◆第2節 その時、ジョンは死んだ
大学生活でも、光輝は「孤立感」を味わっていた。それは高校時代と同じ、いやそれ以上の居心地の悪さをクラスに感じていたからだ。『青春の門』を読み共感した若者の姿はそこにはなかった。バンカラで反骨精神に富み社会の束縛から自由であろうとする気風。先輩達の中にはそうした匂いを感じさせる人間はまだいたが、クラスの新入生の中にはまずいなかった。
「社会に出るまでのモラトリアム、楽しいキャンパスライフを送りましょう」
そう公言して、ファッション雑誌やおしゃれアイテムに夢中になっている無邪気なクラスメイトには全く馴染めなかった。マスコミの垂れ流す情報を真に受け、得意になってステレオタイプの発言をしている姿は見ていられなかった。
「ちょっと恥ずかしすぎるやろ、いくらなんでも」
いきおい、光輝は学校の外に楽しみを見出すようになる。
「出演者としてはまだ無理でも客としてなら行ってみたい」
都内のライブハウス通いが始まった。吉祥寺のぐゎらん堂やのろ、曼荼羅をはじめ、北千住の甚六屋という小さな店にも足を運んだ。甚六屋では、出演していた中川五郎さんと帰りが一緒になり、勇気を奮って話しかけ会話を交わすことができた。他には、友部正人や三上寛、シバなどをよく見に行っていた。売れているミュージシャンを生で見たいというよりは「自分だけのスター」を見つけたかった。当時はそういう気持ちでライブハウスを巡っていた人は多かったように思う。だから、一つの文化となり得たのだろう。
11月、プロ野球界に大激震が走る。ドラフト制度の穴を突いた「江川事件」だ。ドラフト会議前日の21日、いわゆる〝空白の1日〟を利用して巨人は江川卓(作新学院職員)と契約を結んだ。世間では賛否両論が渦巻いたが、光輝にはもうどうでも良かった。あれほど好きだった野球から、気持ちは音楽へとシフトしていた。
年が明けて2年になり、光輝は「ドロップ」という店に入り浸るようになった。友人のアタカが勧めてくれたライブハウスだ。彼の年上の飲み友達である筒美範一(ツツミ ノリカズ、通称ノリさん)と江藤正幸(エトウ マサユキ、通称マサさん)がよくデュオで出演していた。
ノリさんは光輝より2歳上の美学校の学生で、既にライターとして雑誌社に記事を書いていた。名前の通りノリが良く口もうまかった。マサさんは3つ上の、今でいうイケメンだった。背も高く女の子によくモテた。定職に就くことなく、金がなくなるとバイトをして凌ぐという「その日暮らし」の生活を送っていた。「俺たちの旅」の世界が現実にもあると知り、光輝はマサさんに少し憧れた。
彼らは「武蔵野タンポポ団」の曲を好んでプレイしており、光輝がラグタイムという音楽を知ったのも彼らの影響が大きかった。毎日のようにお店に顔を出し、ノリさんやマサさんと「セッション」をするのが楽しみになった。自然と学校には足が向かなくなった。
1980年、昭和55年になると、ドロップのオーナーは相変わらずフラフラしているマサさんが心配になったのか、自分の代わりに店をやらないかと持ちかけた。
「家賃を払えば、残りの金は自分のものにしてかまわないよ」
破格の条件だった。
「ほんとですか。是非やらせてください!」
マサさんに拒否する理由などあろうはずがなく、彼は店の新たなマスターとなった。光輝はさらにドロップに入り浸り、無償で店を手伝うようになっていた。2階に寝泊まりできるスペースがあり、飲み過ぎて帰るのが面倒になるとそこによく泊まった。
一緒に店をやる中で光輝とマサさんの距離は自然と縮まった。それはお互いに装う余裕がなくなり、素顔をさらし合うことでもある。マサさんは表向きは気さくで話のわかる「兄貴」だったが、その実、自信満々でプライドが高く、冷淡で気難しいところもある人だった。当初は手伝いを「お願いする」というスタンスだったのが「命令する」ような接し方へと変わっていった。
彼は光輝の一歩踏み出せない本性を知り見下すようになっていた。光輝は相手が年上だったこともあり我慢を重ね続けた。それを「言い返せない気の弱い奴」と一人合点したマサさんは、さらに光輝をぞんざいに扱うようになった。
やがて、季節は初夏になった。
マサさんは店にやってきた光輝を見るや椅子に座らせ、いきなり切り出した。
「おい、ミツキ。例の旅行のことなんだけど……」
そう言われて光輝は思い出した。この春、マサさんのファンで恋人の看護学生・悦子(エツコ)が旅行の話をしていたことを。
「旅行行きたいね、マサ」
「俺はいいけど、エツコ。親は大丈夫なのか」
「そうねぇ、2人きりはさすがにヤバイかも。そうだ、友達も呼んでグループ旅行にしちゃえば行けるよ!」
