「俺にとっての“聖水”は、ストロングだった」
東京都葛飾区。
築42年のアパートの一室に、俺──**三島敬一**は暮らしていた。
仕事は広告営業。年収420万、彼女なし。年齢、39。
……まあ、いわゆる“人生詰みかけのおじさん”だ。
「ただいまー……って、言っても誰もいねーけどな」
狭いキッチンで、冷蔵庫を開ける。
取り出したのは、いつものやつ。
ストロング系チューハイ、350ml、9%の炭酸入り。
プシュッと缶を開ける音は、まるで“おかえり”の代わりみたいだった。
ゴクリ、ゴクリ。
胃の中が熱くなり、視界がわずかに揺れる。
「……あぁ、今日もなんとか生き延びたわ」
会社じゃ、今日も上司に怒鳴られた。
「やる気ある?」「空気読め」「また君?」──もはや耳タコ。
後輩には舐められ、同僚には遠巻きにされ、親には3年連絡していない。
唯一の心の支えが、この“液体”だった。
気がつけば、もう5年。
朝も昼も夜も、酒を飲まないと手が震えるようになっていた。
その日も、部屋に帰ってストロングを4本空けたところで、
俺の身体が、突如として崩れるように床に倒れた。
吐き気。眩暈。冷や汗。
天井のシミが、ぐにゃりと歪む。
「……あ、やばいな。これ……」
心臓の鼓動がどんどん早くなる。
脳が、身体が、“もう終わりだ”と告げている。
……でも、不思議と怖くはなかった。
むしろどこか、ホッとしていた。
やっと“休める”気がして。
「もう、朝なんて来なくていい……」
そう呟いて、俺は静かに意識を手放した。
次に目を開けたとき、俺は真っ白な空間にいた。
光に満ちた空間の中心に、
妙に陽気な笑みを浮かべた中年男が座っていた。
和服姿、赤ら顔。片手には徳利。もう片方には串焼き。
「やあやあ、お目覚めですか三島敬一くん。キミ、見事に“酒で死んだ男”として天界ランキング上位に食い込んだよ」
「……は?」
「私は天酔神。つまり“酒の神”さ。
そんなキミをね、異世界にスカウトに来たってわけだ」
「……転生モノ? マジで?」
「うむ。だが、転生先には“酒”という文化が存在しない。
“酩酊”は罪、アルコールは毒、酒場という概念すらない。
そこに、君を送り込む!」
「ちょっと待てよ!? 拷問じゃん、それ!!」
「もちろん! だからこそ、君に特別な能力を与えよう。
その名も《酒精掌》──
手から自由に、あらゆる酒を出すことができる力だ!」
「おお……それ、最高のスキル……!」
「ただし、この力には“代償”がある」
「……えっ?」
「それについては……まあ、使っていけばわかるさ。
君には“おだやかに、酔わせて、癒す”という人生を送ってもらう。
もう“消費”される側じゃない。“与える側”として生きてみたまえ」
「……ただし、キミの力を安定して使うには、“補助器官”が必要になる。
安心しろ。この世界に、既に三人の“支え”を送り込んである」
そう言うとグラッパ神は、やたら明るく笑った。
「君の行く先には──“酒の香りに救われる者たち”が、待っているから」
そして俺は、異世界《スオミア王国》に転生した。
冒険者ギルドの隅に“荷物置き場”として与えられたスペース。
そこに俺は、ただの“酔いどれスペース”を作った。
木のベンチに、手作りの樽。
魔法でもなんでもなく、ただ手から出した酒を振る舞い、
ぼそぼそと人の愚痴を聞く毎日。
──いつからか、そこは「癒しの聖域」と呼ばれるようになっていた。
「……あの人、話を聞いてくれるだけで、なぜか心が軽くなる」
「飲んだ酒は、身体の芯まで温かくなる……」
「聖人様って、本当にいたんだね……」
気づけば、
俺は“聖人”と呼ばれていた。
でも本当はただ、
誰かの「今日もお疲れさま」を、俺自身が欲しかっただけなんだ。
今日も、ギルドの隅に人が集まってくる。
話をしに。泣きに。怒りを吐き出しに。
そして、ちょっとだけ酔いに。
グラッパからの使いで
支えてくれるのは、
料理上手な太っちょおじさんガマータ(通称:ガマ)、
受付嬢で聞き上手のアールティ(通称:アル)、
寡黙な医療戦士エイスト(通称:エイスト)。
彼らがいなければ、俺はたぶん、
またどこかで酒に溺れて、心まで死んでいただろう。
「初めて会ったはずなのに、なんだろう……どこか懐かしい。
まるで“俺のことを知っている”ような目をしていた──」
でも今の俺は、
“誰かの一杯”になれている気がする。
それだけで、もう少しだけ、生きてみたいって思えるんだ。