第5章 「“聖人”と呼ばれはじめた日──噂は静かに広がっていた」
朝。
いつものように、ガマータが厨房から皿を持ってやってくる。
「先生、今日のツマミは“塩トカゲの蒸し煮”。胃に優しいやつだ」
「なんで朝から“トカゲ”なんだよ……」
「昨日の常連さん、ちょっと泣いて帰っただろ。
ああいう日は、塩分とやさしさが足りねぇ」
「……ガマさん、なんだかんだで気ぃ遣ってくれてるよな」
「言ったろ? オレは“肴で救う”料理人だってな」
俺は思わず笑った。
酔いどれベンチも、このガマの肴がなきゃ成立しない。
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その日、ギルドの空気が少し変だった。
受付のアルが、書類を持ってきながらぽつりと言った。
「先生、なんか最近“酔いどれさんの席”が、“聖域”って噂になってますよ」
「聖域?」
「“酒を一口飲むだけで、心の重荷が軽くなる”──
“あそこに座れば、なぜか泣ける”──
“聖人様が話を聞いてくれる”──って」
「なんだその……怪談?」
「いえ、“奇跡の座席”って呼ばれてるらしくて。
昨日も初めて来た新米冒険者が、いきなり“悩み聞いてください!”って叫んでましたし」
「……いやそれはただのカウンセリングだろ」
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そのときだった。
ギルドの扉が開き、見慣れた赤髪が飛び込んできた。
「先生! 大変!」
ラキアだった。
「ちょ、ちょっと聞いてよ! 街の掲示板に──
“聖人がいるギルド”って書かれたビラが貼られてるの!」
「は?」
ラキアが持っていた紙をひったくるように読んでみると──
> 【話題沸騰!】
> 泣ける、不思議と許される、心が軽くなる!
> 噂の“酔いどれ聖人”が座る椅子は、本当に奇跡を起こすのか!?
> 目撃者の証言:
> 「話を聞いてもらっただけで、不安が消えた」
> 「涙が止まらなくなった。だけどスッキリした」
> 「酒が……心に沁みた」
>
> ※場所:ギルド西側荷物置き場、午後以降に出現。
「……ちょっと待て。誰がこんなことを……」
「たぶん、あの神官のお姉さんじゃないかな。
帰り際に誰かに聞かれて、“あそこは聖人の座る席”って……」
「リース……」
想像はつく。
リースのような立場の人間が言えば、それだけで“重み”が増す。
でも、それが広がってしまえば──
「これから、“聖人”として話を聞かれることになるよ、先生」
ラキアは、どこか面白がるように笑った。
「大丈夫? これからは“ただの酔いどれ”じゃいられないかもよ?」
「……俺は、聖人でもなんでもない。
ただ、酒出して、話聞いてるだけの……」
「でも、それで誰かが救われてるなら──そのままでいいじゃん?」
その言葉に、少しだけ胸が締めつけられた。
“聖人”なんて、そんな器じゃない。
けど、少なくとも──
「今日も、ここに座ってくれた誰かが、少しでも楽になるなら」
それだけで、続ける理由にはなる。
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その日、席には絶え間なく人が訪れた。
誰もが何かを抱えて、
少しだけ酔って、
ほんの少し笑って、
ありがとうとだけ言って帰っていく。
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夜、席の片隅でひとり酒を飲んでいると──
「……先生、やっぱり疲れてる」
アルがそっと隣に座って、俺の手に湯を差し出す。
「ここ、ただの“酒席”じゃなくなってきてる。
でも……私は、そういう先生も、嫌いじゃないですよ」
「ありがとう」
「……でも、約束してください。
“自分を犠牲にしないこと”。それが破られそうになったら──
私、止めに入りますから」
彼女の笑顔は優しかったけど、目だけが本気だった。
“聖人”の肩書が、俺の背中を重くする。
それでも──
今日、誰かが救われたなら、それでいい。