悪役令嬢の復讐
「ちょっと、まだ終わらないの!?」
大陸歴1302年。
帝都の夜。
帝立学院学生寮の一室で、レナル公爵家の令嬢クレアが従者のミゲルを罵倒しております。
彼女はミゲルに、自分に出された学院の課題をやらせているのです。
「すみませんお嬢様、今日のはちょっと難しくて……」
「言い訳する暇に少しでも進めなさいよ、グズなんだから!」
言うだけ言って、彼女は自分の机に向かいました。ペンを握り、サラサラと文章をつづります。
「新作の原稿ですか?」
「明日の朝まで仕上げなくちゃならないのよ」
クレアは帝国最大の公爵家のご令嬢であり第三皇子の婚約者、更には若き流行作家でもあるのです。
彼女が紡ぐ悪役令嬢の物語を、帝都中のご令嬢方が待ちこがれているのでした。
「今夜は徹夜になるわね」
「お茶でも淹れましょうか?」
「余計なお世話よ、あんたは宿題に集中してればいいの!」
多忙な小説家のクレアにはとても学院の課題まで手が回らない、ということでいつもミゲルに丸投げしているのでした。
貴族と平民とでは教室が分かれているため、彼は毎日2人分の課題をこなす羽目になるのです。
にも関わらず、学院でのクレアの成績はとても優秀なものでした。定期試験では常に学年次席に就けているのです。
一体いつ勉強しているのだろう、と不思議に思うミゲルなのでした。
「何ぼーっとしてるのよ、そんな余裕あるの!?」
「はい、ただいま」
罵倒され、理不尽な扱いを受けつづけても、ミゲルは女主人を嫌いにはなれません。
きっとこれは彼女なりの復讐なのだろう、と納得してしまうのです。
クレアとミゲルの関係は、見かけほど単純ではありません。これは公爵家の者しか知らない秘密ですが、2人は血のつながった実の兄妹なのです。
スタン帝国有数の大貴族であるレナル公爵家。その当主であるクレアの父が屋敷のメイドに産ませた庶子、それがミゲルなのでした。
♢
大陸歴1292年。
ミゲルが8歳の時、母が亡くなりました。
公爵の子として認知されていなかったミゲルは、幼いながらも食べていくため、母に代わって公爵家の従者となり働かねばなりませんでした。
彼が公爵の落とし胤ということは、屋敷では公然の秘密でした。
公爵の子供たちは彼を白い目でみましたが、ただひとり、末子のクレアだけは例外でした。
「おにいさま、あそびましょ!」
わずか3ヶ月早く生まれただけのミゲルを、「おにいさま」と呼んで慕うのでした。他の兄弟たちは皆歳が離れていたため、自分に近い兄ができてうれしかったのでしょう。
そんな風に懐かれて、ミゲルも悪い気はしません。2人が親密になるまで、時間は要しませんでした。
「わたし、大きくなったらおにいさまのお嫁さんになる!」
そんなことまで言われ、ミゲルはどきまぎしてしまいました。
「お嫁さんって、クレア、それはね……」
「なるったら、なるの!」
たわいない子供の戯言ではありますが、言われた方はそう割り切れません。
この頃からクレアはすでに、帝都で噂にのぼる程美しい少女でした。白皙の肌に紅玉のような瞳、なめらかな銀髪が風になびけばまるで妖精といった風情です。
相手は主家のお嬢様、しかも自分と血のつながった実の妹です。決して叶わないとわかっていても、ミゲルは彼女への淡い想いを打ち消すことができませんでした。
さて、急速に親しくなっていく2人を苦々しく見ていたのが、クレアの母親である公爵夫人です。
公爵は恐妻家でした。元々婿養子としてレナル家に入ったこともあり、妻に頭があがりません。彼がミゲルを認知しなかったのも、夫人の意向だと専らの噂です。
下賤の女、それも夫の浮気相手が産んだ子を自分の娘が「おにいさま」と呼んでいることに、気位の高い夫人は耐えられなかったのです。実力行使で2人を引き離しにかかりました。
