第1章「泣き虫女剣士と、はじめての“人生相談”」
ギルドの片隅に置かれた、古びた木のベンチ。
本来は荷物置き場だったそのスペースを、俺は勝手に“酒席”にして使っている。
「よぉ、今日は干し茸のバター炒めだ」
皿を置いてくれたのは、料理担当の”ガマータ”。.
丸太のような腕と、腹の出たシルエット。優しげな目に、いつもの笑み。
「ガマさん、いつもありがと。じゃ、今日も熱燗で……」
手を差し出せば、掌の中にじんわりと湯気が立ち上る。
陶器の徳利とお猪口が自然に揃い、まるで昔の居酒屋のような香りが漂う。
これが俺のスキル──”《酒精掌》”。
どんな酒でも自在に出せる、唯一無二の能力だ。
……が、この世界には“酒”という概念がない。
アルコールを摂取するという文化そのものが、根本的に存在しない。
だからこそ、この“酔いのベンチ”はごく限られた者だけが知る、秘密の場所だ。
「……ねぇ、ここって……その、飲めるの?」
その声は、迷いの中にあるか細い希望のようだった。
振り返ると、赤髪の女剣士が立っていた。
冒険者装備に身を包み、背中には大ぶりの剣。
けれどその目は、まるで戦場帰りの兵士のように、疲れ切っていた。
「……あぁ、一杯だけなら。成人はしてるんだろ?」
「うん、ちゃんと成人。……たぶん」
「“たぶん”ってなんだよ」
「……ごめん、冗談。ちゃんと成人してるよ」
彼女は、ベンチの端におそるおそる腰を下ろした。
「ラキアって言うの。Cランクでのとあるパーティの剣士……だった」
「だった?」
「今日、パーティ追い出された。理由は……“空気が悪くなる”って」
「……」
「私、そんなに何かした? 声が大きいのが悪い? 仕切ろうとしたから?
“役に立ってない”って言われたけど、ちゃんと斬ってたし、回復薬も配ってた。
それでも、“いない方がいい”って……」
彼女の声が震えた。
でも、泣かない。
それが余計に痛ましかった。
「……じゃあ、飲んでみるか?」
俺はそっと手を差し出し、心の中で“軽い白ワイン”をイメージした。
微かに酸味のある、優しいやつ。
お猪口がふたつ、静かに並んで出現する。
「これが……酒……?」
彼女は目を見開いて、それを一口、すするように口に含んだ。
「……あっ」
ふっと、肩の力が抜けたようだった。
目元が潤んで、少し赤くなる。
「なにこれ……なんか、喉があったかい……胸の奥が……変な感じ……」
「酔いってやつだよ。まだ少しだけど、慣れない人はすぐまわる」
「ううん、すごく……心地いい……
なんでこんなもの、禁止されてるの?」
「それはたぶん、楽になりすぎるからだろうな。
“頑張らなきゃいけない世界”には、不都合だから」
ラキアは、それを聞いて笑った。
今度こそ、ちゃんとした“苦笑”だった。
「……ねぇ、“酔いどれさん”」
「ん?」
「私、生きててもいいのかな」
その言葉に、俺はすぐに答えることができなかった。
自分が、同じ問いをずっと抱えていたから。
「……俺も、酒に逃げて死んだ人間だよ。
どういう訳だかこの世界で生きているけどな。
でも、こうして誰かが一杯飲んで笑ってくれるなら、生きててもいいかなって、最近やっと思えるようになった」
「……そっか」
ぽろり、と音もなく涙がこぼれる。
ラキアは慌てて袖で目を拭った。
「酔ったせいだよ。……なんか、すごく泣きたい」
「泣け。今だけは泣いていい」
彼女は、嗚咽をこらえながら、小さな声で「ありがとう」と呟いた。
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「……先生、使いすぎ」
そう言って、そっと湯を差し出してくれたのは、受付嬢の””アールティ””こと通称”アル”だった。
彼女は俺の隣に膝をつき、笑顔のまま俺の手をそっと握った。
「先生の“手”、ちょっと熱い。……今日はここまででしょ?」
「……うん、わかった」
俺は深く息を吐き、手を下ろす。
酒精掌の力。
それを使うたびに、身体の芯がわずかに重くなる気がしていた。
でも、きっと気のせいだろう。
少し疲れたくらいで、誰かが救われるなら、いいじゃないか。
少なくとも、今の俺には……“酒が与えてくれる何か”が確かにある。
その日、ラキアはギルドを出るとき、少しだけ背筋を伸ばしていた。
「また来ていい?」
「あぁ、いつでもおいで。ここで飲んでるだけだからな」
そう言うと、彼女は照れたように笑った。
それは、ほんの少しだけ希望を取り戻した者の顔だった。