第3章「神に仕える女と、一杯の赦し」
ギルドに、“異質な空気”が流れたのは、ちょうど日が傾き始めた頃だった。
その女は、静かに扉を開け、まっすぐに歩いてきた。
金糸のような髪を結い上げ、清楚な白銀の神官服に身を包むその姿は、まるで聖女そのもの。
背筋を伸ばし、顔は凛としていて、気品のある美貌──
それなのに、なぜかその瞳だけが、深く曇っていた。
「……そなたが、“異端の杯”を振るう者か」
ギルドの片隅、“酔いどれベンチ”に腰を下ろす俺に、彼女はまっすぐ視線を向けてきた。
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「えっと……お初にお目にかかります。」
「その余裕ぶった態度、滑稽だな」
「あまり褒めないでくれ、酒の回りが早くなるじゃないか」
「真面目に答えよ。貴様、“酒”なる穢れの液体を、人々に与えていると聞いた」
「”酒”が穢れね、、間違っちゃいないんだけどね」
彼女は名を”リース・セラフィア”と名乗った。
スオミア教会・聖堂女官。
教団内では“若きカリスマ”と称され、将来を期待される存在だという。
そんな彼女が、なぜこんな場所に?
……その疑問は、彼女の瞳を見てすぐに理解できた。
リースは、追い詰められていた。
周囲からは“完璧な聖女”を期待され、
信者からは“揺るがぬ象徴”として崇められ、
上層部からは“政治の道具”として扱われていた。
誰にも何も、言えなかった。
誰にも何も、吐き出せなかった。
「神の言葉に背くなど、許されない……そう教えられてきた。
けれど……けれど私は、信じた神に、今、試されている気がする」
「……それで、来たのか?」
「噂を聞いた。人々が、貴様の酒で救われていると。
ならば、私も……救われるか、壊れるか、どちらかだ」
静かに、だが震える声でそう言った。
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俺は黙って掌を差し出し、《酒精掌》を発動する。
──そっと香るのは、ハチミツとバラのリキュール。
アルコール度数は低め。
初めての者でも安心して口にできる、優しい甘さの酒だ。
銀のカップに注ぎ、差し出す。
リースは躊躇した。
震える指で、ゆっくりとそれを受け取り──
ごくり、と喉を鳴らした。
「……」
何かが崩れた音がした。
彼女の肩が、わずかに落ちた。
「こんな……温かいのか、酒とは……」
「温かいし、弱い人間にとって、ちょっとした救いになる」
「……だめだ。涙が、止まらない」
言葉とともに、彼女の頬を大粒の涙が伝う。
「私は、“神に従う者”として生きてきたのに……
誰にも頼らず、誰にも見せず……ただ“正しさ”だけを握りしめて……
……でも、本当は、もう限界だったんだ……!」
初めて、“聖女”ではなく“ただの一人の女性”として泣くリースに、
俺はそっともう一杯、同じ酒を注いだ。
「今日は泣いていい日だ。そういう場所だ、ここは」
「……ありがとう」
カップを両手で抱きながら、彼女は小さく囁いた。
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それから一時間ほど、
リースは子どものように泣き、
初めて他人に“弱さ”を吐き出し、
そして最後に、少しだけ笑った。
「貴様は……いや、あなたは……罪深い人だ。
でも、同時にとても……優しい人でもあるのですね」
「そりゃどうも」
「また……来てよいですか?」
「もちろん。今度は、もう少しアルコール強めにするか?」
「……考えておきます」
金の髪を揺らしながら、彼女は静かに去っていった。
その背中は、来た時よりほんの少しだけ、軽くなっていた。
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「……女神様、すっかり落ちてたね」
ガマータがニヤニヤしながら料理皿を片づけていく。
「そんなつもりじゃないよ。あれは、ちょっと疲れてただけだ」
「でも、先生の酒と話が、ちゃんと届いたんでしょ?」
「……なら、よかった」
──けれどその夜。
またしても視界がふわりと揺れた。
光がちらつき、耳が微かに鳴る。
「……やっぱ、使いすぎかな」
「……また、無理してる」
背後から声がする。
受付嬢のアルが、そっと湯を差し出してくれた。
「あなたが飲ませるたびに、何かが少しずつ削られてる。……私は、気づいてますよ」
彼女の手は、かすかに震えていた。
でも、俺はその言葉に微笑んで答えた。
「それでも、今日あの人が救われたなら……もう少しだけ、続けてもいいだろ」