ミゲルは粗末な部屋に閉じこめられ、2ヶ月もの間毎日鞭で打たれ続けました。
「お嬢様に近づくな」
「お前は卑しい平民だ」
「立場をわきまえろ!」
教育係と呼ばれる男たちに鞭と罵声を浴びせられ続け、「自分が側にいてはクレアに迷惑がかかるらしい」と悟らずにはいられませんでした。
その間、クレアも公爵夫人から直々に教育を施されていました。それは洗脳に近いものだった、と後に使用人たちの噂でミゲルは聞きました。
お前は由緒あるレナル家の公女だ、卑しい平民なんかと慣れあっては品位が下がる……幼い少女に、そういったことを延々と説いていたというのです。
2ヶ月後、夫人立会の元でミゲルはクレアと再会しました。言われたとおり、まず使用人として頭を下げます。
「お嬢さま、おひさしぶりです」
顔をあげたミゲルの頬に、クレアの平手が飛んできました。
「ひざまずきなさい、ぶれい者!」
ああ、クレアはすっかり変わってしまったんだ……床に膝をつきながら、ミゲルは悲しい気持ちになりました。
傍らでは公爵夫人が、満足げに微笑んでいました。
以後、ミゲルはクレア専属の従者となります。
娘の態度に安心した公爵夫人が、憎い浮気相手の子に屈辱を与えるにはもってこいの方法だ、と考えたのでしょう。
クレアはミゲルを従者として虐げ続けました。無理難題を押しつけ、それが出来ねば罵倒するといった始末でした。
そんな理不尽な仕打ちに、ミゲルは黙って耐え続けました。これは彼女の復讐なのだ、と思いました。
貴族意識に目覚めたクレアは、平民なんかと親しくした自分の過去を恥じているのだ。だからそんな真似をさせたミゲルのことが、憎くて仕方ないのだ――そう考えるしかありませんでした。
1年後、大陸歴1293年。
クレアと帝国第三皇子の婚約が正式に決まりました。クレアとミゲル9歳の時です。
これでいいんだ、とミゲルは自分に言い聞かせます。
彼のクレアへの想いは依然変わっていませんでした。でも彼女は公爵令嬢で、しかも実の妹です。どれだけ恋焦がれても、結ばれることは不可能なのです。
自分は一生、従者として彼女を支え続けよう。そう心に誓いました。
たとえ、どれだけ憎まれようとも……。
♢
隣国ダールで市民革命が起こり王政が打倒された後、「ロマンス小説」と呼ばれる自由恋愛を謳った物語が誕生しました。
平民の少女が名門学校に入学し、そこで皇子や貴族の子弟たちと恋に落ちる、という筋の一連の作品群です。
これらはスタン帝国にも伝わり、特に貴族の令嬢たちの間で爆発的に流行しました。恋を夢みる乙女心に、身分の違いはなかったのです。
危機感をおぼえたのは帝国政府でした。貴族と平民の恋を描いた小説など、身分秩序を揺るがす悪書ではないか。そんなものが広まれば平民どもがつけあがるだけだ、というわけです。
ちょうど帝国でもいつ隣国のように市民革命が起こるかと、首脳部は神経を尖らせていた頃でした。一部の特権階級が富を独占し平民が貧困に喘ぐという状況は、革命前のダールと酷似していました。
政府はロマンス小説を発禁処分にしました。嘆いたのは熱烈読者の令嬢たちです。
人間、禁止されると反ってどうしても欲しくなるものです。ロマンス小説のような恋愛物語を渇望する令嬢たちの欲求は、日に日に高まっていきました。
大陸歴1298年。
クレアが14歳で文壇に登場し、「悪役令嬢小説」を世に送り出したのはそんな時でした。
これはロマンス小説の中でヒロインの当て馬にされる貴族の令嬢――悪役令嬢に読者の少女が転生し、破滅の運命を免れるため奮闘するという物語。
もちろん奮闘の果てに、自分を婚約破棄した王子よりも格の高い王子と結ばれる、というロマンスも用意されていました。
