◆第2節 詰めたセメントの代償
次の年、「ワイン事件」を起こしながらも、光輝は悪びれることもなく相変わらず思いのままに行動していた。よくつるんでいたのが幼稚園に入る前からの幼馴染である青田康(アオタ ヤスシ、通称ヤッさん)、川原保(カワハラ タモツ、通称タモッちゃん)、細木和也(ホソキ カズヤ、通称カズ坊)の3人だ。
ヤッさんは、大柄で腕白だが可愛げがあり、どこか憎めない性格で幼稚園の保護者達にも好かれていた。なぜか光輝を気に入り、喧嘩の弱い光輝にとっては兄貴分と言ってもいい存在だった。彼は、光輝の家から歩いて5分くらいのところにある長屋に住んでいた。お父さんは鳶職人だ。すぐそばには、国宝に指定された有名な寺が建っており、そこの敷地でも4人は一緒によく遊んでいた。
タモッちゃんは、坂の下にあるオシャレな一軒家で暮らしていた。茫洋とした風貌には少し大人びた貫禄があり、実際、お菓子問屋の跡取り息子という「お坊ちゃん」だ。
カズ坊は、タモッちゃんの家の向かいにある自動車整備工場の息子だった。弟が2人いる面倒見の良い兄貴で、同い年だが光輝を兄のように慕っていた。
その日、4人は近所のある工場へと忍び込んで遊んでいた。休日で操業はしておらず、警備員の姿もない。冒険心に駆られ、いろんな場所を探索していたが、光輝はこの工場の従業員に恨みを抱いていた。以前、カズ坊と遊んでいるところを絡まれ、からかわれたのだ。泣き出したカズ坊を見て光輝も泣いた。怖いというより、カズ坊に恥をかかせたくなくて一緒に泣いたようなものだったが、従業員達はそんな彼をあざ笑った。
「弟に聞いたけど、こいつ、幼稚園でもすぐに泣きよるらしいで。弱い奴や」
「そんなことないわ、アホ!」
「おっ、いっちょ前に口ごたえしやがって、ボケ」
従業員の一人が光輝の額を小突いた。
その恨みを晴らしてやろうと考えていた光輝の目が、工場の入り口に止めてあった車を捉えた。近づいて確かめてみると後ろのドアには鍵がかかっていない。そばにセメント袋が転がっていた。
「ええもん見つけたぞ!」
仲間たちが見守る中、光輝はそれを抱え上げ、いきなりリアシートに中身をぶちまけた。
「ミツキ、いくらなんでもそれはアカンやろ!」
さすがのヤッさんが青くなっている。タモッちゃんもカズ坊も驚きで固まってしまっていた。
「面白いやろ! カズ坊、こないだの復讐やで。これでこの車は二度と動かへんわ!」
光輝は強がったが既に後悔し始めていた。
「これはとんでもないことをしでかしたかもしれない。今度の今度はお父さんも怒るに決まってる」
そう思うと急に怖くなり「わぁー」という叫び声を上げた。それを合図に4人はそれぞれバラバラの方向に走って逃げ始めた。
走り続けながらも光輝は、今にも警官が追いかけてきて自分を捕まえるのではないかと気が気ではなかった。
「家には帰れへん。きっともう警察は家に来てる。捕まったら僕は死刑になるんや」
思いは悪い方悪い方へと流れ、もうどこを走っているかもわからなかった。だが、気が付くと家の裏手を流れる川に出ていた。土手を歩き斜面にうつ伏せになって隠れた気になった。心臓がバクバクと脈打っている。
「いつまでここに隠れていれば助かるやろ?」
光輝が不安におびえていた頃、工場の所長から家に電話が入っていた。近所ということもあり、両親はその所長と親しく挨拶を交わす仲だった。
「華原さん? 工場の清水(キヨミズ)ですわ。今、細木さんから電話があってね。子供ら4人で車にいたずらしたと。カズ坊が泣いて打ち明けたそうです。来てみたらセメント詰められてましたんや。どうやらお宅の光輝君がやったみたいでね」
「何ですて?」
驚いた俊と久恵はすぐ工場に駆け付け、清水所長に平身低頭して謝り続けた。
「息子が大それたことしでかしまして、ほんまにすみません。弁償はさせてもらいます」
「まぁ、幼稚園児のしたことやから大事にするつもりはないんです。せやけどね、ちょっと光輝君を甘やかしすぎちゃいますか? 失礼やけど。今回はええ機会ですから、きっちり躾し直さはったらどないです」
皮肉交じりのその言葉に俊も久恵も何も言い返せなかった。
家に戻った2人は、とりあえず光輝の帰宅を待つことにした。ところが、いくら待っても帰ってこない。そのうち空が暗くなり夜の訪れの気配が漂い始めた。
「お父さん、光輝帰ってけえへんね。警察に言うた方がええんちゃいますか?」
「うっ、ううん……そうやな。近頃ぶっそうやし、交番の羽柴(ハシバ)さんに相談してくるわ」
そう言うと俊は家を出て交番に向かった。事情を聴いた羽柴警官は光輝のこともよく知っていた。
「あの子、よう川の土手のとこで遊んでるやろ。あそこちゃうかな? 小さい子は知っているとこにしか行かへんと思いますよ。私が行ってみますから、お父さんは家で待っとってください」
羽柴警官は懐中電灯を手に川の土手へと向かった。案の定、光輝はそこにいた。斜面に隠れているつもりなのか、うつ伏せになって身を縮めている。
「光輝君、見つけたよ。羽柴のおっちゃんや。暗いからもう帰ろ。あんまり怒らんようにご両親には言ったげるから」
警官の優しい言葉に光輝の緊張の糸がプツリと切れた。
「わーん」
大声で泣きながらしがみ付いてきた光輝を抱きかかえ、羽柴警官は家まで連れ帰ってくれた。
「はい、光輝君、無事でしたよ。あんまり怒らんとってあげてな。せやけど、光輝君もいたずらは程ほどにせんとあかんよ。人の迷惑も考えな」
「ありがとうございました、羽柴さん。よう言い聞かせます」
俊が頭を下げると羽柴警官は軽く敬礼をして帰っていった。その大きくてたくましい背中を見送りながら、光輝は一体どれほど叱られるのかと不安になった。
ちゃぶ台を3人で囲んでどれくらいの時間が経っただろうか。誰も一言も口にしない。ただ母久恵の押し殺したむせび泣きの声がするだけだった。祖母のフサも伯父の信彦も遠慮してか姿を見せない。
「なんであんなことしたん?」
ようやく口を開いた久恵の問いに光輝は答えられなかった。黙ったままでいると、俊がゆっくりと諭すように語りかけてきた。
「ええか、お父さんは学校の先生や。お前は先生の子供なんやぞ。それをもっと自覚せなアカン。やってええことと悪いことの区別ぐらいつけへんのか。ワインの時から考えとったけど、もう甘やかさん。わかったか」
久恵が後を続けた。
「そうよ。アンタが変なことをしたら笑われるのはお父さんなんやで。それを忘れたらアカン!」
「うん、わかった。ごめんなさい」
この時代、「教師の子供」はまだ特別な目で見られる存在だった。そのプレッシャーを初めて身をもって感じた光輝は、徐々に周りの目を気にするようになっていく。