「それ、乗った。じゃぁお互い誰かに声かけようぜ」
結局、どうせなら彼氏募集中の悦子の女友達3人と、彼女がいないマサさんの知り合い3人の出会いの場を作ろうという流れになった。テレビで人気の「フィーリングカップル5vs5」を意識したようだった。光輝はそのメンバーの一人として誘われていた。
「……辞退してくんない? エツコの友達はマジで彼氏を見つけたいらしくてさ、エツコがどうもお前じゃ納得できないみたいなんだよ」
にやにや笑いを浮かべながら、マサさんはからかうようにこちらを見ていた。
光輝は黙って立ち上がるとマサさんをいきなりぶん殴った。びっくりした顔で倒れ込んだ相手を振り返ることなく、店を後にする。決別のパンチは拳ではなく胸に痛かった。旅行に行けないことより、友達と思っていた人間から受けた残酷な仕打ちに心はズタズタに切り裂かれ血まみれになっていた。
「タモッちゃんはええけど、ミツキ君は嫌や、とみんな言うてる」
小学校時代のカズ坊の声が頭の中で反響する。あの時は自分のわがままが招いた悲劇だった。でも、今回は……。
その夜、光輝はアタカを誘い出し正体を失うまで飲んだくれた。
大学はまもなく夏休みに入ろうとしていた。
それから半年近くが過ぎ季節は冬になった。
夏休みが終わり大阪から東京に戻った光輝は、バンド結成に動いていたがなかなかメンバーが決まらない。
忘れもしない12月9日のことだった。いつものようにアタカと飲み歩き酔っぱらって深夜に帰宅した光輝はラジオをつけた。2年前の1978年にシングル「勝手にシンドバッド」でデビューし、翌79年の「いとしのエリー」が大ヒットしたサザンオールスターズ の桑田佳祐が、普段とは違う沈鬱な声でしゃべっている。
「ジョン・レノンが死んだ」
言葉ははっきりと聞き取れた。しかし、その意味するところが全く頭に入ってこない。酔いは一気に冷めていた。
「ジョン・レノンが死んだ? この人は一体何を言っているのだろうか?」
悪い冗談だ。だが、ラジオのチャンネルをどこに合わせても、どこもかしこも「ジョンの死」を伝えていた。内田裕也が怒ったようにインタビューに答えていた。
それは事実だった。
1980年12月8日月曜日の午後10時50分頃(米国東部標準時、日本時間12月9日午後1時頃)、ジョンはアメリカ・ニューヨーク市にある高級集合住宅ダコタ・ハウスの入り口で、マーク・チャップマンという男に銃撃された。妻のオノ・ヨーコとレコード・プラント・スタジオから帰宅したところだった。市内の病院に救急搬送されたものの、到着してすぐに死亡が確認された。40歳という若さでの死。ヨーコと共作したアルバム『ダブル・ファンタジー』を発表してからひと月も経っていなかった。
光輝は気が付くとタクシーに乗ってドロップへと向かっていた。なぜかマサさんに会わなくては、と思ったのだ。ジョンを神のように敬愛していたマサさん。平日の深夜だというのに、店が近づくにつれて道が混んできた。何やらサイレンの音も聞こえる。とうとう車は渋滞にはまり止まってしまった。
「どこか火事のようですね、お客さん」
「わかりました。ここまででいいです」
光輝はタクシーを降りると走った。ドロップが近づくにつれ人の姿が多くなった。何やら焦げくさい臭いまで漂ってくる。不安が込み上げた。
悪い予感は的中した。燃えているのはドロップの入った雑居ビルだった。2階にあったドロップの窓から炎が空に向かって噴き上げ、激しいダンスを踊っている。
「夢だ、俺は悪い夢を見ているにちがいない」
騒然とするビルの前の路上にマサさんはいた。呆然と店を見上げている。すぐ後ろにはエツコとノリさんの姿もあった。エツコはしゃくり上げ、ノリさんはその肩を優しく抱くようにしながらも唇を噛みしめている。
光輝は彼らの元に行こうとしたが足が動かなかった。何と声をかければいいのか。ドロップが焼け落ちる光景が頭に浮かび、恐怖が体を貫いた。無意識のうちに身を翻し、その場から立ち去っていた。タクシーをつかまえ乗り込むと、できるだけそこから離れようとした。結末を見届けるのが怖かったのだ。目を閉じると、喧嘩別れする前のマサさんや常連達との楽しい日々が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。こぼれそうになる涙を運転手に見られまいと、持ってきたサングラスをかけた。
タクシーのラジオからジョンの歌う「ウーマン」が流れ始めた。その歌声は切なくなるほどあまりにもピュアだった。
「【第5章】〝熱い魂(ソウル)〟の交差点◆第3節 ブルースパワーに魅せられて」は、明日2月15日(土)19時投稿予定です