この新しい形式の小説を、恋の物語に飢えていた令嬢たちは熱狂的に迎えます。しかも今度は、帝国政府も好意的でした。
「悪役令嬢小説」の中で奮闘し健気に描かれるのはあくまで貴族の令嬢、従来正統派ヒロインだった平民女子は令嬢の邪魔をする嫌な奴として登場します。
つまり「貴族を礼賛し、平民を貶める」ための格好の宣伝材料になる、とお偉方は考えたのです。
読者の支持と国の後ろ盾を得て、悪役令嬢小説は爆発的な流行となりました。クレアは次々と新作の悪役令嬢小説を執筆し、十代半ばにして一躍時の人となったのです。
これにより、いくつかの問題も生じます。ひとつは帝国の若い貴族たちの間で"婚約破棄"が流行ったのです。
横暴な従来の婚約者と縁を切りより有望な殿方と結ばれる、そんな小説内の悪役令嬢に憧れる少女たちが急増したのでした。
彼女たちは顔の見飽きた己の婚約者に、冷淡に接するようになります。当然男の方でも面白くなく、やがて婚約破棄を突きつける。令嬢たちはそれを嬉々として受け入れる(その後の幸福の保証もないのに)――そんな事例が、連鎖反応の如く次々に生じました。
それでも帝国政府は、悪役令嬢小説を支援し続けます。婚約破棄などという些細な問題よりも、平民の頭を押さえつけることが肝要だと考えたのでした。
またクレアが文壇に登場した頃から、婚約者である第三皇子が目に見えて彼女を煙たがるようになります。
男はえてして、連れ合いが自分以上の声望を得ることを歓迎しないもののようです。
皇子は頻繁に他の女性と浮名を流すようになりました。
♢
大陸歴1299年。
15歳のクレアは帝立学院へ入学しました。
婚約者の第三皇子、そしてミゲルも一緒です。当時の貴族たちは、学院に入学する子弟の身の回りの世話をさせるため従者も生徒として送りこむことが、半ば慣例化していました。
入学してからも、やはりミゲルはこき使われ続けました。クレアが彼に自分の課題を丸投げしていたのは、先に記したとおりです。
そんなクレアの学院での評判は、決して芳しいものではありませんでした。
この頃の彼女は自身の作家としての才幹をひけらかし、傲慢に振るまうようになっていたのです。
殊にそれは、第三皇子に対して顕著でした。
「殿下は本当に、物事をご存知ないですわねえ」
そんなことを言って、場を凍りつかせたことも一度や二度ではありません。
当然、皇子の心象は悪くなるばかりです。彼はますます女遊びにのめり込んでいきますが、「それも無理からぬこと」と周囲は同情的でした。
「まるで本物の悪役令嬢みたいね」
クレアについて、そんな評さえささやかれはじめます。
ミゲルは不安でした。このままではクレアはいずれ本当に、皇子から婚約を破棄されてしまうのではないか?
婚約破棄の流行は依然続いており、学院の中でも毎日のように「君との婚約を破棄する!」というお決まりの台詞が響いています。
周りに流されやすい第三皇子のこと、クレアとの婚約破棄はとっくに考えていることでしょう。
そんなことになれば、いくら権勢を誇る公爵家の令嬢といえどもう帝国にはいられません。それこそ物語の悪役令嬢のように、「追放」の憂き目にあってしまいます。
どれだけ虐げられようと、やはり彼にはクレアを憎むことができません。彼にとっては未だに大切な妹であり、女主人であり、想い人なのです。
クレアたちが学院の最終学年である3年生に進級した頃、いよいよミゲルの懸念が現実味を帯びてくる事態が発生しました。
何と第三皇子が、新しく学院に入学したシェリルという平民の女子と恋に落ちたのです。
つつましく素朴なシェリルの人柄に魅了され、女遊びで有名な皇子があろうことか今度は本気だとか――まるで本当にロマンス小説のような成り行きではないですか!
