの夜がほどけて、空は一段浅くなった。
提灯の赤は電源を抜かれて白に戻り、屋台の骨組みだけが通りに残る。風鈴は湿り気を失い、鳴らさないで朝の風を受けた。
喫茶店の二階。
奈緒と悠真は、並んで提出票の控えを眺めていた。
作品名:灯をつけておく。
文字はまだ濡れているみたいに新しい。
「ありがとう」
奈緒が、そう言って、鳴らさない。
悠真は「逃げません」と短く返す。
二人の言葉は、もう隣り合っていた。
俺は、写らない場所から階段の結び目を確かめる。
返す側は袖にいる。
さくらが近づいてきて、小声で言った。
「通行人さん。ここからは、観客の拍手に任せよう」
「任せます」
「——それと、帰り道は自分で選んで」
短くうなずく。布をきゅっと締めた。
朝の片づけが一段落したころ、城戸が三脚を抱えて現れた。
目に悔しさはなく、笑い方の角度は少し丸い。
「匂いと音と短い言葉、勝てないな。いい夜だった。——“灯”、いい名前だよ」
「ありがとう」
奈緒が笑い、鳴らさない。
城戸は手を振って、「またどこかで」と言い、通りへ消えた。
マスターが氷を割る。
さくらは冊子の残りを束ね、俺に一冊だけ手渡した。
「観る練習、お土産。——“通行人”にも必要でしょ」
「はい」
踊り場のローズマリーを一本、奈緒が折る。
灰皿の隣に置いて、指先で香りを確かめる。
「来られなかった昨日、これで捨てる。今日は、置かない」
俺はうなずいて、結び目を見上げた。
風鈴は鳴らない——来られている日の印。
ポケットのスマホが、静かに震えた。
黒い画面に、赤い灯が滲む。
吹き出しがふたつ、はっきり現れて、消えない。
〈ただいま〉
〈灯り、つけておくね〉
《存在ノイズ:莉央 99% → 100%》
〈未着信:暗室の灯 16 → 0〉
胸の奥で、どこかの歯車が小さく噛み合う音がした。
針は戻り、数字はゼロになった。
通りの角まで歩いたところで、さくらが肩を小突いた。
「ねえ、通行人さん。写らない場所、忘れないで」
「忘れません」
彼女は満足そうに頷き、冗談みたいに真面目な顔で言った。
「おかえり」
風が吹き、短冊が一度だけ、音もなく揺れた。
布をきゅっと締めた瞬間、手首に引かれる感覚が返ってきた。
最初にここへ来たときと、同じ方向。
視界がうすく白に伸び、音が遠のく。
階段の鉄の匂いとローズマリーの香りが、重なってほどける。
赤い光が戻ってきた。
薬液の匂い、ぶくぶくという泡の音。
市民センターの共同暗室。
扉の内側に、君——新井莉央が立っている。
手元のトレーに集中していて、顔を上げたとき、目がほどけた。
「……おかえり」
声はいつもと同じ低さで、いつもより少し慎重だった。
俺は喉の奥で息を整え、言葉を置く順番を確認してから、言った。
「ただいま」
それだけ。短いほど届く。
莉央は笑い、タオルで手を拭いてから、小さな包みを差し出した。
布ストラップの補修用の糸と針、そして、小さな金具。
「ほつれてたら、繋ぎ直せるように。それと——」
暗室の鍵。タグには手書きで“MINATO”。
「遅くなる日は、灯り、つけておくね」
「うん。ちゃんと言う、“ただいま”」
「うん。ちゃんと返す、“おかえり”」
赤い灯が、静かに世界の輪郭を甘くする。
存在ノイズは、もうどこにもなかった。
数日後。
莉央の実家に挨拶へ行った。
玄関の匂いは、ローズマリーと糊。リビングの棚に、アルバムが並んでいる。
「昔の写真、見る?」と莉央の母——宮本奈緒が笑って持ってきた。
ページをめくる。
2004年の夏。
商店街の写真コンテストの掲示板を背景に、若い二人が写っている。
作品名『灯をつけておく』。
ピントの外に、通りすがりの後ろ姿が小さく写っていた。
手首に巻いた、布の織り目だけが、妙にくっきりしている。
「これ、好きなの」
奈緒が笑う。
「正解の外側がいちばん面白い、って誰かが言ってた」
莉央は俺を見て、目尻だけで笑った。
「うん。私も、そう思う」
アルバムを閉じる。
写らない場所に、きちんと誰かがいた。
それで十分だ、と胸の奥が静かに言った。
帰り道、夕立のあとでアスファルトが濡れていた。
信号待ちの青の手前で、莉央が二回だけ、手首の布を軽く引いた。
合図の重さが、ちょうどよかった。
「ねえ、夏祭り、今年も行こう」
「うん。光が余る夜、ね」
「タイトル、考えとく?」
「もう決めてる」
「なに?」
「灯をつけておく」
莉央は笑って、「ずるい」と言った。
風が吹いて、どこかの家の風鈴が二回だけ鳴る。
短い言葉と、短い音。
それだけ持っていけば、十分だ。
(完)
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
**『暗室の灯と夏の写真——彼女の母の初恋を、彼女の父に返すまで』**は、
「応じない」「返す」という逆張りの恋物語でした。
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