第10話 父の一歩
朝、雨は上がっていた。
商店街の舗道に水たまりが点々と残り、提灯の白が逆さに浮かぶ。風鈴は乾ききらず、低めに二度だけ鳴った。
喫茶店の二階。
奈緒がモップをかけ、マスターは氷の補充。さくらは**『観る練習・小さなワーク』**の冊子を入り口に重ねる。
「今日、観客席は満員にする」
「観客席?」
「ここ全部。見る人が増えるほど、過剰な演出は逃げ場がなくなるから」
踊り場の鉢のローズマリーが陽を吸う。
そのとき、鈴。
悠真が、早い時間に現れた。髪は短く、シャツは昨日より皺が少ない。胸ポケットの上から、写ルンですの角が当たっている。
「来られました(事実)。……会いたかったから(感情)」
順番は崩れない。
奈緒が笑うと、彼は一歩だけ前に出た。
「お願いがあります。今日の俺を、先に撮らせてください」
奈緒の眉が少し上がる。
「自分にピント合わせてからじゃないと、あなたをぶれる気がして」
言い切った語尾に、芯があった。
俺は布をきゅっと締め、頷く。
「鏡が要りますね」
「商店街のガラス戸で十分です」とさくら。
「映り込みの自分は、優しい」
通りに降りる。
青いテントの下、店のガラス戸に二人分の影が乗る。
悠真は距離を測り、写ルンですを構えた。
「——いまの俺を、嘘じゃないかたちで残します」
巻き上げ、息、シャッター。カシャン。
次に、少しだけ笑う。
もう一枚。
事実を先に、感情を後ろから添えるみたいに。
奈緒がガラス戸の横顔で、ゆっくり頷いた。
「自分の顔、嫌いじゃない気がしてきた?」
「まだ、得意ではないです。でも、逃げません」
その言葉に、胸の奥で小さな音が跳ねた。
返す側の手応えだ。
通りの端、三脚を肩に城戸が通り過ぎる。
「朝から熱心だね。屋上、光、通るよ」
奈緒は風鈴を二回だけ鳴らし、言葉を整える。
「今日はここで、待つ練習をします」
城戸は肩をすくめ、「観客が増えるのはいいこと」とだけ言って去った。
《存在ノイズ:莉央 96% → 96%(維持)》
〈未着信:暗室の灯 11〉
昼前。
店内で**『観る練習』**がまた始まり、近所の人たちが10秒の沈黙に耳を澄ます。
“風鈴/氷/喉仏”。
短い文がテーブルに積もっていき、同意文の雛形が身振りのように共有される。
その合間に、俺は悠真に小さな台本を渡した。
——順番:事実→感情。
——長さ:50字以内。
——場所:階段の中段・風鈴の真下。
——合図:鳴らさない(来られた日の証)。
——渡すもの:一枚の写真/一枚の手紙。
悠真は台本の端を折り、胸ポケットにしまった。
「大丈夫です。……逃げません」
語尾が固い。自己否定の影が一段薄く見えた。
午後。
準備の人出が増え、屋台に灯りが入り始める。金魚桶の水面に提灯の赤がぶれて、光が余る夜の気配が路地に溜まる。
奈緒は店の前で、短冊の結び目を整えた。
指先が少し震えている。
俺は半歩離れた位置から、静かに言う。
「合図は鳴らさない。今日は来られているから」
「うん。知ってる」
奈緒は笑い、踊り場の鉢からローズマリーを一本折った。
「来られなかった昨日は、昨日で捨てる」
灰皿の隣に置いて、指先で香りを確かめる。
さくらが横から冊子を一冊差し出す。
「奈緒、同意文の清書、ここで。字、綺麗だから」
「緊張する」
「短いから大丈夫。守る言葉は、短い」
奈緒はペンを取り、紙の上で静かに線を運んだ。
“被写体 宮本奈緒は、本写真の撮影および応募に同意します。”
署名。日付。
今日が、紙に沈む。
そのとき、ポケットのスマホがかすかに震えた。
黒い画面に、赤い灯が滲む。
吹き出しが二つ、重ならずに現れて——今度は読めた。
〈ただいま〉
〈灯り、つけておくね〉
《存在ノイズ:莉央 96% → 97%(回復)》
〈未着信:暗室の灯 12〉
息が深くなる。
針が、確かに戻っている。
夕方。
商店街に音が増える。試しの太鼓、屋台の油の弾ける音、金魚すくいの水が小さく寄せ返す。
提灯の列が線から面へ。空気に色がつく。
さくらが耳打ちした。
「通行人さん。写らない場所、決めといて」
「階段の陰、三段目の影」
「了解。観客、目を澄ませる」
奈緒が一度、深呼吸をし、風鈴を見上げる。
鳴らさない。
——来られている日の証。
そこへ、城戸が屋上へ向かう影を残して通り過ぎた。
光を作る準備の足音が、遠くの鉄骨で跳ねる。
観客は、もう下に集まっている。
見る側が育った場は、作り物に冷たい。
悠真が階段の下に立った。
胸ポケットに薄い封筒。指先に一枚の写真。
目は逃げず、息は浅くない。
俺は陰に退く。布をきゅっと締める。
返す側は袖にいる。
「こんばんは」
悠真の声。事実が先に来る。
「来られました。あなたに会いたかったから」
短い間。
「これ、今日の俺です。逃げない顔に、少しだけ近づけたと思う」
写真が一枚、奈緒の手に渡った。
ガラス戸に映る自分の顔が、少しだけ笑っている。
奈緒はそれを見て、胸の前で指を結び、笑った。
「うん。——一緒に、明日を観よう」
言葉が、雨上がりの空気に柔らかく沈む。
階段の陰で、俺は目を閉じた。
風鈴が鳴らないことが、こんなにも心強い。
解散の間際、さくらが肩を小突いた。
「明日、あなたはどこに立つの?」
「写らない場所。でも、音は渡す」
「二回、だね」
「今日は鳴らさない」
「いい。観客、目も耳も準備できた」
城戸の足音が屋上から遠ざかる。
照明の試験の白が一度だけ空を撫で、すぐに消えた。
作り物は、観客が見張っている。
風が通り、ローズマリーの香りが薄く伸びる。
俺は布ストラップを締め、短冊の結び目をもう一度固めた。
明日は、祭りだ。