「お嬢さま、もう少し皇子殿下にやさしくされた方が……」
たまらずミゲルが進言すると、クレアは眉を怒らせます。
「なんですって?」
「よ、よからぬ噂も聞こえてきます。このままでは、お嬢さまのためにならないかと……」
「余計なお世話よ、生意気ね!」
クレアは癇癪をおこし、握っていたペンを床に叩きつけました。
「立場をわきまえなさい。また昔のように鞭で打たれたいの!?」
ミゲルの身体中には、今も教育係から打たれた鞭の痕がまざまざと残っているのでした。
ミゲルは途方にくれました。クレアはまるで聞く耳を持ってくれません。
クレアはますます高飛車に振る舞いました。そのうち、クレアがシェリルに嫌がらせをしている、という噂まで囁かれはじめます。皇子との婚約の破綻が時間の問題なのは、誰の目にも明らかでした。
一体クレアは何を考えているのだろう、と思いました。
まるで、自分から婚約破棄を望んでいるようではありませんか。
とうとうその時がやってきました。
「クレア=レナル嬢、君との婚約を破棄する!」
大陸歴1302年の一日。
帝立学院卒業パーティの席上、シェリルの肩を抱きながら、第三皇子がお決まりの宣告をクレアに突きつけたのです。
「ああ、やっぱりね」と、周囲の生徒たちから嘲笑が漏れます。
「君は皇族である私の婚約者にふさわしくない。傲慢で不遜な振る舞い、しかもあろうことかこのシェリルに対して度重なる嫌がらせまで行っていた。中には犯罪紛いのものもあったと聞くぞ!」
クレアの横に控えていたミゲルは、思わず身を乗り出しました。それは完全な冤罪です。常にクレアに従っていた彼には、女主人が嫌がらせなどしていないことがわかっていたのです。
ところがクレアは一切反論することなく、黙って頭を下げました。その横顔を見て、ミゲルはますます訝しく思いました。
婚約破棄を突きつけられたクレアは、何と嬉しそうに微笑んでいたことでしょう……。
♢
卒業パーティでの婚約破棄騒動から日をおかず、クレアの国外追放が決定しました。
この破談は表面的には第三皇子が他の女性に乗り換えたことが原因なのは誰の目にも明らかなのですが、帝国として皇族の非を認めるわけにはいきません。
クレアには「第三皇子及びその婚約者への不敬罪」という、ひどく曖昧な罪が着せられたのです。
母である公爵夫人は、もはやクレアを庇おうとしませんでした。「家名に泥をぬって、恥さらし!」と罵って後、二度と娘の前に姿を現さなかったのです。
父の公爵は当然、妻の言いなりです。徹頭徹尾主体性のないこの貴族は、おどおどと夫人の横でクレアを見ていただけで、遂に一言も声をかけませんでした。
クレアが屋敷を立ち退く日がやってきました。
がらんとした部屋の中央、鞄ひとつを手にしてポツンと佇んでいるクレアを見て、ミゲルは胸が張り裂けそうでした。
「お嬢さま、どうしてこんなことに……」
悲壮な表情の従僕に対して、当の女主人は飄々としていました。
「悪役令嬢が追放される時は、必ず救ってくれる王子さまが現れるものよ」
「!?……そのような方がおられるのですか、一体どこに!」
「いるじゃない、今、私の目の前に」
ミゲルは呆然と、自分を指差しました。
「わ、私ですか!?」
「私は世間知らずの貴族令嬢よ。このまま世間に放り出されたら、たちまちのたれ死んでしまうでしょう。今は女ひとりで生きていくには辛すぎる時代よ、でも皇子に婚約破棄された女を受け入れてくれる男なんてどこにもいない……ミゲル、私をもらってくれるでしょ?」
「も、もらうというのは、つまり……」
「妻にしてくれ、と言っているの」
ミゲルが言葉を失っている間にも、クレアは続けます。
「私、これから隣国ダールへ亡命しようと思うの。もちろん貴族の地位を捨て、一市民として」
「ダールへ!」
「もう仲介人とも話はつけてるわ。あそこなら私たちが血縁だと知る者はいない、堂々と夫婦を名乗れるはずよ」
あまりにも手際が良すぎます。ひとつの考えが、ミゲルの脳裏によぎりました。
「まさか……まさかあの婚約破棄は、お嬢さまが自分で仕向けて!?」
「だって、私がここまで追い詰められなかったら、お兄様は決心してくださらないじゃない」
お兄様。
10年ぶりに聞いたその呼び名と共に、ミゲルは理解しました。
たしかにここまでクレアが追い詰められなければ、彼は終生自分の想いを封印していたことでしょう。
彼女とは身分が違うし、何より実の妹なのです。
しかし事ここに至っては、クレアの言うとおり自分が彼女を妻にする他、彼女を救う術がありません。
ミゲルに決断を促すため、クレアは全てを捨てたのです。自らを破滅に追いやったのです。何年もかけて!
「あのシェリルは……」
「色町まで出かけて、童顔の娼婦に依頼したの。伝で学院に入学させてあげるから皇子を籠絡してくれ、謝礼はたっぷりはずむってね。どういう女が皇子の好みかもしっかり教えてやったわ。控え目で従順、要するに私と正反対に振る舞えばまず間違いないってね」
愉快そうにそんなことを言うのですが、その皇子の嗜好自体、クレアが長年かけて誘導した結果ではないだろうか、と思えてならないミゲルでした。
「彼女を虐めていると噂を流したのも、お嬢様自身ですね」
「そうされたと皇子に吹きこむよう、シェリルに指示したのよ。その方が婚約破棄されやすいでしょうしね……他に聞きたいことは?」
疑問は山ほどありますが、差し当たって実際的な質問をせねばなりません。
「ダールへ亡命すると言いますが……わ、私に彼の地でお嬢さまを養うことができるでしょうか。何の伝もないのに……」
「大丈夫、あの国は革命依頼産業が盛んで、常に人材に飢えているわ。お兄様の学識と肩書きがあれば引くて数多よ、何せ帝立学院の首席卒業生なんだから」
そう、クレアの成績は同学年中常に次席でしたが、その上の首席にいる者こそミゲルなのでした。
入学以来、ミゲルは常にクレアの、課題を押しつけられてきました。それこそ身の回りの世話をする暇もなく、ほぼ勉強漬けの3年間だったと言えます。
そのおかげで学力が向上し、ついに首席にまでなれたというのはミゲルも自覚はしていたのですが……あるいはそれも、この日の為にミゲルに独り立ちできる力量をつけさせようという、クレアの計画だったのでしょうか。
「加えて、皇子からもらった手切れ金もあるしね」
「手切れ金!?」
「私に不敬罪は課せられたけど、皇子が他の女と浮気していたのも事実よ。婚約破棄の無効を求めて裁判でも起こされればあちらとしても面倒、そうしない代わりに手切れ金をいただいたのよ。金銭の他にも皇子がダールに所有していた農場と工場をひとつずつ貰い受けたわ、当面飢えることはないはずよ」
何という強かさでしょうか。一体いつから、どこまで見通していたのか。目の前の女主人に畏怖さえ覚えるミゲルです。
それも全て自分のためにしてくれたのだ、ということが、彼には未だに信じられません。
「わ、私はお嬢様に憎まれているとばかり思っていました。だって……」
「"お嬢様"は嫌、"クレア"と呼んで!」
突然、クレアが叫びました。
「この10年間、私がお兄様に辛く当たってきたことを言うのね? 仕方ないじゃない、そうしなければまたお母様は私たちを引き離してたわ!」
それもクレアの言うとおりでしょう。学院の中にもレナル公爵家の監視の眼は入っていました。
ミゲルが少しでも馴れ馴れしい態度を取れば、たちまちクレアの従者を解任されたはずです。クレアはまずミゲル自身をだます必要があったのです。
「それとも、私の言うことが信じられない? 散々ひどい仕打ちをしてきた私を、お兄様は憎んでいるの? 私のこと、嫌いになったの!?」
悲痛な表情を浮かべるクレアに、はっとミゲルは胸を打たれました。
この顔を、彼は見たことがありました。彼がはじめて「お嬢様」と呼んだ時、クレアは同じ表情を浮かべ彼の頬を叩いたのです。
何のことはない、最初に彼女の手を振り払ったのはミゲルの方なのでした。その彼を再び手に入れるため、クレアは令嬢としての華やかな人生を棒に振ったのです。
だったら……もうミゲルに迷いはありませんでした。
「君をきらいになるなんてありえないよ、クレア」
名を呼ばれ、パァッとクレアの顔が輝きます。
「信じてくれるの? 何年も酷い仕打ちをしてきた私を……」
「君になら、だまされたって構わないさ」
「まあ、意地悪なお兄様。大好き!」
ミゲルの胸に飛びこみ、クレアは泣きじゃくります。
「これは私の復讐よ」
ひとしきり泣いた後、夢見るような声でクレアは囁きます。
「あの時私から離れたあなたを、一生私に縛りつけてあげる。覚悟してね、お兄様」
「……これから夫婦になるというのに、"お兄様"は変じゃない?」
「10年間我慢したんですもの、今だけは呼ばせてよ。お兄様、おにいさまおにいさまおにいさま……」
妹の身体をやさしく抱きしめながら、二度と離さないと誓うミゲルでした。
♢
10年後。
大陸歴1312年。
スタン帝国で市民革命が勃発します。
この革命は瞬く間に成功を収め、最初の放棄から三日後には帝政が瓦解、スタン市民政府が誕生しました。皇族や貴族の半数は他国に逃れ、半数は市民に囚われ処刑されたと言われています。
革命指導者たちさえ拍子抜けするほど呆気なく、貴族は敗れ、帝国は滅んだのでした。
なぜそんなことになったか?
様々な要因があるでしょうが、その一つに「貴族の婚姻率低下」を挙げる説があります。
クレアが追放された後も帝国では別の作家たちが悪役令嬢小説を次々発表し続け、婚約破棄の流行は収まる気配を見せませんでした。
更に第三皇子とクレアとの婚約破棄が流行に拍車をかけることとなりました。「皇族でさえするんだから、自分たちも……」と、貴族の若者たちは一種免罪符を得た気持ちになったのです。
こうして貴族の婚姻率は、低下の一途をたどることとなりました。
言うまでもなく貴族の婚姻とは政略のひとつです。どの家も子供同士を婚姻させることで他家と繋がり、権勢の拡大を図るものです。
つまり婚姻率が下がればそれだけ各家の力が弱まり、貴族間の紐帯もゆるむことになるのです。
「そんな状態に陥っていた中で市民軍の襲撃を受けたものだから、各地の貴族たちは満足に連携することもできぬまま各個撃破されていった。それがスタンでの市民革命が容易になし遂げられた大きな要因である。つまりこの革命の成功は、悪役令嬢小説によってもたらされたも同然だ」
……革命後間もなく、そのような主張が唱えられはじめたのでした。
無論傍証もなく、いささか空想的なきらいも否めず、俗説の域を出ないものではありましたが、一部の識者はこの「悪役令嬢小説起因説」を根強く支持し続け、後世この革命は「悪役令嬢革命」の俗称まで得るに至るのです。
なおこの革命により時の皇帝および皇族の殆どは投獄、のち断頭台の露と消えてしまいます。第三皇子は混乱の中行方不明となり、その妃候補だったシェリル嬢は革命が起こる何年も前に姿をくらませていたとのことです。
帝国随一の名門貴族であったレナル家も、当然粛清を免れませんでした。公爵および公爵夫人は処刑され、その子弟は半数が処刑、もう半数が国外追放という憂き目にあっています。
断頭台へ向かう際、レナル公爵夫人は最期まで声をからしながら「下種な平民が貴族を手にかけるなど、恥を知れ!」などと喚き続けていた、という逸話が残っています。
市民革命の報は、隣国ダールの地方都市に居を構えるミゲルの元にも届きました。
この時彼は複数の工場を経営する実業家として、一角の人物となっていました。
報を受けた彼は重い足取りで、妻の元へ向かいました。
「クレア、スタンで……」
「革命が起こったのでしょう、知ってますわ」
彼の妻――クレアは居間の椅子に座り、今年5歳になる娘を抱きかかえ愛おしそうになでています。見るからに満ち足りた様子です。
「お父様とお母様も亡くなったそうね。革命政府からすれば当然でしょう、レナル家は帝国貴族の象徴だったのだから」
「……悲しくないのか?」
「悲しむ? なぜ?」
クレアは眼を怒らせて、ミゲルに向き直ります。
「あの人たちはあなたと――お兄様と私を引き離したのよ。10年も! 私はその間、”お兄様”と呼ぶこともできなかった。お兄様の身体には一生消えない、鞭の痕が残った。これらを強制したのは母だったけど、見て見ぬふりをしていた父も同罪。死んで当然の人たちよ、悲しむ理由はないわ」
クレアの語気のはげしさに、腕の中の娘が泣き始めました。クレアはあわててなだめます。
もしやこれこそが、クレアの真の復讐だったのではないか。ミゲルはふと、そう思いました。
「悪役令嬢小説起因説」は、ミゲルの耳にも届いていました。クレアはこうなることを予想して、いやこの事態を呼びこむためにこそ悪役令嬢小説を世に出し、自分との婚約を破棄するよう皇子を誘導したのではないでしょうか。
自分たちを引き離した父と母を――ひいては貴族制度そのものを、国ごと滅ぼしてしまうために。
問いただしたい衝動にかられましたが、ミゲルは自制しました。
目の前の妻は自分との間にできた娘を胸に抱きながら、聖母のような笑みを浮かべています。
本当に、本当に幸せそうで、もう悪役令嬢の面影などどこにもありませんでした。
(了)